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二つの風  作者: Hiroko
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その日を境に、唯ちゃんはぱったりと家に来なくなった。

お母さんの話では、ちょっと熱が出て寝込んでいる、と言うことだったけれど、あれからもう一週間以上たっている。

「でも、智子おばさん、仕事はどうしてるの?」と聞くと、おばさんは仕事を休んで唯ちゃんにつきっきりになっているらしい。

「でも心配だね。月が明けたら……、小学校、入学式でしょ?」私は台所で煮込み魚を作るお母さんの背中に言った。

「そうね、たしか七日の、火曜日だったかしら?」

「うん。確かそうだよ」

唯ちゃんは以前、家の箪笥の上に赤いランドセルが置いてあることや、入学式の日から履くことになっている新しい靴の話なんかを聞かせてくれた。私は唯ちゃんが小学校に通う姿を想像しながら、唯ちゃんと同じくらい楽しみにしていたのだ。

「それまでに治るといいんだけどね」

「私、今度ちょっと覗きに行ってみようかな」

「うん、そうしてあげな?」

唯ちゃんは、あの時様子がおかしかった。

なにやら夢遊病者のように、私には見えない物を追いながら歩いているようだった。

熱なんて出して欲しくはなかったけれど、家に来ない理由が本当にただの熱なら、その方が安心できるような気がした。

けれど……、けれど、あれはたぶん、唯ちゃんの持つ力が何か関係している。

浅野春香とは、いったい誰なのだろう。

彼女はなぜ、あんなところで独り静かに眠っていたのだろう。

まるで、命を抜き取られたような寝顔だった。

まだ死んだ人の方が、安らかな顔をしているような気がした。

唯ちゃんは、彼女に呼ばれたのだろうか?

そんなことってあるの?

私は怖くなって、あの時すぐに唯ちゃんを抱いて病室から出てきてしまった。

外は酷い雨だった。

あまりの薄気味悪さに、私はすぐにでも病院から離れたかった。

唯ちゃんを連れていなければ、私は雨の中を走り出していただろう。

お母さんに電話をして、病院まで迎えに来てもらった。

「どうしたの!? どうして病院なんかにいるの!? 唯ちゃん、なんかあったの!?」と驚くお母さんに、「雨が降り出した時、たまたま病院の前にいたから、雨宿りに入っただけ。心配ないよ」と言ってごまかした。

いったい誰に本当のことを言えばいいんだろう。

おばあちゃん? おばあちゃんに言えば、相談に乗ってくれるだろうか。

唯ちゃんはあの日、智子おばさんが迎えに来ても、ずっとふさぎ込んでいた。

ひと言も口をきかず、そのまま目を離したら、呼吸を止めて眠ってしまうのではないかとさえ思われた。

唯ちゃんが家に来なくなった理由が、あの日のことに関係しているとしたら、いま唯ちゃんはどんな様子なのだろう。

とにかくこれは、なんだか一人で抱え込める問題ではないような気がする。

けど、誰に言えばいいだろう……、誰に言えばいいだろう……。

私は必死に考え込んだ。

思いつくのは、やはりおばあちゃんだけだ。

けれど、こないだのおばあちゃんの話では、おばあちゃんもお母さんも、智子おばさんにしたって、子供の頃に力を失ってしまっている。

何かを教えてはくれるかもしれない。けれど、解決に結びつくような具体的な何かをしてくれるようには思えなかった。

とにかく唯ちゃんの様子を知りたい。

早く会って、私の力を使ってでも(それが役に立つかどうかはわからないけれど)、唯ちゃんの身に何が起こっているのか知る必要がある。


「どうしたんだよ。最近なんか、悩んでないか?」

「え、そんなことないよ……」私は夜の公園のベンチで、弘斗の肩に寄り掛かりながらそう言った。

弘斗は週に二度か三度、アルバイトが終ってから私の家まで会いに来てくれるようになった。

レストランで働いていると教えてくれた。高校生なので、まだ夜の十時までしか働けないらしい。それが終って、バイクを飛ばして私の家には十一時ごろに着く。家に入れるわけにもいかず、いつも近くの公園で一時間ほど話をする。

アルバイトは校則で禁止されているけれど、弘斗は家の事情で許可をもらっているらしい。

「うちは母親が死んで、父親も病気がちだから。俺が働かなくちゃいけないんだ」そう話してくれた。

「弘斗の方こそ、なんか悩んでそう」私がそう問いかけると、「俺はまあ、悩んでいると言えばいつも悩んでいるし、もうそれが当たり前になってるから、とくに悩んでいるわけでもないよ」とへんてこりんなことを言った。

「なによそれ? 学校のこと?」

「ああ、まあ、学校のこともあるな。竹村がうるさいからな」

「竹村先生が? また呼び出されたの?」

「うん、まあ、ちゃんと顔出せよって、いつものセリフだよ」

「怒られたりする?」

「いや、そんなことない。竹村は、うるさいけどいい奴だよ。とにかく学校に来いってさ。三年になって俺が来なくなるんじゃないかって心配してるんだよ。とりあえず学校さえ来てれば、卒業はさせてやるから、って」

