12 蛸尽くしの日(終話)
最終部分です。今までありがとうございました。
国宝の城の北側、歴史のある小学校に面した一画に、「キッチン 当たり屋」はある。
落語好きの店主で、当たり屋の屋号は柳家喬太郎の時蕎麦のネタから取った。もっとも、これは初期のネタで、今では「外れ屋」ということが多い。
ウッディな店の中には、観葉植物の大鉢が一つ、四人掛けテーブルが二つ、二人掛けが三つ、小さなカウンターに五つの椅子が置いてある。
決して大きくはない店だ。
料理は本格的で手を抜かず、美味いコーヒーか紅茶などの飲み物が付く。
店主は脱サラした四十代の男。
子どもたちの声は賑やかだが、数は少ない。お盆休みの直前なのだ。
今日のランチメニューはスペシャル。なぜならば、本来ならば定休日だからだ。
この店は客を選ぶ。
「一見様お断り」ということではない。
店主が好みのものを作る。そこに妥協がない。客が好みに合えば良い店になり、合わなければその逆だろう。
今日は、特別。
客に選ばれての営業。
お盆で生鮮が手に入りにくくなるので、稼ぎ時とはいえ営業は休もうと思っていた。現に、今日は市場の休業初日だ。でも、今日の食材は昨日仕入れて、仕込みは済ませ、鮮度は保っている。
今回は、大皿料理もあるので、器を友人から幾つか借りる。
古くからの友人である、久呂保窯の窯主からの好意である。
閉店前の最後の宴会の予約と話したら、この間遊びに来たばかりだというのに、再び自身で運んでくれたのだ。
宴会の予約の主が、あの嗅覚の人というだけで、面白がったのである。その酔狂さには、今晩にも相応の飲み食いで応じなければならないが、自分も一緒に飲み食いするので問題はない。
蛸尽くし。
夏が旬の、水蛸を使う。多めの予算を提示されているので、生きている大きな一匹を奮発した。自分達の今晩の分に、小振りなのも、である。
先付、造り、燻製、煮蛸、焼き蛸、蛸飯、香の物。最後に水菓子でいく。
蛸を締め、塩で軽く揉み、体表に付いたゴミなどを取る。その後、糠で入念にぬめりを取る。蛸が大きいので、毎日ならばこれ用の洗濯機が欲しいところだが、単発のことだし、手で揉む方が柔らかくなる。
今日は、手を抜けない。
今までも意識して手を抜いたことなどないが、今日は料理の着地点を考え抜く。
短い期間だったが、常連となってくれたお客に最後に出す料理。
外食屋としては失格に近い、自分の食べたいもの、自分が旨いと信じているものばかりを出していたこの店を愛してくれたお客なのだ。
そして、そのお客が連れてきた、途方もなく鋭い感覚で自分の嗜好を理解してくれた連れのお客と、その婚約者へ出す料理だ。
先付。
大根おろしにとんぶりを加え、少量の酢を混ぜる。これに軽く茹でた蛸の頭の薄切りを和える。あえて、香りのもの、彩りのあるものを避ける。それぞれを混ぜる割合を見切ることで、旨味の濃すぎず、食欲をそそる、最初に出す料理としてふさわしいものにする。
粉引の深めの小鉢で、淡い彩りを活かす。
お造り。
水蛸は、真蛸よりも旨味は薄いが歯触りが良い。それを生かして、足の薄造りと吸盤を刺し身に引く。
つまは、夏野菜で。茗荷とレタスのけん、セロリの唐草。走りの小さな酢橘を添える。この華やかさが、真蛸よりも薄い旨味をカバーしてくれるだろう。シンプルに、塩、山葵、醤油で食べてもらう。活け締めし、一晩昆布を抱かせた鮮度であれば、これだけで最高のものになる。
山葵は、安曇野まで買いに行った。促成に塊根を太らせたものではない、香りの高いものを選ぶには、足で稼ぐしかないのだ。
オリーブオイル、岩塩とワインビネガーでカルパッチョも考えたのだが、最後は蛸飯で締めくくりたいので、和のテイストでいく。
