30 彼女の決意
姉のバランスシートには、片方に俺の未来、片方に姉自身の命が乗っている。その俺の未来が姉の主観に過ぎないものであっても、その二つが釣り合うことの重さを俺は感じざるを得ない。
もしも、そこに乗っているものが、俺の未来でなく、俺の命だったら姉は迷わないということになるからだ。
だからこそ、俺がこの組織に入りたいという意思を伝えることで、そのバランスシートが、姉自身の命を放り出す方に傾きかねない。
だから、さらに俺は何も言えなくなっていた。
時間だけが過ぎていった。
……この空気がガラスになったような状況に異を唱えたのは、美岬さんだった。唐突に立ち上がり、姉に声をかけた。
「お姉さん、お願いがあります」
姉は、焦点の合い切らない目で美岬さんを見上げる。
美岬さんは、その目をまっすぐ見返した。
なんらかの決意を示すように、両手を握りしめ、その手は小さく震えている。
単にアドレナリンが出ている状態などとは分類できない、俺の嗅覚上、初めて観察する生理反応。緊張と決意と怖れのカクテル。
美岬さんの次の行動は、俺も、そして、ここにいる誰もが予想だにしないことだった。
どことなく雲を踏むような覚束ない足取りで、俺の横まで来る。
目が合う。
その目には、俺が嗅覚で得たものと同じく、怯えとそれに相克するための必死の決意が浮かんでいる。
その意は判らなくても、何か声を掛けなくちゃ、だ。
「みさ……」
次の瞬間、彼女は髪を肩から流しながら上半身を倒し、自分の唇で俺の唇を塞いだ。
俺は……。真っ白になった。
すべてが遠ざかり、視界に目をつぶった彼女のみが残り……。
そのまぶたにうっすらと浮かぶ涙。
唇を介して伝わる体温と甘さ。
生々しいまでの薫り。
俺も美岬さんも、命を燃焼させている生き物なのだという実感。
その時間は数秒だったのだろう。
でも、俺が自分を取り返したとは思えないうちに、彼女は姉と話の片をつけていた。
「お姉さん、中学、高校と無視され、中傷され続けた私を信じてくれたのは、真くんだけでした。同級生と話せる普通の高校生活を与えてくれたのも、真くんでした。母の想いに気がつかせてくれたのも真くんでした。
私のこれからの人生も、本当の意味で与えてくれたのは真くんでした。
お姉さんの考えていた時期よりも早く、この歳で、真くんの人生を決定してしまうようなことを言ってしまって、申し訳ありません。
確かに、私が私として生きられる場所は、真くんにとっても、真くんとして生きられる場所だと信じています。
でも、そんなことも、母の言っていた将来のこととかも、私にはどうでも良いことです。
私は……。
私は、真くんと一緒にいたい。
世の中が悪意に満ちているのならば、私にとって唯一の善意の象徴である真くんと、未来でも一緒にいたい。将来が見えないのは解っているけれど、それでも、私のすべてを真くんに捧げてもいい。
だから……、真くんを私にください。
お願いします」
姉は、深く頭を下げたままの美岬さんを呆然と見た。次に、俺を見、そして微笑んだ。
目に一杯に涙を溜めて、それを落とさないようにしながら。
「真、普通の人生には戻れないかもしれないのよ。解ってる?」
「はい」
「うん」でも「ああ」でもない。きちんと答えないと、と思った。
そか、俺の方が貰われていくのかなどと、ほとんど真っ白になった頭で同時に考えながら。
「負けたわ。負けた負けた。
好きにしなさい」
「お姉……、俺の方が、解ってなくて、本当に馬鹿でごめん」
「お互い、ファーストキスだったんでしょ。私も女だから、美岬ちゃんが今の言葉を言うのに、どれほどの勇気と覚悟が必要だったかは解るわ。ここまで一途で真っ直ぐな覚悟を見せられちゃったら、もう、私が邪魔しているみたいだもんね。
でも、あとは真次第。美岬ちゃんの一途な真っ直ぐに釣り合えるようになって、期待を裏切らないで済むように頑張らないとね。
ただね、こんなに早く、飛び立って行ってしまうなんて思ってもみなかった……」
最後は、声にならなかった。
いろいろと、感動の極みにいる俺に、氷水をぶっかけたのは母親さんの不吉な低い声。
「昼間から始まって、今の、親として納得いかないんだけれど。
美岬、覚悟しときなさい。真君、君もよ。
それから、言っとくけど、妊娠なんて状況、承知しないからね」
俺は、この言葉と氷のような口調を、後々、嫌というほど思い知ることになる。
次回、夏休み前
まずは、めでたし?