29 帝国ホテルにて
緊急の連絡。
坪内佐からだ。
もう外は日が陰り出している。
慧思の祖父が発見されたという。
怪我もなく、無事。
俺たちは救助されたのが、間違いなく本人かどうかを確認せねばならない。
迎えの車が来た。
頑丈な靴、めだたない暗色系の服を坪内佐が車中に用意しておいてくれた。さすがだと思う。慧思はやっとぺらぺらのジャージから解放される。これは、気が利くというより抜け目がないということを示しているんだよな、きっと。
迎えの車には医師もいて、手当をしてくれた。首から三角帯で腕を吊るす。実際、湿布とこの処置でかなり楽になった。痛み止めも飲んだし。
脇腹は、医師の見るところでは、痣の位置と大きさから、いわゆる脾腹の急所に蹴りが食い込んだらしかった。正確に入っているので、しばらく辛いけど後遺症は出ないだろうとのこと。
一瞬、美岬の表情に見惚れたからなぁ、蹴り足は全然見えなかった。自業自得なんだろうけど、次があるとしたらやっぱり同じ結果になりそうなのが嫌だ。
あー、湿布臭い。
なんだかなー。相手が男ならば、仕返ししちゃるとか思うんだろうけど、美岬のことを殴ったりできないしなー。まぁ、仕方ないんだけど、殴られ損、いや、蹴られ損だ。
ってか、深刻な疑問が頭に浮かぶんだけど、もしかしなくても、俺の方が美岬に守ってもらう方がいいんじゃないかな?
ああ、なにを自分でぐだぐだ考えているのかと思ったら、美岬のことを怖いと思っちゃっているんだな。
そりゃ怖いけど。
これだけのことをされれば、当然、感情は怖いというけれどさ。
今、美岬が感じている恐怖の方が、はるかに怖いのは間違いない。
おそらくは、だ。
慧思の祖父が帰ってきたということは、美岬が捕まった、捕まることが確実になったことを意味する。これから数時間が正念場となるだろう。TXαの使うにせよ、使わないにせよ、なんとしても救い出さねばならない。
必要以上に痛そうに、三角帯で吊った右腕を抱え込むようにして、よろよろと歩いて迎えの車に乗り込む。きっと監視されているからね。
迎えの車が向かったのは、今回はさいたま新都心ではない。首都高経由で、着いたのは東京千代田区、帝国ホテル。
信頼できる場所として、急遽部屋を確保したらしい。
ロビーにコーヒーの香りが漂っている。こんな時だけれども、いや、こんな時だからこそ、切実に飲みたいな。
香水だの、葉巻だの、いろいろなにおいが混じっているけれど、不思議と嫌な感じは受けない。
ガラスの自動ドアを何枚か通り抜けた一室に、慧思の祖父、慈恩さんが保護されていた。たぶん、布団の中から拉致されたのだろう。寝間着代わりとおぼしきジャージ姿だけど、頭を剃っているので僧侶と判る。
菊池家の寝間着はジャージってのは、家訓かなんかなのか?
もひとつ不思議なのは、なんでソファにでっかいスヌーピーがいるんだろう?
好々爺という雰囲気ではあるけど、寺の住職をしているというだけあって矍鑠としている。
間違いないな。
寺院独特のにおいがしている。一日くらい線香のあるところにいても、このにおいにはならない。毎日の積み重ねがこのにおいになるのだ。
慧思は……、軽く笑みを浮かべ、歩み寄る。
さすがに、相当無理しているな、こいつ。緊張しまくりだ。
笑みも浮かべるってより、顔に張り付いている感じ。
「慧思です。十年ぶりに会えて嬉しいです」
慧思の祖父は、目を細めて慧思をまじまじと見た。
そして、目を大きく見開き、涙が流れ出した。そして、慧思の右手を両手で握る。
「一日も忘れた事はなかった。ずっと心配していた。そして、ずっと謝らねばと思っていた」
謝る? なんだろう?
