15
高校二年の最後の日、終業式には、まあ予想はしていたことだけれど、弘斗は来なかった。
来ても出席とかには関係ないだろうし、弘斗なら来ないだろうと思っていたのだ。
思ってはいたけれど、やっぱりちょっと寂しかった。
そして奈央もこの日は、姿を見せなかった。
今日、ヒマか?
今から行っていいか?
午前中で学校を終え、家でご飯を食べていると、弘斗からLINEが入った。
うん、空いてる。
と返した。
まあ悲しいかな、だいたい私は空いているのだ……。
あとで行くわ。
今日はもう会えないと思っていたので、その瞬間から私はごきげんになった。
お皿を片付けながら、無意識のうちに鼻歌なんか歌っていたので、「どうしたん? 男の人か?」とおばあちゃんにまで言われる始末だった。
弘斗とは、だいたいいつも公園で待ち合わせをした。
昨日、夜に少し雨が降ったせいで、空気は湿気ていた。
空はまだ少し曇っている。
少し風が強いけれど、もう寒くはない。
草木は心なしか、喜びを見せるように緑を濃くしていた。
「起きれなかったんだよ。昨日、バイトが遅くなっちまってさ」弘斗は会うと、そう言った。
「せっかくの終業式だったのにさ」と、私は少し不貞腐れた振りをした。
「だから会いに来ただろ」
「うん。嬉しい」弘斗は歩きながら、私の肩を抱き寄せた。
「昨日は何時に帰ってきたの?」と聞くと、家に着いたのは夜中の二時頃だったらしい。十時を超えると、店長は財布から五千円を出して、「これで頼むわ」と言うらしい。
「まあ金が欲しいのもあるけどさ、何と言うか、店が忙しいのにほっとけないだろ?」と言ってアルバイトを優先させる弘斗の姿に、大人の責任感みたいなものを感じてちょっぴり寂しい。
私は自分を子供だなあと思う。
ちゃんと弘斗についていかなくちゃ。
「それよりさあ、ちょっと頼みがあるんだよ」
「頼み?」
「ああ。春香さんに、会ってみたい」
私は弘斗の頼みなら何でも聞いてあげたい。
けれど、唯ちゃんを追って浅野春香の病室に迷い込んだ時の恐怖は、未だに私の胸に残っている。
「うん、いいよ……」そう言ったものの、弘斗にあの人のあんな姿見せたくないと言う気持ちは強かった。
けれど、バイクにまたがり黙り込む弘斗の背中に、私は止める言葉を見つけることはできなかった。
「中に入るの嫌だったら、美咲、外で待っててもいいぞ?」浅野春香の病室の前で、弘斗はそう言った。
「ううん、大丈夫」もし何かあった時、弘斗を守れるのは私だけだ。そんな気がした。
「ねえ、離れないで」弘斗が病室のドアを開けた時、私は弘斗を何かから庇いたいのか、私が助けて欲しいのか複雑な気持ちで弘斗の手を握った。
あの時も、こんな天気だったなあ、と思いながら病室の奥に見える窓の外を見た。
午後からは晴れると言っていたのに、空はどんどん暗くなっている。
浅野春香の眠るベッドにたどり着くと、弘斗は魂を抜かれたように呆然と立ち尽くした。
この病室は、どうしてこんなに暗いんだろう。
そう思って明かりのスイッチを探したけれど、見つからなかった。
外ではやはり、雨が降り出していた。
あの時と一緒だ。
窓が閉められているのに、湿気た雨の匂いがした。
鉄の焼けるような、奇妙な臭いもした。
あれ?
