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同級生を彼女にしたら、世界最古の諜報機関に勤務することになりました  作者: 林海
第十章 あれから十年後(全12回:グルメ編?)
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2 ちらし寿司の日


 国宝の城の北側、歴史のある小学校に面した一画に、「キッチン 当たり屋」はある。

 落語好きの店主で、当たり屋の屋号は柳家喬太郎の時蕎麦のネタから取った。もっとも、これは初期のネタで、今では「外れ屋」ということが多い。

 ウッディな店の中には、観葉植物の大鉢が一つ、四人掛けテーブルが二つ、二人掛けが三つ、小さなカウンターに五つの椅子が置いてある。

 決して大きくはない店だ。

 メニューは日替わり、定食一種類のみ。

 その代わり、料理は本格的で手を抜かず、美味いコーヒーか紅茶などの飲み物が付く。


 店主は脱サラした四十代の男。

 春、ひな祭り。

 まだ気温は低いが、陽の光は春のものになっている。

 今日のランチメニューは、ちらし寿司。


 この店は客を選ぶ。

 「一見様お断り」ということではない。

 店主が好みのものを作る。そこに妥協がない。客が好みに合えば良い店になり、合わなければその逆だろう。

 今回もちらし寿司と言っても、松竹梅のようなクラス分けがあるわけでもない。ただ、ぶっきらぼうな字で「ちらし寿司定食、アレルギーのある方は材料の問い合わせを」と書かれた黒板が、店の前に置かれるだけだ。


 今日の客は、観光客が二割、作業服とスーツが三割ずつ、商店街の店員が二割。空席はほとんどない。そして、今日の客はいつになく女性が多い。


 春の魚。春告魚(メバル)(サワラ)、鯛。春告魚は昆布締め、鰆は焼き霜、鯛は湯霜の松皮作り。それに、ほろほろになるまで煮た穴子の切り身が一つ。いくらをぱらっと数粒。

 サイコロに切った出汁巻き卵に、煮た干し椎茸と酢蓮。

 桜の花びらの形に抜かれた出汁の染み込んだ人参、軽く茹でた絹さやの鮮やかな緑が、最後に彩られる。

 酢飯は、塩と生姜のみじん切りによって、ほんのりピンクに色づいた京都の酢を寿司酢としている。これには、砂糖を入れない。塩の量を見切ることで、米の自然な甘さを引き出すのだ。その酢飯には、煮た干瓢と人参を細かく切ったもの、塩を当てた薄切りのキュウリ、糸に切った青紫蘇が混ぜ込まれている。

