19
十字の真ん中に位置したカードは、デスの逆位置だった。
私はそのカードから、再び美里さんの心にある想いに触れた。
一人の男の人が見えた。
悪い人には見えない。
なんだろう……。
男の人には子供がいる。
とても不吉な顔をした、子供が見える。
男の子だ。
顔が見えない。
黒い煙のような靄に包まれ、顔が見えない。
不吉な顔をした子供だ。
歳は小学生くらい。
小学校、高学年くらい。
「男の人が見えます。あと、男の子も。美里さん、この男の人のこと……、好きなんですね? でも、でも……」
その子供は、ひどく美里さんのことを恨んでいた。
お父さんを取られるから?
何か少し違う。
この子供の意志もある。けれど、それだけじゃない。
この子供だけなら、これほど不吉な影を見せたりしない。
なんだろう。
お父さんは……、この美里さんと結婚しようとしていた。
お腹に、お腹に子供がいることを知っていた。
けれど……、けれど、それをこの子が良く思わなかった。
「うっ……」と私は思わずうめき声をあげた。
美里さんが受けた痛みだ。
美里さんが、美里さんがこの子から受けた痛みだ。
「ひどい……」
暴力を受けていた。
この子に。
父親の知らないところで。
目の前にお墓があった。
隣に、男の人と、その子供がいた。
「陽子……、どうかわかって欲しい」男の人はそう言った。
三人は、目の前のお墓に眠る陽子と言う女性に挨拶に来たところだった。
秋も過ぎ、周りに生える広葉樹の葉はほとんど落ちていた。
空は曇っていた。
もし降ってくるのなら、これは雨ではなく雪になるだろう。男の人は鼠色の空を見てそう思っている。
寒い。とても寒い。
男の人は、マフラーを車に忘れてきてしまったことを後悔している。
寒い。寒い……、なんて寒いんだ。
「俺はこの人と結婚しようと思っている。もう、お腹に赤ちゃんがいるんだ」
男の人がそう言った瞬間、空気が急に重苦しくなった。
けれどこの男の人はそのことに気づいてはいない。
男の子は少し、勘づいているようだ。
大きなあくびをした。
あくびをしたのは、眠いからではない。
急激に体にだるさを覚えたせいだ。
美里さんは祈りを捧げるようにうなだれている。
けれど……、けれど……、誰も気づいていない。
美里さんは、頭を何かに押さえつけられていた。
見えない何かに、ぐっーと頭を掴まれ、地面に向けた顔を上げることを許されなかった。
男性も、男の子も、そのことに気づいていない。
何かが……、何か得体のしれない何かが……。
この、お墓に眠る女性だ。
とても不吉なものを感じる。
このお墓に眠る陽子と言う女性が、美里さんを許そうとしないんだ。
「この男性の元に帰りたいんですか?」
私がそう尋ねると、美里さんは目を伏せたまま頷いた。
「そんなにこの男性が好きなんですか?」
「はい」
「けれど美里さん、この男の子に殺されてしまいますよ?」
美里さんは怯えるように息を呑んだ。
「三人でお墓に訪れた時、変な体験をしていますね?」
「変な体験とは?」美里さんは顔を上げ、わざとらしくわからない振りをした。
「頭を押さえつけられていたでしょ?」
「そんな、まさか……、あれは気のせいだと……」
「気のせいなんかじゃありません。陽子と言う……、男の方の死んだ奥さんが見えます」
美里さんは返事をする代わりに、またうつむいた。
「その女性が、美里さんを許そうとしていません。だからあの時、美里さんの頭を押さえつけて、警告をしたのです」
「そんな……」
「その女性は、いま男の子についてきています」
美里さんは恐怖からか、みるみる表情から生気を失っていく。
あれ? と思った。
なんだかさっきから、美里さんの持つ白いハンドバッグが気になる。
何か入っている。
何か、不吉なものが……。
「そのバッグ、なにか……、その、変なもの入れてませんか?」
「え?」