これは、米色瓷の平皿に盛る。皿の色を抑えることで、料理の瑞々しい色合いをより感じさせるのだ。
燻製。
塩で水を抜き、扇風機で軽く表面を乾かしてから煙を当てる。熱燻で、燻しながら焼くように火を入れる。これを薄く切り、キュウリ、三つ葉と和え、アイオリを添える。
アイオリは、ニンニクを潰し、卵黄と混ぜ、オリーブオイルを垂らしながら乳化させる。最後に塩胡椒で味を調える。ただ、寿命が短いソースなので、仕上げの直前に作る。
なお、アイオリソースはスペイン、フランス辺りのものなので、和に近づけるため少し悪戯をする。
炊いたご飯を潰し、おせんべい状に乾かしながら狐色に焼いたものを添える。本来ならば、フランスパンの薄切りを添えたいのだが、それでは流石に和からかけ離れてしまう。
これも、色目のない白磁の丸い平皿で、料理の色を引き立てる。
煮蛸。
よく叩いた蛸の足を、昆布出汁にごく少量の酢、刻んだ大根、少量の醤油を加えたもので煮る。
ただし、フレンチの技法で、だ。
ポワレ(加熱)とルポゼ(休ませる)を繰り返すのだ。極めて短時間、沸騰に近い煮汁に泳がせ、常温で休ませる。それを繰り返して、足の芯寸前まで火を入れ、休ませる。盛りつけるまでは、冷ました煮汁の半量に漬け置いておく。
夏なので、一緒に煮るものとしては、南瓜と冬瓜を選んだ。大ぶりに切り、煮汁の半量で煮る。冬瓜は、煮汁の中で休ませておくが、南瓜は煮汁から引き上げておく。全てが、なんとなく黄色くなってしまうからだ。
大振りな焼締めの鉢に盛り、テーブルでリンゴの剪定枝を灰にしたものを釉薬にした角皿に取り分ける。客の前で取り分けることによって、ライブ感を出すのだ。
焼き蛸。
本来の会席であれば、焼きから煮になるのだが、あえて逆を行く。なぜならば、今回は焼きの方がイメージが強いからだ。
蛸の味噌漬けを焼く。
蛸の足の最も太い部分をサラシに包んで、生姜のすりおろし、酒を加えた白味噌に一晩漬ける。
同時に、薄い杉板を塩水に浸けておく。
味噌に漬かった蛸を薄切りにし、杉板に並べる。そして、かんかんに熾きた炭火で一気に杉板を炙り、蛸に火を入れる。江戸の古い技法だ。
焼けたら、時間との勝負。
レモンを添え、すぐに食べてもらう。ただし、添えるのは、レモンと言っても中東の酸味の少ないものだ。強い酸味は、繊細さを壊してしまう。
スダチよりも爽やかな香りと、ほのかな酸味だけが欲しいので、かつて食べたことのあるイラン産のレモンと同じものを奇跡的に入手した。
これも焼き上がりを焦げた杉板のまま、貫入の入った青磁の大きな輪皿に並べる。蛇窯焼成の見事な逸品だ。これを塩、胡椒、レモンを乗せた青白磁の取皿に取り分ける。
蛸飯。
大根で叩いた蛸の足を、一口大に切る。
蛸は、ご飯と炊かれる間に縮むので、大ぶりに切らないと貧相になる。大根は米粒の倍の大きさくらいに細かく刻む。研いだ米、生の蛸足、刻んだ大根、酒、海塩を加えて炊き上げる。ただし、蛸から水と塩が出るので、水加減、塩加減は少なめにする必要がある。炊き上がったら、焼締の茶碗に盛り、青紫蘇の千切り、生姜の糸に切ったもの、有馬山椒を天盛りにする。これで色合いも美しくなる。
これで、一匹を八人で食べきることになる。
人数が八人ということで、蛸のコースを思いついたのだ。
また、骨董品店の店員と言いながら、倉庫整理の肉体労働をしていたらしいので、タウリンが多い蛸は疲労回復に役立つだろう。
骨董品店ってのは、あんなに大きな倉庫と、その中にしまう在庫を抱える必要があるのかと思う。素人目にも、資産が億の単位では収まらないことは想像がつく。とはいえ、そこから利潤を上げるのは大変なことだとも思う。定食屋は毎日お金が入ってくるが、彼らは年に数回かも知れない。