 上にのせる具との間には、鯛を一匹余分に仕入れて作った田麩(でんぶ)が敷かれている。仕上げは、穴子の煮汁を煮詰めたツメを糸のように細く掛け回す。

 菜の花の入った味噌汁。春告魚のアラでとった出汁は濃い。小鉢は、鯛の頭と骨から作った煮こごり。糸のように細く切った生姜が沈んでいる。

 ちらし寿司は青磁の平皿に盛って、煮こごりは粉引の小鉢に。味噌汁は黒漆の椀。

 やはり、寿司は格のある器に盛りたいので青磁を使う。

 これで税込1000円。



− − − −


 俺は、この古い街にある、骨董店でもある組織の重要な施設に、任務を果たすために来た。

 おそらく、あと半年は任務のために、ここにいなければならないだろう。


 俺は骨董店を出て、観察対象のいる建物を横目に通り過ぎ、ちょうど五十歩めで「ちらし寿司定食、アレルギーのある方は材料の問い合わせを」と書かれた黒板にぶつかった。

 店の戸が開いて、スーツ服のOLが二人、店から出て行く。軽く酢の香りが空気に含まれている。


 「らっしゃい」

 低い声に迎えられて店に入ると、カウンターが一つ、二人掛けテーブルが片付け始められている。俺は、カウンターに空いた最後の席に座る。

 店主が、水とペーパーおしぼりを目の前に置く。

 注文は選ぶことができないので、聞かれない。


 ただ、その一方で、聞かれたのは次のこと。

 「コーヒーにしますか、紅茶にしますか。今日は和食なので、煎茶もあります」

 「煎茶で」

 やはり、寿司の後のコーヒーや紅茶は違和感があるので、煎茶を頼む。

 携帯画面に目を走らす。選挙が近いので、ニュースを読む。

 特に世はこともなし。

 一安心と思ったところに、盆に載せられたちらし寿司定食が置かれた。早い。

 「ごゆっくり」

 低い声で言って、店主は厨房に戻っていった。


 俺は、寿司屋でちらし寿司を食べたことは、実のところない。折角なので、握り寿司と思ってしまうのだ。

 かといって、寿司屋でない場所でちらし寿司を食べることも、また、ない。

 家庭で作って食べるのも、ひな祭りとかがよい機会なのだろうけど、高校生の頃から妹と二人暮らしでそこまでのことはできなかった。

 だから、この店をある程度信用していなかったら、ちらし寿司と書かれた黒板を見て、別の店で別のものを食べていたかもしれない。


 ああ、でも、ここでよかった。

 平たい皿に盛られたちらし寿司を見て思う。

 でも、なぜだろう、海鮮丼っぽくない、明確にちらし寿司だと思う。だけど、寿司屋のメニューの写真のちらし寿司とも明確に違う気がする。でも、その違いがどこから生じているのかは分からない。


 「何か?」

 カウンター越しに、店主が声を掛けてきた。疑問が表情に出ていたらしい。

 「寿司屋さんのちらしと違う気がして。海鮮丼とも、また違う気がしまして」

 「はい、うちのは、関西風の混ぜちらしと江戸風のばらちらしのミックスです。本職の寿司屋ではないので、邪道ですがいいとこ取りで」

 そう言われても、関西風の混ぜちらしも江戸風のばらちらしも、よく分からない。と言って長話するのも、忙しい時間帯に悪い気がする。

 後でネットでも見て、確認しようと思う。

 もしくは、上司筋の骨董店主に聞けば、歴史的経緯を含めて半日は講義をしてくれるだろう。


 「とても華やかですね」

 「和食の基本に、中国の五行思想があります。五行に相当する白、赤、黄、青、黒を揃えると華やかに、栄養のバランスも良くなるんです」

 「ありがとうございます」

 そう言って箸を持つ。忙しい相手に、これ以上話しかけていたら迷惑だと思ったのだ。

 中国の五行思想は知っているけれど、和食にも採り入れられているとは知らなかった。


 思わず色数を数える。白はレンコン、赤は人参といくら、黄は卵焼きの切ったもの、青は緑なのかな、絹さや。黒は干し椎茸。

 なるほど、揃っている。

 しかし、ちらし寿司の上に五行を数えるとは思わなかった。

 それも、店主から当然のように説明されるとは。

 良い親がいたら、教えてもらえた常識(・・)なのだろうか。


 ピンクがかった白身の刺身を口に運ぶ。美味い。白身にしては旨味が濃く、でも、後味がすっきりしている。なんだろう、食べたことがない味だが、つくづく美味いと思う。

 次に、口に運んだ刺身も、何か判らない。サンマやサバのように見える皮が付いていて、それに香ばしい焦げ目が付いている。が、身は生で、サンマやアジよりも身の色が白い。これも、生臭みがなく、白身でもないのにすっきりしている。やはり美味い。

 最後の刺身は、さすがに判る。鯛だ。皮が付いているので、疑う余地もない。これも、鯛だから当然と言えないほど美味く感じる。


 迷惑と解っていながら、店主に声をかけてしまう。

 「刺身、鯛以外はなんですか」

 店主が、にこりとにやりの中間の笑みを浮かべた気がした。

 「これですよ」

 カウンターの裏側に貼ってあったらしい紙を渡してくれる。そこには、「春告魚、鰆、鯛」と書かれていた。なるほど、ひな祭りだし、徹底的に春の魚を使っているらしい。

 で、子供の頃に、妹と魚へんの漢字でクイズを出し合った記憶を辿る。

 「メバルにサワラでしょうか」

 「正解です」

 他の客の煎茶を入れながら、笑みを含んだ声で店主が答える。

 「春告魚」はいろいろな魚が該当するから、正直、あてずっぽだった。


 ええい、手を動かせている程度の迷惑で済んでいるのならば、もう一つ聞いてしまえ。

 「刺身って、もっとなんていうか、雑味とか、臭みがあるものじゃなかったかなと思うんですけれど」

 「天然の魚で、釣りで獲ったものを血抜きして活け締めをしたものです。

 冷凍はしていません。

 それを、基本に忠実に、できるだけ丁寧に処理しただけです。私には、素人に毛が生えたぐらいの腕しかないので、そうするしかないんです。

 良い寿司屋や割烹なら、もっと包丁が冴えますから、さらに美味いと思いますよ」

 「ありがとうございます」

 ああ、そういうもんなのかと思う程度の知識しか俺も持っていないけど、それでここまで美味くなるのかと思う。

 基本に忠実ってやはり重要なんだな、などとも思う。


 酢飯を口に運ぶ。これも美味い。いろいろと細かい具が入っていて、刺身とかの具がなくても、これだけで十分にご馳走と呼んで良いものという気がした。

 卵焼きも、甘みがたまらない。田麩がいい仕事をしている。この甘みとコクがたまらない。甘みに嫌味がなく、「甘いものはメシのおかずにはならない」という持論を覆された気がする。