「それ聞いて安心した」

「なにが?」

「卒業できないんじゃないかって心配してたから」

「うん、まあ、俺はどうでもいいんだけどな。早く働きたいから」

「どんな仕事したいの? やっぱり今のバイト先?」

「うん。とりあえずはそれでいいかな。ちゃんと社員として雇ってくれるらしいから」そんな風に話す弘斗は、私より大人に見えた。

「それより美咲の悩みはなんだよ?」

「うん、ちょっと、唯ちゃんの体調が悪いらしいの」

「唯ちゃんって、従妹の?」

「うん。この春から小学校なのに」

「なんか、病気なのか?」

「うん、会ってみないとわからないんだけど、もしかしたら心の病気かも」私はそんな風にしか唯ちゃんの様子を説明する言葉を持っていなかった。

「そんな小さい子が……」

「うん。お父さんもいないし、おばさんは仕事があるし、うまく頼れる人がいないのかも」

「そっか……。家族が欠けるのって、それだけで辛いな」

「弘斗はいつお母さんを亡くしたの?」

「俺がまだ小学校の時だよ。もう覚えちゃいない。癌だったって、後から聞かされた。体調が悪くなって入院して、あっという間だったって言うのは覚えてるよ」

「そうなんだ……。うちと同じようなもんだね」

「美咲も小学生の時だったよな、お父さん亡くしたの」

「うん、そうだよ。私もあんまり覚えていない」

弘斗は私の肩に回した手で、そっと頭を撫でてくれた。

「そう言えば、お兄さんいるんだよね? 三人暮らし?」

「兄貴か? 言ってなかったっけ? 兄貴も死んだんだよ」

「え? そうなの?」

「ああ」

「じゃあ、あのバイクが、もともとお兄さんのだって言ったのは……」

「ああ。兄貴の形見だ」

「そうだったんだ……。ごめんね、聞いて」

「いいよ」そう言って弘斗は笑った。

「今でも……、思い出す?」

「ああ、いつでも思い出すよ。バイク乗ってるからな。あれに乗って死んだんだ」

「え? あれにって、あのバイク?」私は公園の片隅にとめられた弘斗のバイクを見て言った。

「ああ、そうだよ。俺がまだ中学の時。あのバイクに乗ってて死んだ」

「そんな……」私はなんだか急に怖くなった。

「高校に入ってバイトして、真っ先にあれを直したよ。なんだかわかんないけど、あれが兄貴の一部のような気がして」

私は何も言えなかった。

「バイクは金で直るのにな……、兄貴はもう戻ってこない」

私は肩を優しく撫でる弘斗の手に触れた。

その瞬間……、私はうかつだった……、油断していた……。

私を包む空気が急に重苦しく変わった。

最近、あまり「見る」力を使っていなかった……、だから油断した……。

匂いが変わるのを感じた……、弘斗の「想い」に触れてしまったんだ……、眩暈のように気が遠くなる……、海は遠いのに、海風の匂いがする……、バイクの方に気配を感じて、そちらに目をやった……、誰かが、誰かが立っている……、黒いヘルメットをかぶり、私たちを見ている……、ああ、あれはきっと、唯ちゃんが私の部屋にいたと言っていた人だ……、あの時はそれが誰だか想像もできなかった……、けど、けど今はわかる……、あれは、あれは、弘斗のお兄さんだ……、間違いない……、ねえ、ねえ、そうでしょ? 

何かを、何かを訴えかけている……。

なに?

何が言いたいの?

弘斗のお兄さんは、じっと私を見つめている。

閉じたヘルメットのシールドの向こうに視線を感じる。

何かを訴えかけている……。

ねえ、聞こえないの。

もっと大きな声で言って?

お願い、聞いてあげるから……。

ねえ、聞こえないのよ。

もっとそばに来て。

風が……、風の音が邪魔をして、聞こえないのよ……。

「おい! おい、美咲!」そう言って揺さぶられた。

「え?」

「え、じゃないよ、急に気を失ってさ。大丈夫か?」

「え、ああ、大丈夫……」そう言って私は、眠気を振り払うように大きく息を吸った。

「どうしたんだよ、急に」

「いまそこに……」そう言いかけて、私は慌てて口をふさいだ。

「そこに?」

「ううん、何でもない」

「夢でも見たのか?」

「そ、そうかな……」

弘斗のお兄さんの姿はもうなかった。

元の世界に戻っていた。

匂いもしなかった。

「唯ちゃんのことで悩み過ぎて、疲れてるんじゃないか?」

「働いてる弘斗ほどじゃないよ」

「バカ言えよ」

「もう大丈夫」

「ほんとにか?」

「うん」

弘斗は安堵するようにため息を漏らした。

「今日はもう、帰るよ」

「うん……、ごめんね」

弘斗は立ち上がろうと、私の肩に回した手を離した。

首筋にすっと冷たい風を感じた。

え、いやだ。

「ねえ、まって!」

なんだかその瞬間、強烈な寂しさを覚えた。

「弘斗、少しだけ、抱きしめて」

「バカだな」

「うん。バカ」

押し付けられる弘斗の胸の温もりに、私は少し安心した。



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