14
高校二年も、あと二日で終わりだった。
今日は教室移動と今まで使っていた教室の大掃除、そして三年で使う教科書を受け取って終わる。
弘斗はやはり、来ていなかった。
そのことについて奈央がもう騒ぐことはなくなった。
私を突き飛ばした一件以来、奈央はクラスから少し浮いた存在になっている。
奈央の雰囲気が変わってしまったせいもあるかも知れない。
私はまったく気にしていなかったけれど、やはりクラスには奈央のことを快く思わない雰囲気が漂っていた。
私への嫌がらせはもう無くなっていたけれど、どこか行き場のない怒りを募らせているような雰囲気があった。
けれど私はどうしようもなく、ただ知らぬふりを通すしかなかった。
クラスメイトの顔ぶれに、ほとんど変化はなかった。
ほんの数人、試験を受けて特進クラスに入った人や、理系から文系に移ってうちのクラスに入ってきた人がいた。
「誰の机とか考えなくていいから、男子は机、女子は椅子を持って、それぞれ三階へ上がれ」と担任の竹村先生の指示で、私たちは机や椅子を持ってせっせと階段を上がった。
「来月から三年かあ」加乃はそれを喜んでいるとも憂鬱だとも受け取れる調子で言った。
「加乃はやっぱり、受験するの?」
「うん……、だって、仕事なんてまだしたくないもの。美咲は? なんか決めた?」
「うん……、うーーーん……」と寝言のようなセリフしか出てこなかった。
「美咲、子供好きそうだから、保育士にでもなったら?」
「ああ、そう言う手もあるのか……」と独り言のようにつぶやいた。
「て言うか、進路の最終アンケート、なんて書いたのよ?」
「進学……」
「じゃあ、それでいいんじゃない? 保育士でも何でも、適当に合いそうなもの考えて、その資格の取れる学部のある短大にでも入っちゃいなよ」
「おお、シンプルで合理的だね。一点の隙もないよ」
「竹村の真似なんかしてないでさ、ちゃんと決めなさいよ」加乃は笑ってくれなかった。
まあ、もう三年だと言うのに進路を決めていない私の方が笑えないのだ。
弘斗と付き合いだすまでは、単純に私も適当に偏差値のあう短大にでも入っちゃえ、と考えていた。
けれど、弘斗と付き合いだしてからは、「卒業したら働く」と意思を見せる姿になんだか置いてけぼりにされるような気がして、自分が情けなく思えてしまっているのだ。
掃除の時間になると、私は教室、加乃は音楽室の掃除と離れてしまったので、私は特に話す相手もなく雑巾を片手に窓を拭いていた。
グラウンドの草むしりをしている男子たちが、ふざけて鬼ごっこをしていた。
弘斗はいつもこの窓から外を眺めていたなあ、なんて思い出すと、なんだかその時間が名残惜しい。
明日は来るかな、終業式。
二年の最後くらい、学校で顔を見たかったな。
そんなことを考えながら、弘斗との公園での会話を思い出していた。
「兄貴は、独りでバイクでこけて死んだんだ」
「独り、だったの?」
「ああ、どうしてそんなこと聞くんだよ」
「ううん、なんとなく」なんとなく、引っかかるものがあったのだ。
「カーブを曲がり損ねたらしい。バイクは滑って向こう側の草むらに突っ込んだんだけど、兄貴はガードレールに頭をぶつけちまったらしい」
想像するには恐ろしい光景だった。
「まあ、俺も聞かされた話だ。けど、別にそれ以上でもそれ以下でもない話だろ。俺はそれで納得したよ」
「お兄さんの彼女は、どうしたの?」
「美咲、そんなことまでわかんのか?」
「うん、まあ」
辺りにはもう人がいなかった。
街灯の明かりが二人を照らし、気の早い羽虫がその周りを心細げに舞っていた。
「わからないんだよ。葬式にも顔を出さなかった」
「二人は、その、すごく仲良かったんでしょ?」
「ああ。結婚する、って聞かされてたな。兄貴が卒業して、働き出したら」
「その子も、同じ年だったの?」
「いっこ上だよ。彼女の方が、高校の先輩だったんだ」
「そうなんだ」
「ああ。彼女はもうすでに働いていて、兄貴が卒業したら、一緒に住むんだって言ってた」
「弘斗もその人と、仲良かったの?」
「そんなにじゃないけど、まあ、兄貴の弟ってことで、可愛がってもらってはいたかな。なんせあの時は、俺はまだ中学生だったからな」
「そっか」中学生の時の弘斗って、どんなだったんだろ。
「気が付いたら、もうあと半年で、俺も兄貴の年齢に追いついちまうんだな」弘斗はそう、独り言のように言った。
「兄貴の年齢を超えた時、俺はちゃんと兄貴より大人になってんのかな」
私は寄り添った弘斗の顔を見上げた。
「お兄さん、どんな人だった?」
「優しかったよ。優しくて、必死に大人になろうとしてた。きっと、母親がいなくて寂しいのは、自分が子供だからだって思ってたんじゃないかな。だから逆に、俺のことはいつも子ども扱いだったな」
私は今の弘斗がすごく大人に見えているのに、弘斗はもうすぐ年齢の追いつくお兄さんのことを、もっと大人だと思っていたんだ……。
「春香さんと付き合っている時も、兄貴の方が年上に見えたくらいだ」弘斗が言った。
「春香さん?」あれっ? どこで聞いた名前だっけ?
