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二つの風  作者: Hiroko
16/27

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雨がやんだのは、辺りが少し薄暗くなってからだった。

「雨、もう大丈夫だろ」そう言って弘斗は立ち上がった。

夜の外来の時間が始まるのか、ロビーには人が増え始めていた。

私は病室で触れた、春香さんの「想い」について、まだ弘斗に話していなかった。

話さなければいけないと思いながら、なんだか心の中でうまく話をまとめられずにいた。

と言うのは嘘だ……。

これ以上弘斗を、この問題にどれだけ巻き込んでいいのかわからなかったのだ。

私と唯ちゃんがいなければ、弘斗は春香さんのことを知らずに済んだ。

お兄さんの和斗さんは、独りで亡くなったものだと信じていただろう。

私は弘斗の中で終わったはずのものを掘り出し、その傷を開くようなことをしている。

弘斗のお父さんは、和斗さんの事故で春香さんがこうなっていることを知っていたはずだ。

それをあえて弘斗に話さなかったのは、きっと弘斗の気持ちに対する気遣いだろう。

それを私がこんな風にして暴いてしまってよかったのか。

今日私が見たものをすべて弘斗に話したら、弘斗はどうすると言うだろう。

私は弘斗をそっとしておいてあげたかった。

なのに……、なのに私は、こんな力のせいで……。

「今日は、ありがとな」私をいつもの公園まで送り届けると、弘斗は言った。

「ううん、いいよ」

別れ際にキスをしたけれど、心なしかいつもより寂しいキスだった。

「ねえ弘斗……」私は背中を向ける弘斗を呼び止めた。

「ん?」

伝えたい気持ちがあったはずなのに、言葉にしようとするとそれは目の前で消えてしまった。

「あの……」

「春香さんのことで、複雑な思いにさせちまったな」

「ううん、それはいいの……」

「俺は美咲をおいてどこにも行かねーから」そう言って弘斗は私を抱きしめた。

「うん……」それで心の中の霧が全て晴れたわけではないけれど、その言葉で私は胸が少し軽くなった。


公園から家までは、歩いて五分ほどの距離だった。

雨上がりの道はまだ濡れていて、街灯の光を受けて鈍く反射していた。

街灯の下に、誰かが立っているのが見えた。

高校の制服に、見覚えのある顔だった。

「奈央?」

こちらが気づくと同時に、奈央も私に気づいて顔を上げた。

弘斗と一緒にいるところ、見られなかっただろうか。

たぶん、公園からはだいぶ離れているから、大丈夫……、のはずだけど。

「美咲……」奈央はいくぶん、顔がやつれていて、髪も乱れている。

どうしよう……、また教室での続きをやられては、止めてくれる人は誰もいない。

私は恐る恐る、私を見据える奈央に近づいて行った。

「美咲! ごめんなさい!」奈央はそう言うと、いきなり私の前に土下座した。

アスファルトはまだ濡れていて、そこに奈央は両手をつき、頭を押し付けて叫んだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」

「え、奈央、ちょっと……」私はそう言って顔を上げさせようと、奈央の肩に手をやった。

「今まで、今までほんとに、嫌な思いさせて、怪我までさせて、ごめんなさい!」

「いいよ、気にしないよ。だからね、顔上げて?」私がいくらそう言っても、奈央はアスファルトに頭を押し付けたまま上げようとしなかった。

「私を殴って! 好きなだけ蹴り飛ばして! ずっと酷いことして、怪我までさせて、許せないだろうけど、ね、好きにしていいから!」

「そんなことしないよ。私はもう気にしてないから、ね、顔を上げて?」私はそう言って奈央の背中を撫でた。

「美咲……、許して……。私……、私……、ごめんなさい……」そう言いながら、奈央は泣いていた。

濡れたアスファルトに額を押し付け、肩を震わせながら泣いていた。

「ねえ奈央、どうしたの? 何があったの?」

「お母さんが……、お母さんがね、もう少しで……、もう少しで死んじゃうとこだったの……」そう言うと、奈央は声を上げて泣き始めた。

「そんな……」

「美咲が……、美咲があの時教えてくれなかったら、お母さん、いまごろ……、いまごろ……」

私はあの日教室で見た、奈央のお母さんの姿を思い出していた。

「私がね、私がね、もう少しお母さんを見つけるの遅かったら……、もう少しお母さんを病院に連れて行くのが遅かったら、お母さんは死んでいただろうって……、お医者さんにそう言われたの。だから……、だから……、私、美咲にあんな酷いことしたのに……、美咲はお母さんの命を救ってくれて……、私、なんて言ったらいいか……」そう言いながら泣きじゃくる奈央を、私も地面に膝立ちになって抱きしめた。

「そんなのいいよ、大丈夫だから。それよりお母さんは大丈夫なの? ちゃんとよくなるの?」

「うん……、少し後遺症が残るかもしれないけれど、日常生活はね、ちゃんと送れるようになるって……」

「そう、良かった」

「うん……、うん……。ほんとに、ほんとにありがとね、こんな私……、こんな私なのに……」奈央は力なく私に体をあずけ、いつまでも子供のように泣いた。

私は奈央の濡れた頭を撫で、何の役にも立たないと思っていた自分の力に、今日だけは少し感謝した。


奈央が少し落ち着くと、私は家に連れて帰り、タオルで濡れた髪を拭いて熱いお茶を飲ませ、お母さんに頼んで車で奈央の家まで送ってもらった。

「なんかあんた最近、唯ちゃんのことと言い、友達のことと言い、忙しいのね」と、帰りの車の中でお母さんは言った。どこか探るような言い方だったけど、私は気づかない振りをした。

