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同級生を彼女にしたら、世界最古の諜報機関に勤務することになりました  作者: 林海
第二章 連理比翼、ハレー彗星の年より(全14回:昭和の純愛編)
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2 考えるということ


 ノートを開く。

 武藤が、それを覗き込んで、少し驚いた表情になった。

 「ねえ、問題を解く前にいきなりで悪いけど、そのノート、勉強の時にいつも使っているものなの?」

 「はい」

 「うーん、いきなりだけど、数Ⅰが苦手になった理由が解ったような気がする……」

 美桜は、手の中の自分のノートを見下ろした。


 カラーマーカーで色分けされ、ミリ単位の誤差もないと感じるほど整然とした書き込みできっちり作られている。学校の先生も、友達も、みんな褒めてくれるノートだ。これのどこが問題だというのだろう?


 不満そうな感情が表情に出てしまったのだろうか。

 武藤が自分のノートを広げ、一枚を破り取った。そして、式を書く。

 「これ、解いてみて」

 美桜は、ためらいなくノートを破る武藤に驚いた。罫線を無視して書かれた式の字も、そう上手くはない。

 なんとなく、指導者としての武藤に不信感を抱きながら、美桜は椅子に座り机に向かった。


 カッコが入り組んで、分数まで混じった四則混合の長めの式だ。ただし、それだけのものではあるので、小学校高学年レベルの計算ということもできた。

 式の頭から、順番に計算していく。

 二分間ほど、一心に計算していた美桜の手が止まった。

 式の最後に書かれていたのは、×0。

 この二分間の、全てが無駄になった。

 思わず、武藤の顔を見上げる。


 「苦手なところが分かったかな?」

 武藤の目が笑っている。

 「どういうことでしょうか?」

 美桜は、自分の言葉が、なんとなく険を含んでいるのを自覚する。

 「全体が見えていない」

 シンプルで、美桜を打ちのめす重い言葉。さらに美桜の心情など、まるで構わないように武藤は続ける。

 「綺麗なノートは良いことだ。でも、そのノートは何のために作っているのかな?」

 「ノートが綺麗でないと、頭の中が整理できないと教わりました。きちんと理解するためです」

 なんか、くやしい。今でやってきたことを、すべて否定されているような気さえする。

 「僕は、他教科のことはどうでもいいけどね……。

 数学に関しては、整然としすぎると答えなんか出せないよ。計算間違いは、きっちり書くことで防げるとは思うけど、それだけじゃあ算数だ。数学は、もっと全体を見通す心の余裕と、縛られない自由な視点が必要なんだ。

 今の式だって、計算を始める前に全体を眺める余裕があるだけで引っかからなかった」


 美桜は、武藤の言うことが理解できないのではない。

 ただ、今まで、勉強とは、几帳面に手を抜かないことがベストだと信じていた。その、自分の価値観が否定されたのが面白くない。

 また、その感情が表情に出るのを、抑えることができない。


 武藤は、またノートを破く。そして、図を書いて美桜に渡す。

 「じゃあ、次だ。図はトイレットペーパーだ。直径10センチ、紙の厚さは0.05ミリ、芯の直径は3センチ。このトイレットペーパーの長さは何メートルかな?」

 真横から見た図だ。同心円が二つだけのシンプルな図に、寸法が書かれている。

 「わかりません」

 美桜の反応は早い。


 「なんで?」

 「芯に巻かれた紙は、一周ごとに直径が増えます。微積とかが必要ですよね。まだ一年ですし、習っていません」

 「ほら、僕より年下なのに、僕より頭が固い。こんなの、こう考えたらどうだい?」

 武藤が図を書き足す。

 「芯を除いたドーナッツの面積を、0.05ミリで割ったら長さが出ないかな? トイレットペーパーの紙を横から見れば、縦が0.05ミリの薄ーい長方形ってことになるよね。その長方形が、芯に巻きついているだけだ」


 美桜の頭の中を、いろいろな考えが錯綜する。

  “えっ、言われてみれば、それはそうですけど……”

  “これじゃ、小学校の問題じゃない?”

  “こんなの、小学校のドリルの中に紛れていれば、悩むことなく解けていた問題”

  “こんなの、意地悪クイズとどこが違うの”


 そして、口から出たのはやはり非難の言葉だった。

 「こんなの、狡いです。さっきのだって、×0が先に書いてあれば……」

 「狡い? どこが? 問題が、解く人に対して狡いのは当たり前だよ」

 くやしい。答えられない。

 反論できない。

 いや、反論自体はいくらでも思いつく。そして、その反論の論理が、再反論によって砂の城のように叩き潰されることが完璧に予想できるのだ。


 武藤の声が、少しだけ厳しさを帯びた。

 「算数と数学は違う。

 数学は、世の中の全てを理解するために、目の前の現象を式に置き換える作業が必要だ。ものを投げた軌跡について、現象として何が起きているかを観察し、実験によって完全な理解を得て、それが二次曲線と近似していることを看破する。