香の物は、キュウリとナスの糠漬け。
青白磁の大鉢に、小細工なし、王道で山盛りに盛る。
汁はもう、動物性の出汁は使わない。とろろ昆布とネギだけ。
蛸は、案外と良い出汁をひくことができない。ならば、下手な小細工をして強引に出汁を絞り出すよりも、その獣肉にも似たクセが口に残るのを、とろろ昆布のみの汁で受け止めさせた方が良い。
これほど簡易なものであっても、とろろ昆布の汁は魯山人が絶賛するものなのだ。
水菓子。
果物は、ちょっと悪戯をした。
スイカをくり抜き、皮を容器とする。
取り出した果肉は、さらに球形にくり抜いていく。メロンも球形にくり抜き、杏仁豆腐も球形にくり抜く。スイカの中に、アルコールを飛ばしたジンを効かせたシロップが張られ、色とりどりの玉が浮いている趣向。
「青い珊瑚礁」というカクテルからヒントを得た。
本当ならば、一個のスイカを出しただけに見えるというサプライズにしたいが、今日の客には無理。すぐに見破られるだろうが、それでも他の客に喜んでもらえれば良い。
そんなサプライズなので、スイカには皿は用意しない。テーブル直接どんと置いて、驚いてもらう。
取り分けは、米色瓷の小ぶりでも深い鉢。シロップをたっぷりと取り分けたいからだ。
一見、控えめな鉢の色が、フルーツの色を引き立てるだろう。
俺は、街の一画にある、組織の重要な施設に、任務を果たすために半年前から赴任して来た。
で、その任務も終わり。
組織のカバーである、骨董品店の店舗の引越し準備も終わった。
最後に美味いものを食べようという相棒の双海の提案で、今日の食事会となった。
人数は八人。極めて内輪の集まりで、職場以外の肉親も混じっている。俺の妹までも、だ。
店の戸を開けて中に入る。
店内は、四人掛けのテーブル二つが寄せてあり、いつもとちょっと違う雰囲気となっていた。
店主が、水とペーパーおしぼりを目の前に置く。
いつもの通り、注文は選ぶことがないので、聞かれない。
ただ、その一方で、聞かれたのは次のこと。
「正山小種にしますか、それともそれ以外にしますか。
ただ、今日は、私としてはベドウィン風の紅茶をお勧めしますが」
「そう言われちゃ、ベドウィン風の紅茶だよね」
双海が言う。
「ベドウィン風の紅茶って、どういうのですか」
妹の弥生が聞く。
「摘みたてのミントをこれでもかというくらいポットに入れ、紅茶の茶葉を足して淹れたミントティーです。ミントが浮いているなんてレベルじゃないんですよ。また、ミントティーと言っているので紅茶と言いましたが、白状すると、台湾の凍頂烏龍茶の茶葉を使おうと思います。」
ふーん、面白そうだ。
「じゃ、それで」
「俺も」
「私も」
声が上がる。結局、全員かよ。店主が、今日の料理と取り合わせて勧めるのだから、間違いはないだろうけれど。
「かしこまりました」
そう言って、店主は厨房に戻っていく。
リラックスした雰囲気で、料理を待つ。
ほどなく、全員分の一皿目が置かれる。
「ごゆっくり」
低い声で言って、店主は厨房に戻っていった。
この店で、コース形式で食べるのは初めてだ。
ご飯などおかわりはあるが、基本的にはお盆で出されたものを食べる、盛り切りの定食しか食べたことがない。
まずは少し深い器の中に、真っ白な大根おろしに黒に近い灰色の粒が混じっている。そこにやはり真っ白な、薄切りの短冊状のもの。
大根おろしが、クリーム状と言って良いなめらかさで、また、植物由来の青臭さみたいなものもない。そこに、黒い粒が口の名が潰れるプチプチした歯ごたえが良い。