再会の一声としては、予想外の言葉だ。
慧思も同じことを思ったらしい。いつもの、飄々とした表情が影を潜めている。
「弥生はどうした? 元気でいるか?」
「安全なところにいます」
弥生って、慧思の妹だよな。
慧思の祖父は、ようやく安心した顔になった、
「今回のことの詳細は、私には判らん。だが、このようなことがあった以上、一刻も早く慧思と弥生には謝っておきたかった。唐突だが、お前の親のことだ」
慧思の身体が、ぎくっと固くなったのが判る。
「今は、落ち着いて、休んだ方がよいのでは?」
俺が横から言うのを遮って、話し出す。
「私が悪かったんだ。
うちの寺は、知ってのとおり村に一つしかない寺だ。
寺がなくなれば過疎がさらに進んで、村そのものがなくなるかもしれない。だから、息子に跡を継がせようと必死だった。あいつの望みも考えず、ただただ、押し付けてしまった。
経だけ読んでいれば良い町の僧とは違う。
村の中心の一つとしての住職は、葬式だけでは済まない難しいものだ。だが、あれには、向いていなかった。
でも、私も必死だった。
結果として、その不満が孫のお前たちに向かって噴き出してしまった。
慧思、お前はそのつもりになれば、僧侶どころか何でもなれるだろう。子供の時から、それだけの能力があることを伺わせていた。
それが……、そのこと自体が息子を歪ませた。
それに気がついた時、すでに、もうお前たちには会えなかった。息子夫婦は、お前たちを連れて完全に行方をくらましてしまっていた。
この十年、お前たちに謝れる日が来ることだけを願っていた。なんで、私がここにいるのか、なぜ慧思、お前がここに来てくれたのかは分からない。
でも、御仏が私の願いを聞き遂げてくれた。それでもう十分だ。
本当に申し訳なかった」
慧思、思いっ切り混乱している。困惑と言っていい。いや、惑乱か? 体臭がめまぐるしく変化する。身体が緊張状態すら維持できないくらい、パニックになっているようだ。
「今、弥生と二人で暮らしています。収入もあります。安心してください。これだけが、昔から会えたら言おうと思っていたことでした」
機械的に言って、そのまま立ち尽くす。
慧思なら……、三十分だな。それだけあれば、表面上は立ち直る。
問題は、その後、自分の中でどう折合いをつけるかだけど、それには何年もかかることだろう。
俺は、二人を座らせてから、部屋に備え付けのお茶を入れてやり、ホテルの部屋を出た。
ロビーから、坪内佐に電話しなければならない。
話す電話機は指定されていた。
クリーニング済みで音声スクランブル機能の付いたものだけど、それが通常のものに混ざって設置されているのだ。
使い方を知らねば、普通の公衆電話にすぎない。
周囲から人並みが引いたタイミングで、プッシュボタンにコードを打ち込み、機能を切り替えて坪内佐に掛ける。
「間違いなく、本人でした。体調等含めて無事に見えます。が、盗聴器、発信器等のクリーニングは必要ではないでしょうか?」
「安心しろ、それは済んでいる。ホテルの部屋自体も問題ない」
「慧思が、お詫びを伝えてくれと。作戦行動とはいえ、打ち合わせもなしに、失礼なことを言ってしまったと」
「その詫び自体が、作戦行動中の無駄な情報のやり取りだ。
あれによって、私は君たちの現状に対する検討結果と理解度を推し量った。期待どおりの能力を見せてもらって満足している」
……間。
俺は、聞かねばならない。
「お聞きしておかねばならないことが、あるかと思いますが?」
「冷静に聞けるのか?」
「はい」
短く答える。
いまだに痛い右腕と、脇腹の痛みが暴力の恐怖を俺に味あわせた。
子供の取っ組み合いの喧嘩とはわけが違う。また、銃弾が掠めた一瞬の恐怖とも違う。気が付いたら死んでいた、なんて生易しいもんじゃない。
もっと原始的な、根源的で圧倒的な暴力というものへの恐怖。
