4 クリスマスの告白
いよいよクリスマスがやってきた。
先々週から、こたつも出されている。騒ぐだけ騒いだけど、結局ろくに見ることもできなかったハレー彗星の年もあとわずかだ。
ここのところ、美桜の母親も家に帰れることが多いので、お茶を入れる準備をしていた。
美桜は、大瓶入り国産蜂蜜に、緑と赤のリボンをかけて武藤が来るのを待っている。
今日の勉強が終わったら、プレゼントするつもりなのだ。家庭教師に来てもらうのも、今年は今日で最後なのだし。
武藤は大きい。そして、わりと毛深くもある。勉強に入る前と後の会話で、それを美桜はよくあげつらっては笑った。クリスマスのプレゼントもその延長だ。
馬にはニンジン、熊には蜂蜜。決まってるじゃん、と。
武藤は、いつものとおりやってきた。
そして、美桜を見て微笑み、「じゃ、始めようか」と言った。
二時間の集中した時間が過ぎた。
「先生、今日はクリスマスプレゼントがあるの」
美桜が包みを取り出す。
「おお、予想していたとおりだ。だから、僕も持ってきた」
そう言って、武藤も包みを取り出す。
美桜は、なんともいえない幸福感に包まれた。
「おっと、蜂蜜だ。僕は、やっぱりクリスマスも熊扱いされるんだね」
そう言って、武藤は笑う。プーさんというより、ヒグマの風格がある。だが、美桜にとってその笑顔はプーさん以上に可愛かった。
勉強が終わったのを察した美桜の母親が、茶器を持って部屋に入ってきた。あまりに留守がちで、ほとんどこういったことができないから、保護者としてこういう機会は逃さないようにしているのを美桜は知っている。
「美桜っ! あんた、口紅つけているでしょう!?」
「バレた? うちなんだから、別にイイじゃん」
「学校にいる時以外なら、いいってわけじゃないわよ!」
母娘で言い合いをしながらも、母親は武藤にティーカップを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
武藤が母親と挨拶をしている間に、美桜はがさがさとプレゼントの包み紙を開けた。
中から出てきたのは、薄く青い色の入った伊達眼鏡。度は入っていないようだ。
「先生、なんでこれなの?」
ふざけて鼻先にそれを掛けながら、美桜は聞く。鏡に横目を走らせると、そんなに悪くない気がする。
ちょっとばかり、Dr.スランプのアラレちゃんに似るけれど。
「僕はこれを言っていいか、悩んでいるんだけどね。
試験のときは、よく見えないからとか言って、それを掛けたほうがいいかもしれないよ。
どうも、よくわからないけど、朝倉さんは他の人と見えているものが違うんじゃないかなと思うんだ。思い切り集中しているとき、自覚してないと思うけど目が青みを帯びているんだよね。
白内障みたいな病気だと困ると思って、大学の図書館で調べたけど、そんな例は見つからなかった。けど、先々週からこたつを出してもらって、布団の隙間から光が漏れると、とても眩しそうにしているんだよね。きっと、視覚が、僕が見ている色の範囲より、赤外光が見えるぐらい赤方に偏移しているんじゃないかなぁ。
青い目は、黒い目の四倍も赤い色が見えるらしいし、ね。
で、そんなんどうでもいいことだけど、ただ、青い目は、他の人にあまり見られない方がいいかもしれないなと思ったんだ」
ふいに、部屋の中に霜が降りたように、しんとした。美桜も美桜の母親も喋らない。
武藤が慌てて話を続ける。
「いや、ごめんね、変なこと言って。でもさ、僕は全く気にもしてないけど、周りでびっくりする人もいるかもしれないし……」
「先生」
慌てて話す武藤を、声の迫力だけで押しつぶすような、美桜の母親の呼びかけだった。
「先生、他言はしないで頂けますか?」
身長が一五〇センチを超えるぐらいしかない美桜の母親が、存在感と迫力で二メートルに近い武藤を圧倒していた。
「他言するくらいならば、隠すためのものを買ってきたりしません」
「それは、そうでしたね」
美桜の母親の声が、若干柔らかくなった。
三十秒を優に超えるほど、沈黙が続いた。
ようやく美桜の母親がなにかを決心し、口を開く。
「しかたありません。事情をお話ししますが、多言は無用に願います。美桜の目のことがこんな形でばれるなんて、考えてもいませんでした。
私の目を見てください」
武藤は、美桜の母親の顔に目をやり、驚きの表情を浮かべた。美桜の母親の目も、地は黒いのに冴え冴えと青く光っていた。
ふっと、その色が消える。
「うちの家系の女性は、先生のおっしゃるとおり、赤外光が見えるんです。自分の意思で見えないように気をつけることはできますけれど。
詳しくはお話できませんが、私は、これを活かして、国家安全保障の関係の仕事をしています」
「あ、はい」
圧倒された武藤が、口ごもりながら間抜けな返事をする。
「将来、美桜もこの仕事に就くでしょう。それを考えれば、先生のお気遣いはとてもありがたいことです。ですが、このことについては、忘れていただけると助かります。美桜も先生も危険になります」
「そうですか……。危険って……」
「ええ、美桜にとっては命の危険が、先生もそれを知っているというだけで、他国の機関から尋問対象の候補になるでしょう。
先生が、美桜のことを本当によく観てくれていることが分かりましたし、それは本当にありがたいことです。ですが、本当に申し訳ありませんが、内密にお願いします。