白い短冊状のものは、箸でつまんだ感触が思ったより柔らかい。ん、馴染みのある味だが、なんだろうな。大根おろしと一緒に口に運ぶと、ふわっとした旨味と黒い粒が口の中で潰れる食感が快感に近い。
双海を見ると、解説してくれた。
「蛸だよ。蛸の頭だ。大根おろしは、酸味を感じさせないくらいの少量の酢を混ぜてある。あとは、とんぶりだ。
すごいなあ。たった4種類の食材で、この完成度かよ」
なるほど、とんぶりか。初めて食べる。
で、蛸の頭もだ。足以外の部分を、食べたことがなかった。食感としては、足と変わらない感じだが、より滑らかな感じがする。薄切りになっているせいか、大根おろしと口の中でよく馴染む。
あっという間に食べきるが、これをあてにゆっくりとちびちび日本酒が飲めたら、本当に幸せだろう。
我ながら、なんか、ここでは呑むことばかり連想している。
次は、見た目も涼しそうな、蛸の足の薄造りと吸盤のお造り。
ああ、このお店の料理だなあと思うのは、刺身のつまが大根ではなく、茗荷の細切りがたくさんの空気を含んでふんわりと盛られていること。あと薄い緑のつま、上に飾ってあるのはセロリかな。全体的にいつものパステルトーン。
「あ、安曇野の本わさびだ」
双海の呟きが聞こえる。
くぬくぬしながらも歯切れの良い薄造りと、噛み応えのある吸盤とが良いコントラスト。あっさりしていて、淡白で、でもコクを感じる不思議。茗荷のつまと同時に口に運ぶと、しゃりっとしたつまとの歯ごたえの差が面白い。
薄い緑色のつまは、レタスだ、これ。ほのかなレタスの青臭さが、蛸の香りを引き立てている。茗荷の香りも、蛸の香りのより良い部分を引き出す感じになっている。
わさびとの相性も良い。鼻に良い香りが抜けるが、ツンとする感じではない。優しい良い香りが蛸を包み込む。
一口ごとに違う香り、薄造りと吸盤で異なる歯触り。
半分ほど食べたところで、皿の脇の塩に気がつく。もしかしてと思い、醤油ではなく、塩で食べてみる。
なんだ、これ。タコの甘みが明確に分る。が、これ、塩自体も不思議と甘くないか?
当然のことながら、砂糖の甘みではない。蛸の香りが、くっきりと浮きあがり、醤油以上に何を食べているのかが明確化される。酢橘の香りが引き立つのも、克明に分かる。
なるほど、双海はこういう世界にいるのか、などとも思う。
美岬ちゃんが、店主に聞く。
「このお刺身に付いている塩なんですけれど、もしかして、フランスの?」
カウンターの中から、店主が答える。
「ゲラントのフルール・ド・セルです。ご明察通り、フランスの塩です」
日本の海塩の旨味とは違う。肉に合いそうな感触がある。
ただ、タコだからいいのだろう。魚だと、日本の塩の方が合いそうな気がするが、こう食べてみると、案外、蛸というのは獣肉に近いのかもしれない、
どうやら、三品目も蛸。
今日は蛸づくしなのかもしれない。薄く茶色く色づいた蛸に、キュウリとセロリの拍子木切り。で、マヨネーズがぽってりと沿わされている。
口に入れて、裏切られた感触。旨くないのではない。予想と全く異なる味なのだ。
「懐かしい。アイオリじゃないですか。フランスを思い出しますね」
武藤佐が言う。ああ、この人は、任務でフランスにいたんだったね。定年より早く、今年度いっぱいで退職予定だ。
旦那の意向が強いと聞いている。そして、切っ掛けが双海だとも。
旦那はトルコに戻っている。とはいえ、旧交を温めるという側面が強く、武藤佐が辞める時には日本に戻っているだろう。ここに呼べたら喜んでくれただろうけど、それでも、もしかしたら来ないかも知れない。