そう思った時には、私はもうすでに誰かの「想い」に触れていた。
私は機嫌が悪かった。
和斗が変なことを言うからだ……。
「もし俺が、バイクで事故って死んだらどうする?」
「バカなこと言わないでよ!」私は和斗の頬を思いっきりぶんなぐってやりたい気持ちだった。
「冗談だよ、そんなに怒るなよ」
「冗談になってないし、冗談言うようなタイミングでもないでしょ!」
こんな素敵な場所なのに、こんな素敵な時間なのに、二人きりでいるのに、和斗のバカ。
崖の向こうに見える夕日は、今にもきらめく海の上に落ちようとしていた。
「夕陽を見よう」そう言ったのは、和斗の方だった。
「どの辺がいいかな……」そう言いながら、和斗は地面に座り込み、広げた地図とにらめっこをした。そんな和斗が何かに夢中になる瞬間が好きだった。普段は年上の私より大人びているくせに、こういう時は、和斗の方が子供に見えた。可愛くて、愛おしくて、我慢できなくなって私は背中から抱き着いた。
だから……、だから、こんな気分で和斗と夕陽を眺めたかったわけじゃないのに。
そう考えると、ますます行き場のない苛立ちが募っていった。
「春香、いい加減に機嫌直せよ」
「うるさい! 和斗のバカ!」
「お前、ほんと俺のこと好きなのな」
「どうしてそうなるのよ」私はそう言って柵を乗り越え、崖の先端まで歩いて行った。歩くスピードが速かったせいで、私は勢いで本当に崖に飛び込むところだった。崖下は、30メートル近くある。
「どこまで行くんだよ。あぶねーだろ」そう言って和斗が追いかけてくる。
「死んでやるから!」
「なんでだよ」
「和斗が死んだら、私も死んでやるから。ここで」少しは私の気持ちを思い知るといい。
「そんなこと言うなよ」
「どうしてそうなるのよ……、どうしてそうなるのよ!」
「悪かったよ……、な?」そう言って和斗は私に追いつくと、後ろからきつく抱きしめた。
それで機嫌が直ったわけではなかったけれど、遠く遠く、まるでちっぽけな私のことなんか置き去りにして沈んでいく太陽に、私は悔しいほど感動していた。
「お前やっぱ、俺のこと、本当に好きなのな」
「嫌いよ……」
「じゃあなんで泣いてんだよ」
「わかんないよ」
「ここ、来てよかっただろ?」
私は黙って頷いた。
悔しかった。
悔しかったけど……、来てよかった。
和斗と一緒に、来てよかった。
「おれも、春香と来てよかった」
私は負けて、和斗と唇を重ねた。
和斗と夕日が沈むのを眺めた。
崖の上で、二人ぽつんと並んで座って。
海はあまりにも広く、沈む太陽にきらめく波は、こんな小さな私のことなんか気にも留めないで彼方に過ぎ去って行く。
この景色はいったいいつから続いているのだろう。
私が生まれる前から、人が生まれる前から、まだ何も生まれる前から。
そしていつまで続いて行くんだろう。
和斗が何か言った。
けれど、一瞬吹いた風の音にかき消され、それは聞こえなかった。
「え? いま何て言ったの?」
和斗の声が聞きたかったのに。
もう一度言ってよ、和斗……。
きっと私が素直じゃないから、風にいたずらされたんだ。
私は風に教えてやった。
「和斗、愛してる」
「え? なんか言ったか?」
「もういい、バカ!」
今も私は泣いていたけれど、和斗は何も言わず肩を抱き寄せてくれた。
やがて空は藍色になり、何かを追い立てるように背後から星空が広がってきた。
帰り道、「ほら、ここにさ、これ埋めといてやるよ」そう言って和斗は、崖から一番近い木の根元を掘り出した。
「なによそれ?」ほんとはもう、機嫌は直っていたのだけれど、そんなのなんだか悔しいから、私はいつまでも怒った振りをしていた。
「カプセルだよ、ほら」そう言う和斗の右手には、五センチほどのステンレスのカプセルが乗せられていた。
「この中にさ、春香へのメッセージが入れてある」
「なんて書いてあるの?」
「それは見せられないよ」
「なんなの、それ?」