だけど、美岬の恐怖はもっと激しいはずだ。美岬がいくら俺をどうこうしても、殺す目的でその技術を振るうことはない。でも、美岬の今の状況は、取り返しのつかない暴力とその結果としての死と隣り合わせだ。だから、逆に、俺はこの痛みがある間は冷静でいられる。冷静でいなければならない。
「判った。
美岬さんは拉致されたのち、東京に移送中だ。
おそらくは、身柄の確認後、新潟港に向かうだろう。
全ユニットが集結しつつあるようだしな。
今の案としては、高崎ジャンクションを過ぎたところで事故名目で通行止めにして、高崎インターで強制的にすべての車を下ろさせる。そこからが勝負だ。
武藤佐の手で、次の作戦が走り出している。
神業を思わせる見事なものだ。
タイミングを合わせて、一気に追い込む。
君たちは、そのままホテルにて待機。
部屋は押さえてある」
「待機とは、どういう意味でしょうか」
「待機は、待機だ」
言うと思ったよ、絶対。
それが善意からのものであっても、飲めるはずがない。
「お断りします。
私がなぜ、行かねばならないかですが、相手の組織力が解明されていない今、首都高を走っているのが囮部隊ではないという保証はありません。
もしも、首都高を走っているのが囮だとしたら、その囮を現行の作戦で追い詰めた後に、美岬さんの居場所について尋問が必要になります。
このような、相手の真意を穿つ役目は、武藤佐や美岬さんの得意とするところでしょう。そして、私にもそれができます。私自身がこの事態の保険なんです。
私が行けば、美岬さんがいなかった場合、即、尋問に協力ができます。ここに待機していたのではそれができません。この時間のロスが、取り返しのつかないことになるのは解っていただけると思います」
「通常以上の感覚を持つ者らしい、ものの言い方だな。
その判断が、バディである菊池君の身をも危険に晒すことは解っているのか?」
「はい。それでも、菊池は来てくれます。祖父と話したことで、彼はさらに強くなっています」
ごめんな、慧思。
俺は、俺の一存で答えている。
でも、慧思は来てくれる。それを俺は知っている。
祖父と話したことで、慧思の親への理解は増した。同時に、やり切れなさまでもが、今まで以上に増しているはずだ。
だから、慧思は来る。
慧思を、その理不尽なやり切れなさから救ったのは、そして、親と離れて妹との生活を保証したのは、「つはものとねり」からの給料だからだ。
それだけではない。
俺がどんな理屈を並べようが、坪内佐から止められようが、俺の本心が「俺が美岬を救いに行きたい」と考えていることを理解して、なお、慧思が来てくれることを俺は知っている。
電話口でわずかに聞こえた、空気の流れる音。あれは、坪内佐のため息だったのだろうか。
「二十分後に迎えに行くので、君たちはホテルの日比谷公園側出口で待機を。菊池くんの父祖の身柄は、こちらで引き続き保護する。
武藤佐の持つ戦力ほどのことはできないが、それでも警察と連携し、必ず守る。
アークヒルズで待機、相手のアイミングに合わせてヘリに乗れ。
高崎方面に向けて飛ばす。
あとは、現地のへリポートなり、現地の病院なり、その時々で着地地点は考える予定だ」
「相手が、藤岡インターから直江津側に行く可能性は?」
「ほぼ、ない。
船舶の洗い出しが済んでいる。連中の船は新潟港にいる。直江津に船を回航する可能性はあるが、時間がかかりすぎるし桟橋の確保もできない。それならば、下道を通って通行止め区間を迂回した方がはるかに早い」
「解りました。指示に従います」
「菊池君の祖父の部屋の番号を覚えておけ。ホテルの薬局の横に売店があるので、そこで食事を買い移動中に済ませろ。料金は部屋付にしておくように。額は気にするな。好きなものを好きなだけ喰っておけ」
電話が切れた。
ふと、疑問を感じた。
坪内佐の手のひらは、どこまで広いのだろうか。美岬が捕まる前に船舶の調査は始めていたんだよな、きっと。
きっと、他の場所にも手は伸びているのだろうな。
次回、手足を捥ぐ