「お墓の女性が……、陽子さん、たしかそんな名前の人……、そのかばんの中から何かを感じます」
「あの……、実は……」そう言って女性は思い当たるものを思い出したのか、カバンの中に何かを探した。
「これ……」そう言って女性は一枚の写真をテーブルの上に出した。
「だめだよ! 見るんじゃないよ!」和代おばさんは、いきなり大きな声を出し、その写真をひったくるように私の目の前から隠した。
「あんたなんてもん持ち歩いてんだい!」和代おばさんは女性に声を張り上げた。
「すみません……。でも、どうしたらいいかわからなくて……」
私は吐き気がした。
一瞬見えたその写真には、男の子を真ん中にして、男の人と美里さんが写っていた。
そしてその写真は全体に陽炎のような炎に包まれていて、男の子の顔は黒い煙に覆われていた。
「こりゃ酷いね……。こんな写真、持ち歩くもんじゃないよ。なんでさっさと処分しないんだい」和代おばさんはそう言って、その写真をレジの下の引き出しに入れた。
「なんとかしといてやるよ。美咲ちゃん、続けられるかい?」
「ええ、大丈夫です」そう言ったものの、少し目を閉じて休む必要があった。
「ゆっくりでいいよ。ちょっと待っておいで」
そう言って和代おばさんは一杯の水をくれた。
「無理はしなくていいんだよ」
「はい……」そう言って私は水を飲み、深呼吸をした。
もう大丈夫、もう大丈夫、と私は自分に言い聞かせ、気を取り直して続きを始めた。
「男の子に、何かされましたね」
「はい……」
「あなたはお腹の中にいる子が原因だと思った」
「はい」
「確かにそれはあります。けれど、もうこの女性の憎悪は手が付けられないほどに膨れ上がっています。私には、この男の子の顔が見えません。もう、近づいてはいけません。引きづり込まれます」
「けれど、もう私は……」
シックスオブソード、私は右側のカードに触れた。
「あなた、この福井の生まれなんですね」
話を変えようと思った。
これから先のことに目を向けよう。
美里さんにとって明るい人生がどこにあるか、それを探るんだ。
美里さんがまだ子供の頃、この福井の海で遊んでいるのが見えた。
まだ幼い、唯ちゃんと同じくらいの年の時だ。
夏の真っ盛り、足元を泳ぐ魚を追った。
照りつける太陽の眩しさも忘れるほど、水の中を走るきらめきに夢中になった。
魚はきらきらと足の間をすり抜け、すぐ逃げられる。
捕まえることができない。
しばらくじっとしていると、またその魚は戻ってきて、からかうように足元をすり抜け、またどこかに行った。
お母さんの呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げると、お母さんが手を振っている。
白いつばの広い帽子をかぶって、手を振っている。
きっとご飯にしようと言っているんだ。
遠くて声は聞こえないけれど、きっとそうだ。
喉が渇いた。
お腹も……、少し減った。
魚は気になったけれど、もうあきらめることにした。
ふと足元に目を落とすと、大きな貝殻があるのに気付いた。
私はそれを拾い上げた。
ピンク色の、まだ砂に削られていない、新しい貝だった。
お母さんに見せるんだ。
「まあ、綺麗ね!」きっとそう言ってくれる。
そう言ってくれるお母さんの顔が見たかった。
家に飾ってもらうんだ。
私は足に着いた砂を洗い、サンダルを履いて焼けるような砂浜を駆け抜けた。
美里さんはその頃のことが忘れられない。
人生で一番幸福だった時だと信じている。
「独りになるのが怖いんですね」
けれど……、けれど……。
中学になった時、恋をした。
誰にも打ち明けられない恋だった。
同じクラスで、絵を描くのがうまい男の子だった。
勉強もできないし、体育も苦手だった。
けれど、その男の子の描く絵は、いつも素晴らしかった。
一度だけ、その子の描いた絵をもらったことがある。
ノートにした落書きだったけど、とても嬉しかった。
夏の海辺の絵だった。
