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同級生を彼女にしたら、世界最古の諜報機関に勤務することになりました  作者: 林海
第十章 あれから十年後(全12回:グルメ編?)
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9 鰻の日


 国宝の城の北側、歴史のある小学校に面した一画に、「キッチン 当たり屋」はある。

 落語好きの店主で、当たり屋の屋号は柳家喬太郎の時蕎麦のネタから取った。もっとも、これは初期のネタで、今では「外れ屋」ということが多い。


 ウッディな店の中には、観葉植物の大鉢が一つ、四人掛けテーブルが二つ、二人掛けが三つ、小さなカウンターに五つの椅子が置いてある。

 決して大きくはない店だ。

 メニューは日替わり、定食一種類のみ。

 その代わり、料理は本格的で手を抜かず、美味いコーヒーか紅茶などの飲み物が付く。


 店主は脱サラした四十代の男。

 土用の丑の日。もう、8月になってしまう。標高の高いこの街の夏は、過ごしやすい。

 今日のランチメニューは、素焼き鰻丼。


 この店は客を選ぶ。

 「一見様お断り」ということではない。

 店主が好みのものを作る。そこに妥協がない。客が好みに合えば良い店になり、合わなければその逆だろう。

 素焼きの鰻がどんなものか、普通の鰻丼とどう違うのか選択の判断材料はない。ただ、ぶっきらぼうな字で「素焼き鰻丼定食、お替り付き、アレルギーのある方は材料の問い合わせを」と書かれた黒板が、店の前に置かれるだけだ。


 今日の客は、観光客風な人は少ない。作業服、スーツ、商店街の店員が均等。やはり、土用の鰻はイベント食なのだろうし、観光で出た先で敢えて選ぶものでもないのだろう。


 鰻は、捌いて串を打ち、軽く塩を振り、時間をかけて狐色になるまで焼き上げておく。時間をかけることで、自分自身の脂で唐揚げのようになるのだ。

 中骨は、丁寧に素揚げにし、さくさくと食べられるまでに柔らかくする。それをフードプロセッサで砕いておく。

 鰻の頭は、やはり素焼きにし、酒で戻した昆布とみりん、醤油で煮て、その煮汁を濾して煮詰めてツメを作る。


 暗めの桜色の粉引小丼には、白いご飯をほどほどに。

 そこに、狐色の鰻の身を一口大に切って並べる。その上に、茗荷、ネギ、紫蘇を刻んだものと、糸に切った生姜を混ぜ合わせた香味野菜の群れをふんわりと乗せる。そこへ、ツメを、糸のように掛けて、素焼き鰻丼完成。


 肝吸いは、肝から丁寧に苦玉を取り除き、きれいに処理してから昆布だしに泳がせる。酒、塩で味を整え、醤油を数滴落とし、三つ葉を最後に散らす。極めてオーソドックスなものを、いつもの黒い漆の椀で。

 小鉢は、今回は無い。お替りに付けるからだ。

 鰻一匹を、客一人に余さず食べ切ってもらうメニューとして作っている。

 これで税込2000円。

 この店で千円を超えることはまれだが、鰻は原価が高く、どうしようもなかった。

 それでも、地方都市でなければ不可能な値段だろう。



 俺は、街の一画にある、組織の重要な施設に、任務を果たすために四ヶ月ちょっと前から赴任して来た。

 ターゲットの観察の結果、現在は即応体制も整っている。ターゲットの人員の出入りが活発化し、銃火器も多く運び込まれている。指揮系統が明らかになる事象も起き、現在、一網打尽のために、リストが見直されている最中だ。


 骨董品屋の店主は、日本でも有数の目利きとして名が知られている、老人と言って良い年の男。このカバーで、四十年仕事をしており、組織内の序列ではナンバー2だ。相変わらず、歴史談義は楽しい。まだまだ学びたいが、任務が終わってしまったらこの石田佐と話すこともなくなってしまう。残念でならない。

 石田佐には、学生時代から、膨大な知識を与えられている。どれほど楽しかったことか。機会が欲しいと思う。もっと学ぶための、だ。



 俺達は店を出て、観察対象建物を横目に通り過ぎ、ちょうど五十歩めで「素焼き鰻丼定食、お替り付き、アレルギーのある方は材料の問い合わせを」と書かれた黒板にぶつかった。

 今日は、双海共々、疲れている。

 カバーの方の仕事、すなわち骨董品整理も申し訳程度にはしながら、二十四時間体制で監視を行っている。トレーニング等、欠かせない日課もある。

 おかげで、昼食に二人で来るのも十日ぶりだ。今日は、見かねた骨董品の店長が、一時間だけとはいえ、監視を引き受けてくれたのだ。老齢とはいえ、若い頃にはきちんとした訓練を受けた経験もある。