俺は、武藤佐の旦那と遠藤さんと双海が、なぜか決して三人揃って同席しないことに気がついている。それがなぜかは判らないけれど、不都合やドタキャンが必ずあって、それなのにそれぞれの仲は良いのだ。おそらくは、俺にも言えない秘密があるのだろう。
アイオリは酸味のないマヨネーズといった風のものだった。でも、味の濃厚さはマヨネーズの比ではない。また、酸味はないけど、にんにくとオリーブの香りが濃い。このままフランスパンに付けて食べたら、それはそれで旨いだろう。
そして、この蛸、燻製にしてある。煙の香りが付いているせいか、アイオリに負けない強い味わい。それだけではない。濃く、強い味わいの中で、キュウリとセロリの青臭さがくっきりと爽やかだ。
薄焼きのおせんべいに乗せて食べるならば冷酒だけれど、酸味の強い白ワインも合いそうな気配。夏の料理だねぇ。
やっぱり、四品目も蛸。
冬瓜と南瓜、そして蛸。さっくりとして、柔らかく歯切れの良い煮蛸。
俺と妹は、親に恵まれなかった。
自分で稼げるようになって、たまにやっと行けるようになった寿司屋では、盛り切りと蛸、〆鯖の握りとキュウリ巻きは強い味方だった。
煮そこねた噛み切れないような蛸も食べた。逆に、口の中でほどけるような柔らかい蛸も食べさせてもらったこともある。
そのどちらとも違う。
表面は、さくさくに近い歯ごたえなのに、中は生に近くしっとりしている。冬瓜も、蛸の味が染みて透明になるほど煮られているのに、歯ざわりが残っている。南瓜も、自身の甘さを引き立てながらも、蛸の旨味を吸っている。
「どういう方法で煮たのかを聞いたら、企業秘密でしょうか」
妹が聞く。
多分、聞くのに決心が要ったのは、兄だから解る。
妹も、多分、蛸には思い入れがある。
未成年の兄妹の二人で、必死の思いで暖簾をくぐった。それまで、外食などしたことがなかったから、普通の家庭と同じ体験をしてみたかった。そして、蛸を通して、寿司職人につっけんどんにされた記憶、可愛がってもらえた記憶、その両方があるからこそ決心がいる。
「いえいえ、お帰りまでに、メモを書いときますよ」
あっさり店主が答えてくれる。
妹と、笑みを含んだ視線を交わす。双海は多分、当時から、俺達のそんな生活をきっと嗅覚で見抜いている。そして、それを口に出さないでいてくれた。
今でこそ、妹には三人の姉とも言うべき女性がいる。
双海の姉の真由さん、美岬ちゃん、そして和美の三人が妹を本当によく可愛がってくれた。
そのおかげで、兄では至らないところも手を差し伸べてもらえた。本当に感謝の念しかない。
五品目も蛸。だが、飽きない。
杉の薄板に張り付いた、蛸の薄く切られた足。
杉板の裏面は、多分真っ黒に焦げているだろう。まだ薄く煙が立っている板もあるし、表も角は炭化している。熱々なのは見て取れるので、付いてきたレモンを絞ってすぐに口に運ぶ。ここの店の料理が、温度感に気を使っているのは解っている。
目が覚めるような鮮やかさというのは、こういうのを言うのだろうか。蛸、それと、そう、これは味噌だ。焦げた杉の香り、絞ったレモンの香り。全てが渾然として、かつ全ての香りが自己主張している。
感動。
前に、この店でカレーを出された双海が、感動のあまり店主から少なくない額のお釣りを受け取らなかったことがあった。今、その気持ちが心底理解できる。
生きていて良かった。そういう香りなのだ。
「これ、ケルマンのレモンですか?」
俺たちを職場教育してくれた、小田さんが聞く。武藤佐退職後、後任の佐に昇進が決定している。
「えっ、お判りですか?
びっくりしました。ご存知だったんですね」
店主が答えた。
ケルマンて、どこなんだろう?