「だからさ、もし俺がいなくなったらさ、ここに俺の気持ちを埋めとくから、掘り出しに来いよ」
「まだそんなこと!」
「まてよ、春香!」そう言う和斗を置き去りにして、私は先に歩いた。
暗くて何も見えなくて、私は何度も躓いた。
駐車場で待っていると、和斗が追いついてきた。手が砂だらけになっている。
「だいたいね、和斗がいなかったら、私はどうやってここまで来るのよ?」
「まあ、そりゃそうだな」和斗はそう言って考え込むと、まるで答えなんか出せてないのににこりと笑った。
「和斗が一緒じゃないなら、私はぜったいここに来ないから」
「わかった。わかったよ、だから怒んなよ」
「ぜんっぜんわかってないでしょ。いつまでも子供で、いっつも私のこと怒らせて」
和斗は駄々をこねる子供を見るように、にこにこ笑いながら私を見ていた。
「やっぱりなんにもわかってない!」
何にもわかってない……、ぜったいに……。
「わかってるよ」
「だったらどうして泣かせてばかりいるのよ」
「それは春香が……」
「私が何だっていうのよ」ちゃんとその先を言ってよ。
「それは俺が、春香のこと愛してるからだよ」
違うわよ。
私が和斗を、愛してるからよ。
「三年前、オートバイに乗ってて事故に遭ったって聞いたわ。私はその時の担当じゃないからよく知らないんだけどね。それから意識が戻らないの」病室を訪れた若い看護師の女性はそう言った。名札には平仮名で「かわもと」と書いてあった。
かわもとさんは、病室に入ってきて私たちがいるのを見て驚いた様子だった。
「最後に誰かがお見舞いに来たの、いつだったかしら」と言った。
「ご両親がね、たまに来るの。月に一度か、それくらい。三十分ほど顔を眺めて、帰って行かれるわ。それ以外の人が来たの、私は見るの初めてよ」と続けた。
もっといろいろ聞きたかったけれど、かわもとさんから聞ける内容と私たちが知りたいことは、まったく別のような気がして言葉が進まなかった。
「また来てあげてね」かわもとさんは、最後にそう言って私たちを見送ってくれた。
「兄貴は一人で事故って、独りで死んだ。そう聞かされてたんだ」弘斗は言った。
外では雨が降り出していた。
私たちは、外来のロビーの椅子に座って、甘いだけの紙パックのジュースを飲みながら、雨が止むのを待っていた。
「誰に聞いたの?」
「おやじだよ」
「お父さん、どんな人?」
「まじめだよ。真面目にサラリーマンやってる。目立つようなところは何もない。すっごい楽しんでいるところも、すっごい怒っているところも見たことない。俺は小さくて覚えてないけど、母親が死んだ時、すっごい落ち込んでたって兄貴に聞いた。それから男手一つで、一生懸命俺たち兄弟を育ててくれた。けど、兄貴が死んでから、口も利かなくなった。ショックだったろうな……」弘斗はそう言って、じっとロビーの時計を見たまま、中身のなくなったジュースのストローを噛んだ。
雨はまだしばらくやみそうになかった。
私はジュースを飲み切ると、弘斗からジュースのパックを受け取り、ゴミ箱に捨てに行った。
ロビーに人はまばらだった。
外来の昼の診察時間が終っていたからだ。
まだ残っている人たちは、きっと私たちと同じ、雨が止むのを待っているのだろう。
私は振り返り、遠くから弘斗を眺めた。
私は、弘斗のことを考えると胸が苦しくなるくらい好きだ。
きっとこの気持ちは誰にも負けないだろうと思っている。
けれど、春香さんの和斗さんを思う気持ちは、もっと底が知れないほど深く、まるで私の経験したことのないものだった。
目覚めて悪夢を見るくらいだったら、このまま死ぬまで眠り続ける……。
そんな思いが、春香さんから伝わってきた。
弘斗の横に座り、その横顔を眺めた。
「ん? どした?」
「ううん。なんでもない」
私は今でも弘斗と目が合うと、恥ずかしくなってうつむいてしまう。
弘斗が視線を逸らせるのを待ち、もう一度その横顔を眺めた。
愛してる。
その言葉を口にするには、まだ少し早いような気がした。