「人のこともいいけど、自分の体のこともちゃんと気にしてね」

「うん、わかってる」

「あと、進路のこともね」

「うん……」

お母さんが車のワイパーを動かすのを見て、私は初めてまた雨が降り出していることを知った。

窓ガラスが少し曇っていた。

私はシートにもたれかかり、和斗さんと春香さんのことを考えた。

たびたび現れるヘルメットの男の人は、和斗さんで間違いない。

そして、和斗さんが助けて欲しいと訴えるのは、きっと春香さんのことだ。

そして……、何かを探して欲しいと言っていたのは、きっと春香さんの病室で見た、どこかの崖の木の下に埋めたカプセルのことだ。

あれは、本当に今でも埋まっているのだろうか。

あの崖は、いったいどこなのだろう。

それを見つけて、私はどうすればいいのだろう。

春香さんに渡せばいいのだろうか。

渡して、どうにかなるのだろうか。

それで春香さんは救われるのだろうか。

どうすれば……、どうすればいいのだろう……。

「少し寒いわね……」そう言ってお母さんは、車のエアコンを触った。

温かい空気が頬をほてらせた。

私は眠気を誘われ、気が付くと眠っていた。


次の日から学校は春休みに入った。

私はさっそく寝坊をし、昼前になって起きて独り朝ご飯を食べていた。

いつもなら朝の七時に「朝ご飯よ!」と言って起こしにくるお母さんも、昨日の私の疲れた姿を見たせいか、何も言わずに寝かせておいてくれたようだった。

「お昼ご飯、どうするの?」とお母さんが朝ご飯を食べている私に聞いてきた。

私は時計を見て、「うーん、ごめん。食べられない」と答えた。

「そうよね、いいわよ」とお母さんは言った。

時間は朝の十一時だった。

私は朝ご飯を食べ終わると、お母さんに日本地図を貸してもらい、部屋に広げた。

我が家のどこに眠っていたのか、箱はボロボロで色あせていた。おばあちゃんが子供の頃に使っていた、と聞いても信じたかも知れない。いや、もしかしたらほんとにそれくらい古いのかもしれない。大きさは、畳半分くらいはあり、継ぎ目は破れてところどころセロテープが貼ってあった。

私はそれを眺め、昨日春香さんの病室で「想い」に触れた時に見た、崖がどこにあるのか探してみた。

探してみた……。

けれどそんなの、地図を見たところで見つかるはずもなかった。

そもそも、福井県かどうかもわからない。

それを言うなら、日本海かどうかもわからない。

いや、夕陽が見えていた。

と言うことは、たぶん、まあ、きっと、日本海の可能性が高いと言っても過言ではないだろう。

「過言ではない」とは、学校の教科書で出ていた言葉だ。「いいすぎではない」と言う意味らしい。「言い」と「過ぎ」を逆にしただけではないか、と独り授業中に考えてしまった。

私は何となくその言葉が気に入ってしまい、独りでよく使っていた。

そう、「過言ではない」のだ。

地図を眺めているだけでは、どこが崖になっているのかさえよくわからなかった。

夕陽が見えそうな場所は、いくつかわかったけれど、その中で崖になっている場所、バイクで行けそうな場所、木が生えていそうな場所は……、百か所以上あると言っても過言ではなかった……。

昼を過ぎたくらいに、智子おばさんが唯ちゃんを預けに家に来た。

迎えに出ると、「美咲ちゃん、この間は、本当にありがとう」と智子おばさんにケーキを頂いた。

智子おばさんはいつもの元気を取り戻していて私も安心した。

唯ちゃんは私を見るなり靴を脱ぎ、足元に抱き着いてきた。

今日は右の頭に飴玉の飾りのついた青のヘアゴム、左の頭に傘の飾りのついた黄色いヘアゴム、頭のてっぺんにイチゴの飾りのついた赤いヘアゴムをつけていた。一度に三つもつけているのは初めて見た。新たな境地を目指しているのかもしれない。

「唯ちゃん、ほら、ケーキもらったよ? 後で一緒に食べようね?」と言うと、満面の笑みで見上げてきた。

私がお母さんと言葉を交わし、自分の部屋に戻ると、唯ちゃんは広げたままにしていた日本地図を眺めていた。

「唯ちゃん、地図は見たことある? お家の場所わかる?」

唯ちゃんはどうやら地図に夢中になっているようで、私の質問には答えなかった。

私は唯ちゃんの横に座り込んだ。

「ここだよ……」と唯ちゃんは不意にそう言って、小さな指で地図を示した。

見ると、唯ちゃんは能登半島の真ん中らへんを指さしていた。

「うーん、おしいけど、残念でした。お家はもっと下の方だよ」と言って私は福井県の小浜を探した。

地図は大雑把な地名しか載っていなかったので、若狭の入り組んだ地形にそれを探すのは少し苦労した。

「ほら、この辺かな」私は唯ちゃんの指の少し下の方を指で示した。

「違うよ」唯ちゃんは言った。

「え、何が違うの?」

「ここだよ……、崖の場所」

それは石川県の西側、少し出っ張ったところで、海に沈む夕日がよく見れそうな場所だった。







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