「仕事で、中東が長かったんですよ。イランにも行きました。体調管理にビタミンCは取りたいけれど、レモンは案外含まれている量が少ないし、酸っぱくてたくさんは食べられないしで。
現地の人に、これを勧められて、本当によく食べました。日本で味わえるとは感動です」
そうか、言われてみて気がついた。香りは強いのに、レモンらしい強い酸味がない。だから、蛸の味と味噌の繊細さが酸味で覆い隠されないのだ。
そして、スダチではまた違う気がする。スダチはやはり魚に合う。蛸の強さとのバランスが、このレモンだとベストマッチなのだ。
どうしよう。蛸の料理の、極みを食べてしまった気がする。蛸を食べるたび、一生この味を思い出しそうだ。
美岬ちゃんも言う。
「このドーナッツ型の青磁のお皿も見事ですね。こんなの初めて見ました」
料理研究家ってのは、皿にも目が行くのだな。
「一度、こちらのお二人には紹介しましたが、陶芸家の友人がいるのです。見事なものを焼くのですが、今回の話をしたら、特別に貸してくれたんですよ」
「では、このお皿、購入が可能なのですね?」
「ただ、蛇窯で薪で焼いた皿ですから、値段的に結構しちゃいますよ?」
「もしかして、百万とか?」
「さすがに、そこまでは。十万欠けるくらいです」
「これ、買って帰ります」
「陶芸家の友人に代わって、お礼を申し上げます。包んでおきますね」
美岬ちゃんの判断が早いのは、母親譲りだ。
そして、盛り付けも料理のうち。自分への投資なんだ。
さらにもう一つ、新婚の双海家で使う、とっておきのお皿になるに違いない。
大きな土鍋が、二つのテーブルの間に置かれた。まだ、蓋の穴から湯気が立ち上っている。
蓋をあけると蛸飯。
ほのかな赤い色が美しい。店主がしゃもじで大きく天地を返すと、狐色のお焦げが姿を現した。もう、これだけで、美味しいことは確定しているようなものだ。具の蛸とお焦げがほぼ均等になるまで混ぜた後、各自の茶碗に盛られる。
その上から、青紫蘇の千切り、糸状の生姜、山椒の実を煮たものが散らされた。
米と組み合わせると、食材の味が変わって感じるのは、この店でより自覚したことだ。蛸飯を食べると、蛸の旨味は単独の料理で食べるほど濃くは感じられないものの、同時に他の料理では得難い、なんとも言えない安心感がある。
そして、ぬか漬け。
一啜りで口の中が塗り変えられる、切れ味の良さ。
合間の、とろろ昆布とネギのすまし汁の優しさ。
「デザートもあるんですか」
双海の姉が、店主に聞く。
「ありますよ」
「美味しくて、もったいなくて仕方がないのですが、食べきれなくなりそう」
「俺が食ってやる」
俺たちを職場教育してくれた、もう一人の遠藤さんが言う。双海の姉の旦那だ。一回り以上の年の差結婚だが、どっちもベタ惚れだ。この二人がくっつくのは大騒ぎだった。
「どっちかといえば、取らないで欲しいな。後で食べたい」
店主が間に入った。
「まだ土鍋にもたくさんありますから、おむすびにしましょう。持って帰っていただいて結構ですが、季節柄、早く食べてくださいね。食べるときはあえて温めずに、ぱりぱりの海苔で巻くと美味しいですよ」
「これをつまみに、ビール呑む気だろ。太るぞ」
双海が言う。
「呑みません。
重大発表があります。断乳まで呑めないんです」
マジか?
結婚したのは、四年前だっけ。
拍手。
時は流れる。幸せも苦労も、流れてきては去っていく。ここにいる人、いない人、全員に同じように流れてきては去っていく。
また、この幸せを分かち合える機会を得たいと思うのは、欲張りすぎだろうか。
ごろんとスイカが一つ。
双海一人だけが、表情に笑いを含んでいるが、他は怪訝そうな顔。
スイカの蔓を持って、店主が持ち上げると、中は宝石箱。思わず、わぁ、と声が出る。
各自取り分けられて、濃厚にミントの香りがするお茶も供される。
このデザートは、お茶と組み合わせて完成なんだな。
「立ち入って失礼ですが、閉店されるとか」
武藤佐が店主に、確認するように聞く。
「ええ、馴染みのお客さんと離れたくはありませんが、良い移転先がないんです」
「ここの並びの骨董品店ですが、倉庫は残ります。ご存知かと思いますが、石田店長は引退します。でも、あまりに在庫があるので、次代の店長を育てて店を継がせたいと考えているんです。
とはいえ、引退の意思も堅いので、本人は週休五日で、新店長の教育をするだけということに落ち着きそうです。