 でね、自然現象は、×0から計算しやすいように並んでなんかいないんだよ。

 最後にだけど、例えば、トイレットペーパーという事象を式で表すのに、狡いも汚いもない。あるのは、美しいか美しくないかだけだ」

 「これは美しいんですか?」

 武藤の思いの外強い語調に、なんとなく気を呑まれて、それでも美桜は聞く。

 「美しい」という単語が数学と組み合わされるのを知らないわけでもない。

 でも、それが高校で習う数Ⅰでも成立するというのは、あまりに予想外だったのだ。


 「美しいじゃないか。極めてシンプルだ。

 どうだい、逆を考えよう。

 トイレットペーパーを家の周りに何周もさせて、長さを測るという行為は美しいかな? たとえ、それが、全く誤差のないきっちりした広げ方だったとしてもだ」

 自分の家に、何周にも巻かれたトイレットペーパーが頭に浮かんで、おもわず美桜は笑った。


 なんとなく、武藤の言う、美しさというものが解らないでもない気がする。明快でシンプルということなのかもしれないと思う。

 「先生、じゃあ、ノートとかも含めてどうしたら良いのですか」

 素直に口から言葉が出た。

 「さっきも言ったけど、綺麗なノートを否定していないよ、僕は。

 でもね、数学は、混沌とした現象から論理を使って秩序を作り出していくものだよ。そう思わないかい? 長い式が整理されて、シンプルな式になって、それが答えになる。特にそれが数Ⅰの世界だ。

 だからね、最初にシンプルにするための突破口を発見するまでは、綺麗なノートになりようがない。どうしたって、ぐちゃぐちゃな部分がでてくる。

 特に女の子に多いのだけど、最初から最後まで綺麗なノートにこだわるあまり、答えを先に見て、ノートを作ってしまう子がいるんだよ。

 そんな勉強、百年やっても自分で答えを出せるようにはならない。

 綺麗なノートは、思考の筋道として頭の中に作るんだ。頭の中にそれができると、式を見ればその式の言いたいこと、式が収束する方向がすぐに浮かんでくるし、算数の計算ぐらいなら、問題を見ただけで答えが頭の中に降ってくるようになる」

 ショックだった。実は、このノートの中には、いくつも答えを見てから作った部分があった。


 「それが数学の勉強なんですね……」

 「そうだよ。

 だから、一つの問題を二時間も三時間も考えてもいい。僕は、袋小路に入って出られなくなったときに、ある程度のヒントを出すだけで、答えの出し方を教えたりはしないよ。

 僕は、数学はスキルだと思っている。

 手とり足とり教えてもらって、知識と公式を頭に入れることはできるけど、それではスキルにはならない。

 朝倉さんはまだ一年生だし、考えて、悩んでスキルアップする時間はまだたくさんある。

 朝倉さんが三年生で、あと三ヶ月で受験なんていうのならば、公式の詰め込みもしなきゃならないけれどね。

 今の朝倉さんに、そういう勉強は必要ないと思うし、スキルアップがきちんとできれば、公式なんていくらでも自分で導き出せるから、覚える必要もない。

 そこまで行けば、頭の中に解法の筋道が綺麗にできているから、類似した問題はどんな切り口で出されてもすべてあっけなく解ける。それを繰り返しているうちに、初見の概念を必要とする問題でも、どう考えれば解けるか鼻が利いて判るようになる。

 そして、それは記憶によるものではないから、ボケが始まるまで、一生スキルとして持ち続けることができる。

 さあ、最後に聞こうか。

 どっちが、入試の場で有利かな?」


 美桜には、答えられなかった。

 どちらが有利か判らないからではない。あまりに自明なことに気がついていなかった、自分自身に対してショックを感じていたのだ。

 解き方が頭の中に作れていないのに、初見の試験問題の答えが出せるはずがない。

 問題と答えがあって、その解法行程を清書しなさいなんて問題は絶対出ないのに、そんなやり方ばかりを磨いていた。

 理論的には、数学の問題すべてに対して解法行程を丸暗記できれば、この方法でもいいだろう。でも、そんなことが絶対できないのは、自明の理だ。


 確かに、美桜も最初は考えて問題を解いていた。

 でも、一時間考えているだけならば、どれほどノートにまとめられるだろうかと思ってしまったのだ。ノートは形に残るし、勉強した気にもなれる。


 考える時間を取ってもいいのだ。数学とは、そういうジャンルのものなのだ。

 それが判れば、数学に躓いた理由も、克服する方法も簡単なことだった。


 武藤は、愕然としている美桜の顔を覗き込んで笑った。

 「失敗したかな? 僕は。

 今日でもうアルバイト、終わりかな?

 朝倉さん、進学校だし、頭良いみたいだから、やり方さえ解れば一人でどんどんやれちゃうもんね」

 「いえ!

 先生、来週もよろしくお願いします!」

 美桜は反射的に答えた。叫ぶような勢いで。


 美桜にとって、武藤は初めて会う、明確に自分を優越した他者だった。


次回、考えるということ2

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