「あ、ああ、兄貴の彼女の名前だよ。浅野春香」
「あ、あーーー!」私はその名前を思い出し、思わず声を上げてしまった。
「どうしたんだよ? まさか、兄貴の彼女の名前まで知ってたって言うんじゃないだろうな?」
「う、うん。そのまさか……」どうしよう、どうしよう……、名前を知っているだけじゃない、私は、私は……。
「まいったな……、美咲の力ってやつ、なんでもわかっちまうのか?」
いや、でも、待って。
私が浅野春香さんの病室を訪れたのは、私の力のせいじゃない。あれは、唯ちゃんが……。
でも今は、そんなことはどうでもいい。
弘斗は、浅野春香さんが病院であんな状態になっていることを知らない。
どうしよう、どうしよう、それを、弘斗に伝えるべきだろうか?
「なんだよ、美咲、急に様子がおかしくなったぞ?」
「うん……、あの、その……」
「なんだよ、俺がちゃんと話してるんだから、美咲もちゃんと話せよ」
「う、うん。そうだね。弘斗の言う通りだ」
それから私は、深呼吸をして無意識に乱れた鼓動と呼吸を整えた。
「あ、あのね。弘斗、落ち着いて聞いてね。お兄さん、事故した時、独りじゃなかったかも知れない……」
弘斗はその後、私の話を聞いて、何も話さなくなった。
「ちょっと! どこ見てんのよ!?」
そう言われて私は、しゃがみこんで雑巾を絞っていたバケツごと突き飛ばされ、床に転げた。
わけも分からず我を取り戻し、その声の方を見上げると、倒れた私に奈央が掴みかかってきた。
「なんであんたがそこにいるのよ!」そう言って奈央は、起き上がりかけた私を、さらに力づくで床に押し倒した。
怒り狂ったように歯をむき出しにして、私に馬乗りになり、拳を何度も振り上げてくる。
「いや、ちょっと、やめて、奈央!」私は顔を庇うのが精いっぱいで、目を開けることもできない。
クラスメイトは驚いて固まってしまい、唖然としながら止めることができない様子だった。
「なんで! なんであんたはいつも私の邪魔をするよの!」
「邪魔なんか、してないよ!」私は必死に奈央の腕を抑え込もうと、その手を掴んだ。
「今だって! 今だって!」奈央は私に手を掴まれつつも、なおも拳を叩きつけようとした。
「まって! やめて! 奈央!」
バケツからこぼれた水が、制服を通して背中を濡らした。
そしてその時だった。
なんだか嫌な匂いがした。
最初、そのバケツの水の匂いだと思った。
けれど少し違った。
何やら冷たく、水を含んだ空気が鼻腔を満たした。
さらに人の家の匂い。
こ、これって……、奈央の家の匂いだ。
私はその刹那、奈央の家のキッチンにいた。
ふわふわと、宙に浮いていた。
前に歩こうとするけれど、足が宙に浮いているのでうまく進めない。
なんとか……、なんとか……。
私を呼ぶものがあった。
そこに行かなくてはならない。
この家の中に……、キッチンを出て、廊下の向こうに何かある……。
私は必死に足を動かした。
泳ぐように、手で空を掻いた。
なかなか前に進まない。
夢の中で何かに追われて逃げる時のように、気持ちは焦るのに体が言うことを聞いてくれないのだ。
早く……、早く……。
そこにいかなくちゃ……。
なんとか伸ばした指先にキッチンの扉を捉え、後ろに押し出すように体を前に進めた。
早く、早く行かなきゃ……。
足は相変わらず地面に届かない。
もっと……、もっと……。
私は手を伸ばし、手を伸ばし、どこかを掴んでは体を前に押し出して進んだ。
早く……、もっと早く!
そして私はやっと、そこにたどり着いた。
玄関のようだった。
そしてそこに倒れる女の人。
だ、だれ?
誰だろう、この人……。
目を閉じて、冷たい玄関のコンクリートに頬を付けて倒れている。
奈央……、奈央……。
そうだ、ここ、奈央の家だ……。
奈央……、奈央……。
お母さん!
奈央の、奈央の、お母さん!!!
私は悲鳴を上げながら目を覚ました。
「奈央! 奈央!」そう言いながら、私は床に倒れ、馬乗りにされているのも忘れて奈央の手を取って必死に訴えた。
「奈央! 奈央! 今すぐ家に帰って! お母さんが、お母さんが!!!」
私の狂気じみた叫び声に我を取り戻すように、奈央は動きを止めて私の目を見つめた。
「奈央、今すぐ家に帰って! お母さんが、お母さんが倒れてる!」
私のその声をまるでスタートの合図にするように、奈央は飛び起きるように立ち上がり、わき目もふらず廊下に飛び出して行った。