今回、我が社の菊池が、歴史の知識が豊富なのを石田店長に気に入られまして、本人が望むならば、こちらの部門に転属を考えています。
骨董の勉強に最低でも十年ほどかかりますし、現在の業務もある程度は続けながら、ですけれど。
ただ、骨董込みの倉庫だけを、十年間も管理人を置かず残すのはあまりに不用心なので、信頼できる人に倉庫の一画を店舗にして、何らかの形で営業をしていただきたいと思っていました。
聞くところ、あと十年ほどは営業なさりたいとか。
こちらとしても、菊池が一人前になった十年後にその店舗を返していただければ、この街で再び骨董品店の看板を掲げることができます。倉庫の一画を店舗にするための、防火壁なんかも含めた改造費用等はこちら持ち、石田店長は古くからご存知でしょうから、良からぬ魂胆があっての話ではないことはご理解いただけると思います。
家賃は格安にしますよ。御意思を、後日返答いただければと思います」
えっ、青天の霹靂。サプライズにも程がある。
ああ、でも納得。
最初から、双海と美岬ちゃんはその嗅覚、視覚を買われていた。将来は、必要に応じて他のバディに参加して、オブザーバー的な助言を与える担当になると言われていたことを俺は忘れていない。
美岬ちゃんは、誰かとバディを組むこともなくオブザーバーとして働いていたけれど、結婚を機に退職を考えている。双海は組織に残るけれど、「つはものとねり」の十代に渡る明眼の活躍はついに終わることになる。
その決断は重かったけれど、俺は良かったと思っている。
そして、双海が美岬ちゃんの分までオブザーバーとして働くとなると、相棒の俺が宙に浮く。
そうか、俺の組織内での身の振り方を考えての措置、という意味もあったのか。
俺としてはとても楽しかったけれど、石田店長が何かと歴史の話をしてきたのはそういう意味もあったのか。
中学に入学して、双海と知り合って、もう十五年からが経つ。
初めて会ったときは、ここまで長く付き合うことになるとは思っていなかったし、人生までを左右されることになるとは思わなかった。
このバディという関係も、十年で解消かぁ。長いようで短かったかな。
「そのお話は、とてもありがたいです。ぜひ、契約文書の案ができたら検討させてください。息子の義務教育が終わるまでは、同じ校区のここにいたかったのです。
ありがとうございます」
と、店主。
この食事、いくつもの人生の転機になったんだな。
しみじみ考えていると、氷のような声。
「十年は教育期間なので、今の業務も続けてもらうわよ」
あんた、鬼か?
ということは、まだバディも解消にはならないのかも。
俺の顔を見て、考えを読んだのだろう。
「そもそもね、二十歳代の若造が骨董を売って信頼されると思うの?」
そう付け足された。
ああ、それはそうだ。
年齢が必要な仕事ってのはあるのだ。
思わず納得させられてしまうけど、その俺の表情を見て浮かべた小田さんの笑みも怖いわ。結局は、小田佐配下の経験は積まされるのだ。
まぁ、確かに置き土産もなしに、武藤佐が引退することはないだろうと思う。
双海が、武藤佐を怖がる理由を、否応なく再認識する。
それでも、好きな道に進める果てしない喜びってのはある。
ある意味、和美とも同じ道だ。
願わくば、これからの学びの期間、少しでも平穏でありますようにと祈ろう。
「キッチン 当たり屋」、五十歩の距離を移転し、今日も営業している。
蛸なぞ。
https://twitter.com/RINKAISITATAR/status/1307647531677958145
これにて、終わりです。
お付き合い、ありがとうございました。
※この段落だけ加筆しました。「同級生を彼女にしたら、世界最古の諜報機関に勤務することになりました 〜サイドストーリー〜」を、下記のお話を頂いたので、up始めさせていただきました。よろしくお願いいたします。
ただ、「主人公の『娘さんを僕にください』編は?」 という感想をいただきました。
それって、あまりに面白そうなので、まだ一文字も書いていませんが、形にしたいと思います。
その際には、今回落としてしまった話である、「風邪ひいて寝んね」編とかと併せて、「大学生、就活」編、「ご懐妊」編なんかも良いかもなんて思っています。
番外編ですねぇ。
そのときには、また、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました、