また、すべてを無かったことにし、家庭教師を辞められるということであれば、残念ですが、私に引き止めることはできません」
「勝手な話は止めてよっ!」
思わず美桜は叫んだ。
武藤の太い腕を両手で握る。
「先生っ!」
「辞めないで」と続けようとして、美桜にはそれが言えなかった。
そろそろと、武藤の腕から手を離す。
思い出した。
自分は、別の世界の人間なのだ。
美桜は、武藤に対して遠慮なく甘え、言いたいことを言ってきた。先生は大きいんだから、私の言うことなんか余裕で受け止めてくれるっしょ、って思っていた。実際、武藤は笑いながら、それを受け入れてくれた。
だけど、こちらの世界に来て、とまでは言えない。
すうっと心が冷たくなる。
なにか言わなきゃ、と思いながらも唇は震えるだけで思うように動かない。
先に口を開いたのは武藤だった。
「朝倉さんは、住む世界とか、もういろいろが決まってしまっているんですね」
「先生、泣いてんの!?」
美桜は、こたつの天板すれすれまで顔の位置を下げて、武藤の顔を見上げた。
「いや、ごめん。僕なんか、ずいぶん気楽に生きているけどね。人が一生の間に背負える重さは、そんなに違いがないと思っていた。
それなのに、いつも明るくて元気な朝倉さんが、そんなに重いものを背負って、危険ですらある人生をすでに決められていたと聞いたら……、そして今の思いとか、その重さが想像できるだけに……、可哀想なんて言ったら失礼ですよね。ごめんなさい」
武藤は看破していた。
話に出た組織は、当然のこととして、なんらかの大義を持つのだろう。
でも、その大義と引き換えに、この綺麗な娘の無邪気さは、遠からず確実に失われてしまう。
この娘の人格が、失われるために形作られてきたのだとは思いたくない。
しかし、そんな感傷を超え、今の姿を失ったあとは、恐怖を与え、与えられる世界でそのことに生きがいを見つけて生きていくのだろう。それとも、今の溢れんばかりの生気を失い、危険な毎日を輝きを失った眼で生きていくのだろうか。
ここまで示している才能も、結局はこの娘を幸せにはしない。
才を示せば示すほど、その世界から抜けられなくなるのは自明のことだ。
こんな不条理があるのかと思う。
そして、武藤は、あからさまに示された美桜の心情にも動揺していた。
それなのに、今の自分にできることは、何もない。
自分も、美桜の人生から奪われるもののうちの一つなのだ。
すべてを解っているはずの母親が、そのような人生を、娘に強いたくて強いているのではないことも理解している。
本人さえもが未だ気がついていない未来まで武藤は理解し、そして、現在の美桜の姿を惜しみ、哀れみすらこみ上げてくるのを抑えきれないでいた。
「先生……」
「いやいや、本当にごめん。ちょっと、うるってきただけだから。大丈夫だよ」
美桜はまたもや必死になって、武藤の腕をつかんだ。やはり、何も言えはしないのだけれど。
「先生……」
そして、やはり呆然と手を離さざるを得ない。
「はは、『僕は全く気にもしてない』って言ったよね。目の色なんて、美桜さんのパーソナリティーでいいじゃないか。ちょっと、いや、かなりびっくりはしたけどさ。
でも、とりあえず、来年の一回目は、お休みにさせてね」
武藤が、とぎれとぎれに言う。
「えっ、先生、やっぱり辞めちゃうつもりなんですね?」
武藤の腕を三度掴んだ美桜の表情は、涙を湛えた必死なものになっている。
「いや、僕も、自分の成人式には出たいなと思って……。来年の一月十五日は、木曜日なんだ」
美桜はかっくんと脱力した。
「先生、お願いだから、脅さないでよー」
そう言って、美桜はこたつの天板に突っ伏した。
「振替は、どの日がいい?」
もう、ほとんどいつもの口調に戻って、武藤が聞く。
答えたのは、美桜の母親だった。
「先生、前日から、お友だちとお祝いとかされるんでしょう? 成人の日の翌日の金曜日でも構わないですか?」
「そうしていただけると助かります。ありがとうございます」
「ほら、美桜、いつまでも突っ伏してないで、先生にご挨拶して」
「はい、先生、良いお年をお迎えください。それから、次に会うとき、私は十六歳になっているの。言いたいことはわかるよね、先生!」
「せめて今は」と、そう考える自由しかないのは美桜も解っていた。せめて、その自由は行使したい。
突っ伏していた、こたつの天板に水滴の跡が残っていてもだ。
母親から、気が付かない振りでの叱責が飛ぶ。
「こらっ! 美桜っ!」
「えっ、桜なのに、誕生日は春じゃないんだね?」
武藤も話を逸らす。
「冬の後には、必ず春が来て、桜は咲くんです。冬だからこそ、花を思って耐えて、と」
これは母親が答えた。
武藤は……、耐える冬の長さを理解している両親が、せめてもと送った名なのだと理解していた。
でも、そんなことを本人を前に口に出せるはずもない。
「そうなんですか。
美しい桜って、本当にいい名前ですよね」
美桜はにんまりと笑ってみせた。
自分でも好きな、この名前のこと褒められると嬉しい。
「じゃあ、誕生日を祝って、いつもの倍、問題を持ってきてやろう」
「あ、先生、ひどい……」
「はい、それでは、そちらこそ良いお年をお迎えください。ついでみたいに言って悪いけど、いい誕生日を」
「はい」
もう、お互い、いつものどおりの口調だった。
次回、襲撃