空に雲が浮かんでいて、波打ち際に女の子が一人立っている。
白いノースリーブのワンピースを着て、麦わら帽子をかぶっている。
水の中に何かを見つけて拾い上げている絵だった。
私はまるでそれが、自分のように思われた。
「いいなあ」と思った。
いつまでも大切にしよう。
私はその絵を他の思い出の写真とともにアルバムに入れた。
どこに行っただろう。
まだどこかにあるはずだ。
大切にしまってあるはずだ。
見たいなあ……。
見たいなあ、あの絵、もう一度……。
「美里さんを見守る誰かの影が見えます」
「見守る?」
「ええ。美里さんの知っている人ですよ?」
「けれど、ここにはもう……」
「ええ、身内の方は、もう誰もいませんね。けれど……、友人か誰かがまだいます……」
私はここまで見て、ひどく疲れていた。
「絵を、絵を持っていますね? アルバムに入れた、波打ち際に立つ女の子の絵です」
「え? あ! ああっ!」美里さんはそう言って何かを思い出すと、急に晴れ晴れとした顔になった。
「その絵が、美里さんを守ってくれます」
美里さんは何も言わず、目頭を押さえて頷いた。
「あの時の絵を持って、まだここに住む友人を訪ねてください。きっと……、きっと、新しい出会いを見つけることができるはずです……。その人が、ずっと美里さんのことを見守ってくれるはずです」
もうそろそろ限界だった。
力が弱まってきているのがわかる。
「その人を……、探してください……」
私は一瞬意識が遠のき、額に手をやって目を閉じた。
「さあ、もういいだろ」和代おばさんがそう言った。
「私……、まだ……」私がそう言うと、「なに言ってんだい。それ以上やったらぶっ倒れちまうよ」と言われてしまった。
「あの、大丈夫です。ありがとうございました」美里さんはそう言った。
いいんだろうか、本当に。私はまだ、美里さんのことをどこにも導けていない、そんな気がした。
「どうだい。少しは気が晴れたかい?」
「ええ、だいぶ」
「まあ、あんな写真を持ってただけでも、体が重かっただろう。それに……」
「ええ。それに、なんだか大切なものを思い出した気がします」
「そりゃいいじゃないか」
「あの、美咲さんに見てもらっている間、なんだか不思議なんですけど、子供の頃のことを思い出しました。海辺で遊んだ時のことや、母のことや、初恋をした時のこと。私にも、なんだか、そんな時があったんだなあって、そんなことも忘れてて、今はなんだか、晴れ晴れした気分です」美里さんはにこやかに笑いながら、目元を押さえた。
私はそれを聞いて、ふっと肩が軽くなった。
「ほんとに……、ほんとにありがとうございます。ほんとは私、ここに戻って、死ぬつもりだったんです。でも、なんだか、自分を取り戻したって言うか、そんな怖いこと、よく考えてたなって……」
私はその言葉を聞いて嬉しくて目に涙がにじんだ。
私のこの力、こんな風に使えるんだ……。
「お代です。これでいいですか?」そう言って美里さんは、一万円をテーブルの上に置いた。
「ああ、待ってなよ、いまお釣り渡すから」
「駄目です。一万円って言ったじゃないですか。美咲さんの才能を、安く売らないでください」
「こりゃやられたね」そう言って和代おばさんは笑った。
「ほら、受け取りな」
「え?」と私は和代おばさんの顔を見た。
「あんたの力で占ったんだ。あんたのもんだろ」
「え、そんな……」
「そうですよ。幸せにしてもらったんです。美咲さんのおかげで」
私は恐る恐るそのお金を手にして、「ありがとうございます」と言った。
「それでは、帰ります。仕事はどこでもできますし、この福井に戻って、友人と、新しい出会いを探してみようと思います」
「ああ、それがいいね」
「また困ったことがあったら、ここにきていいですか?」
「ああ、いつでも来な」
「はい!」そう言って美里さんは、来た時とは別人のように明るい顔をして出て行った。