5 襲撃
年を越して、新年の1月16日の金曜日、武藤は駅から朝倉家への道を急いでいた。
コートのポケットには、銀のイヤリングを美桜の誕生日のお祝いに用意していた。さすがに、武藤の経済力ではプラチナまでは持ち上がらない。
ただ、美桜の年齢を考えれば、プラチナの落ち着きより、銀の輝きほうが似合うとも思っている。
いつもの時間に朝倉家にたどり着いた。
しかし、いつもどおりだったのはそこまでだった。
家の照明は消えて真っ暗だった。太一が途切れなく吠え続けている。
不吉な思いが、胸を過る。
門扉を開け、敷地に入る。
そのまま、玄関にたどり着き、呼び鈴を押すが返事はない。
帰ろうかとも思ったが、太一が鎖を引きちぎらんばかりに暴れているのを見て、玄関のドアノブに手をかけるとあっさりと開いた。
ますます、不吉な思いがつのる。
「朝倉さん!」
呼んでみるが返事はない。
玄関に足を踏み入れると、いきなり後頭部を殴りつけられ、武藤はそのまま昏倒した。
太一の声がうるさい。耳元で犬の声が反響していると思ったら、自分の脈が後頭部で痛みとともにリズムよく波打っていた。
実際にはもう、犬の声は聞こえてはいない。
麻袋を被せられているようだが武藤が規格外に大きいので、さらのその上から後ろ手に縛り上げられ、床に転がされている。
頭を起こすと、美桜の囁くような声がした。
「先生、起きないほうがいいよ。死んだふりしていて。ごめんね、巻き込んじゃったみたい」
「お母さんの仕事が絡んで、かな?」
「きっとそう。
二人だけど、かなりの訓練を受けているわ。
このまま、拉致されちゃうんだと思う。今、日本中でこういう事件が起きているから。
きっと、母の仕事のこともあって、いい人質になると思われたのよ。母の仕事はアメリカが対象だから、北は関係ないって言っていたのに……」
理不尽ってのは、理不尽だから理不尽なのだ。
武藤の頭の中を、そんな言葉が巡る。だが、それはそれとして、ここから逃げ出すことを考えねばならない。
「お父さんは?」
「毎週、金曜日は道場に剣道を教えに出かけるの。
あいつら、家庭教師の日が一日ずれたことを知らないで、私一人だと思って襲ってきたのよ。巻き込んじゃって、本当にごめんなさい」
「もう、巻き込んじゃったとかはいいから。それより、打つ手はないの?」
「大丈夫。非常用の無線機のスイッチを入れることはできたから、助けは来る。でも、三十分くらいは掛かっちゃうかも」
「警察がくるの?」
「違う。
母の組織は、自衛隊の人も警察の人もいるけど、そういった国の機関に重なっている別の組織なの。税金からの予算が付いていないから、国の機関とは完全に別の組織だって言ってた」
周りは暗く、しかも麻袋を被せられた武藤の視界はほとんどない。美桜がどのような形で拘束されているかもわからない。
この状態で、相手が三十分もゆっくりしているとは考えにくかった。
政治や世界情勢に疎い武藤も、日本海沿いで日本人の拉致が続いていることは知っていた。しかし、まさか自分がその対象になるとは考えてみたこともない。ましてや、ここは内陸で、海に出るには最短でも百二十キロは走らねばならない。日本海側ならば、二百キロを超える。
逆に言えば、それだけ、美桜に人質としての価値があるということなのだ。北の国は、アメリカに対して、何らかの働きかけをしたいということなのか? 走り出した思考を、武藤は懸命に止める。そんなことを考えている場合ではない。今考えるべきは、ここからどう逃げるか、だ。
そもそも、相手がのんびり行動することは考えられなかった。武藤は必死で頭をめぐらせる。おそらく、相手は時間を切って、家探しをしているのだろう。美桜の母親が、何かの資料を家に持ち帰っているのかもしれない。
だが、それが見つかろうと見つかるまいと、彼らが決めたタイムリミットが来れば美桜は連れて行かれるだろう。自分は……、大きすぎて足手まといだから、殺していくだろうな。
頭が結論を出して……、恐怖で身体がすうっと冷えた。
もう、だめだ。
足は縛られていない。無理をすれば立ち上がれるかもしれない。ただ、それができても、どっちの方向に歩けばいいのかもわからない。腕は縛られ、麻袋で視界もない。
「君は、どんな風に拘束されているの?」
「私は、後ろ手に縛られて、そのロープが柱に縛られているだけ」
ますます、まずい。
美桜は、連れ出す相手として縛られているのだ。連れて行くならば、視界を遮らないで歩かせるだろう。となると、視界を奪われた自分の運命は……。
暗闇では死にたくなかった。せめて、頭から被せられたこの袋だけは……。
必死の思いで言う。
「せめて、この麻袋だけ何とかならないかな?」
「ちょっと待って」
頭が挟まれる。どうやら美桜の足のようだ。美桜の足はそのまま麻袋の端を床に踏みつけた。
「先生、頭を振って、麻袋から頭を出せるかやってみて」
「わかった」
ぐいぐいと頭を振ると、上半身とそれを縛り付けたロープの間から、袋の端がずるずると引き出されてきた。シャクトリムシのようにのたうちながら、頭を引き出す。
視界が確保されただけで、武藤は少し落ち着いた。見えないことは、恐怖を倍加させる。
美桜と目があった。目があった瞬間、美桜の目から涙がこぼれ落ちた。
強いな。
今の今まで泣いていなかったのか。
「先生、後悔したくないから、最期に言わせて。
先生、ずっと好きでした。毎週二時間の……」
黒ずくめの男が二人、戻ってきた。
次回、抵抗
短いです。