 店の戸を開けて中に入る。

 なぜか、今日は女性が多い。二人掛けのテーブルに腰を据えた。

 鰻を食べて力をつけような、と自分を慰める。


 店主が、水とペーパーおしぼりを目の前に置く。

 注文は選ぶことができないので、聞かれない。


 ただ、その一方で、聞かれたのは次のこと。

 「コーヒーにしますか、紅茶にしますか。今日は和食なので、冷茶もあります」

 「コーヒー、いつもので」

 双海が答える。

 が、今日の店主は、珍しく提案をしてきた。

 「紅茶にしませんか。正山小種(ラプサンスーション)を用意してあります」

 「じゃ、それで」

 「俺も」

 正直に言って、筋金入りのコーヒー好きの双海も、水代わりにコーヒーを飲んで寝ずに監視するような生活に飽き飽きしているのだ。聞いたことのないお茶だが、この店で出すものだから、きっと美味いだろう。

 「かしこまりました」

 そう言って、店主は厨房に戻っていく。


 ぐったりした男二人でものも言わずに座っていると、ほとんど間を置かず素焼き鰻丼定食が置かれた。相変わらず早い。

 「ごゆっくり」

 低い声で言って、店主は厨房に戻っていった。


 これが鰻丼なのか。

 あまりに予想と違いすぎて、箸を持つ手が止まる。

 茶色い蒲焼が鰻料理の完成型、バリエーションとして白焼きと思っていたけれど、どちらともあまりに外見が異なるので、少しばかり恐れをなす。

 とりあえず肝吸い。ああ、普通の肝吸いだ。美味いが、全く違和感はない。

 これで安心したので、丼を持つ。


 さくっ。

 この歯ごたえが鰻か。唐揚げにも似た歯触りで、とても香ばしい。その香ばしさが、刻んだ香味野菜とよく合う。炊きたての白く輝くご飯と一緒に口に運ぶと、さらに味が広がる。

 鰻丼は、とろけるような、もう少し柔らかくなったら串から落ちてしまうようなものを美味いと思っていた。いや、蒲焼であれば、それが正解だと思う。他の魚では得られない食感と味、それが鰻を食べる価値であるはずだ。

 それに、俺たちは関東圏の出身だ。蒸しの入ったほうが馴染みがある。


 でも、こういう食べ方もあったのか。

 少し考えるが、他の魚でこのような食感、このようなコクのある魚は思いつかない。やはりこれは鰻なのだ。そして、他の魚では味わえないのだから、この食べ方も、鰻を食べる価値として成立しているはずだ。


 歯ごたえが軽く、脂も程よく落ちており、それをさらに野菜とともに食べる。

 店内に、女性が多い理由が解った。

 丼物はがっつり行くものという、先入観が完全に否定されている。カフェ飯みたいなオシャレな鰻なのだ。そして、それでいて、おままごとではない、鰻の良さを出し切った、きちんとした和の料理になっている。

 ついでに、今の、疲れて胃が荒れた俺たちにとっても、その軽さが嬉しい。

 疲れで食欲が落ちてきている自覚があったけど、これなら楽に食べられる。

 肝吸いと丼だけなので、よそ見せず一気に食べてしまう。


 物悲しい。食べ終わってしまった。

 美味かったんだが、量的にもう少し食べたかった気がする。鰻があっさりしていたから、なおのこと。

 そこで、お替り付きということを思い出した。そうか、そこまで考えられていたか。でも、もう一杯これ、というと、いくら軽い鰻でも胃の容量的に厳しい気がする。

 「お替りですが、鰻のタレをかけた卵かけ御飯か、鰻の中骨のお茶漬けを選べます」

 こちらが食べ終わったのを見て、店主がカウンターの中から声を掛けてきた。

 ああ、なるほど、そうなるのか。


 鰻に物足りないと思えば卵かけ御飯、十分だと思えばお茶漬けと、選択できる仕組みらしい。しかも、ともに鰻を使っている。

 「お茶漬けを。ご飯少なめで」

 双海が言う。そうだな、こいつは俺より疲れている。鋭敏な感覚が、自分自身を夜も寝させないのだ。

 「じゃ、卵かけ御飯で」

 「はい」

 店主が頷いて、文字どおり、すぐにお代わりが出てきた。


 双海には、お茶漬けだが、上に茶色い粉末のようなものが多めに掛かっている。あとは刻んだ三つ葉だ。

 俺には、ご飯と卵、そして白磁のお猪口に鰻のタレ。

 そして、どちらにも二切れの奈良漬、なんじゃないかな。香りは俺でも判るほど奈良漬なのだが、その色が漆黒なのだ。

 双海が、茶漬けをさらさらと口に運ぶ。

 「これは、鰻の中骨を、太白のごま油で揚げて、潰したものですね。まるであられの浮かんだお茶漬けみたいですが、コクがありますねぇ」

 そう、店主に声をかける。

 「はい」

 「これは良いですね。疲れてるんで、喉を通りやすいお茶漬けにしましたが、力が湧いてくる気がします」

 「女性は、これを選ばれる方が多いんですよ。カルシウムの補給にもなりますから」


 俺もその間に、卵をご飯に混ぜ終えていた。鰻のタレをかけ回して口に運ぶ。

 「むふっ」

 思わず声が漏れる。美味い。鰻のコクと香りが足され、普通の醤油を掛けたものとは一線を画している。


 奈良漬に箸を伸ばす。かすかにアルコールの匂い。

 がつんと来た。

 これ、奈良漬なのか?