 この田麩と酢飯だけでお代わりをしたいくらいだ。でも、田麩ってもっとこう、ピンク色だったような気がするけど、これは綺麗な色だが薄茶色くらいの色だ。


 店主が、別の客の飲み物を用意するタイミングを計って、また話しかける。

 うるさい客だと思われているだろう。でも、ヒントだけでも聞いておかないと、自分で調べるにも限界がある。

 「田麩って、どうやって作るんですか」

 「本当は白身魚を茹でて、ほぐして、味を付けながら煎りあげるんです。でも、私は茹でると味が抜けちゃう気がするので、水分が抜けるようにゆっくり焼いてからほぐしています。それを味醂と少しの醤油で、味を見ながら煎りあげています。砂糖は使っていません。その方が甘みが深いんです。

 今日の材料の魚は鯛です。もっと綺麗な色にしたいのですが、着色料を使わないでとなると限界がありますね」

 ああ、美味いわけだわ。魚の味が明確だもの。


 カウンターの中を見ていると、刺身とか酢飯の上に乗せるものは、それぞれ盛り付ける形で準備がしてある。そうでなければ、この短時間でお客に出せまい。


 小鉢の煮こごりは、鶏肉を疑わせるような濃厚な旨味が、生姜の余韻を残して口の中で儚く消えていった。

 味噌汁は、やはり、魚の味がする濃厚なものだけど、菜花の苦味が効いていた。この苦味がなかったら、ちらし寿司や煮こごりや、この味噌汁自体の強い旨味に、ある意味飽きていたかもしれない。


 とはいえ、総量から考えれば、魚より野菜がふんだんに入っていて、旨味を受け止めている。酢飯もほどよい甘みを感じさせるけど、飽きが来ることはない。


 七割がた食べたところで、煮た穴子を口に運ぶ。

 何が起きたか、一瞬分からなかった。

 濃厚な旨味だけ残して、するんと胃袋に一気に落ちていってしまった。口の中で噛むまでもなくほぐれ、ほのかな土臭さを残して、だ。

 もう一つ食べて、美味かったことを確認したいが叶わない。ああ、叶わない。ああ、もう一つ食べたい。穴子とは、ここまで滋味深く美味い魚だったのか。


 気がつけば、皿は全て空になっていた。

 美味いものを食べた後なのに、虚しさ、悲しみすら感じる。


 店主がそっと煎茶を出してくれた。

 それを啜り、初めてゆっくりと満足感が押し寄せてきた。

 来年もここで、ちらし寿司を食べる。密かに誰にともなく誓う。和美(なごみ)にも妹にも、そして仕事の同僚にも食べさせてやりたいものだ。

 

 店主が、会計しながら女性客と話している。

 「生物(なまもの)ですし、昼営業分だけの用意しかしていないので、持ち帰りは堪忍してください」

 「そこをなんとか。刺身は抜きでいいです。母に食べさせたいのです」

 「本当に申し訳ありません。でも、この春の内にはもう一回ぐらいは作るかもしれません。予約いただけるようならば、日を決定して、その時に持ち帰り用を用意します。でも、その日にご母堂と食べに来て頂けるほうがありがたいです。

 ただ、今日のところは本当にごめんなさい」


 「千円になります」

 「ひな祭り、来年も来ます。つか、聞こえちゃったんですが、次のちらし寿司の日を決定してください」

 千円札を一枚渡しながら、思わず口を突いた。

 「ありがとうございます。じゃあ、一週間後。

 黒板で事前告知しますよ」

 トータルで二十分かかっていなかった。俺、よほど夢中で食べたらしい。


 決めたルートに従い、日課のターゲットを観察する時間には、まだまだ余裕があった。


ちらし寿司なぞ。


https://twitter.com/RINKAISITATAR/status/1304037745984114688


次回、ポークソテーの日、の予定です。

わりと、春から初夏にかけてのメニューが多いです。


なお、喬太郎師匠の「時蕎麦」は、「コロッケ蕎麦」が有名ですが、その他のバージョンもあるのです。

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