 一気に酒粕の旨味が口の中に広がり、味覚がリセットされる。

 「これ、奈良漬でいいんですよね。食べたことがない、こんなの」

 俺も思わず店主に声をかける。

 双海も、ぱりっという奈良漬を囓る音をさせた後、目を見張っている。

 「奈良の、今西から取り寄せた本物です。味が強いので、鰻に負けないでしょ?」

 「ええ」

 後は、双海も俺も、さらさら、ざくざく無言で掻き込む。

 パズルで、すべてのピースがはまったような満足感。

 今日もやられた。


 店主が紅茶を運んできた。

 「良い鰻を食べさせてもらいました」

 「いえいえ、素人に毛が生えたような技術で、お客様を待たせずに鰻を食べてもらうには、これしか思いつかなかったんですよ。老舗の鰻屋からは、お叱りを受けるようなものを出している自覚はあるんです」

 いや、発想の原点はそこかもしれないが、着地点に妥協は見えなかった。それに、これはこれとして、この店のオリジナルと言えるだけの独創性とクオリティがある。


 双海が、紅茶を一口すすって、頭を振る。

 「松とその煙の香りがします。目が覚めるような強烈さですねぇ」

 「おすすめしてしまいましたが、大丈夫でしたでしょうか?」

 「ええ、美味しいです。これは、慣れると麻薬みたいに中毒を起こしそうですね。他が飲めなくなりそうです。

 燻煙香がお店に入った時からしていましたが、まさか鰻の方ではなく、お茶とは想像もしていませんでした。今日のような食事の後には、最高ですね。で、そもそも、紅茶なんですか、これ?」

 「はい、中国で作られ、イギリス経由で入ってきている正山小種(ラプサンスーション)です。紅茶ですよ」

 なるほど、美味い。鰻の強さを打ち消せる強さがある。今日の食事は、強いもの同士が引き立てあうという考えなのかもしれない。


 「ありがとうございます。今日も今日とて、大変美味しく頂きました」

 「ありがとうございます。次もご期待に添えるよう、努力します。お疲れのようなので、ご自愛ください」

 うーん、あと一月は頑張らねば。そしたら、休暇を貰おう。

 「一人2000円になります」

 二人で4000円。いつもよりは高いにせよ、鰻を食べてこの値段でいいのだろうか?

 「ありがとうございます」

 店主の声を後ろに、店を後にする。


 トータルで二十五分。それなりに経験を積んでいるつもりだが、世の中に出るとまだまだ若造なのだと自覚させられる。鰻でも、奈良漬でも、紅茶でも、あんなのがあるのは知らなかった。まだまだ知らないことが多い。いや、一食に三つはいくらなんでも多すぎるよな。


 で、双海と一緒の飯も良いんだが、そろそろ和美(なごみ)と一緒に飯を食いたい。

 とはいえ、和美はロンドンにいる。英文学の研究で、半公半私で二年間の留学なのだ。オーバードクターが多数いる中で、少額とはいえ予算がついて、半公で留学できることが相当なものなのは俺でも解る。戻ったら、まずは准教授を目指すことになるのだろうけど、一頭地を抜くことになるのは間違いない。

 和美は、今は俺たちの秘密を知っている。それが、和美に「戦うことから逃げられない女性」のシビアな視点を与えた。そこから見直す「嵐が丘」が面白そうというのは、俺でも想像がつく。

 なので、一緒に飯を食うのは、半年後の双海の結婚式に出席するために帰国する時か、俺がロンドンまで行くしかない。

 今回の件が終わったら、行ってしまおうか……。

 依存は良くないのだろうけど、それでも和美の顔を見ると安心するのだ。


 ターゲットは外見上、全く変化がなかった。これは、行動を起こす前の静けさと理解している。相手の現場のトップともいうべき人物が、この建物に迎え入れられている。

 おそらく、そのプランの実行は極めて近い。


鰻なぞ。


https://twitter.com/RINKAISITATAR/status/1306601704599691266

https://twitter.com/RINKAISITATAR/status/1306602395636363265



次回、冷や汁の日、の予定です。

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