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同級生を彼女にしたら、世界最古の諜報機関に勤務することになりました  作者: 林海
第八章 黒船来航、夏(全18回:幕末血風編)
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15 浦賀にて


 美羽に渡された、三百両の効き目は極めて高かった。

 八王子千人同心内の者たちをはじめ、密かに各所に種を蒔かれていた南帝への忠誠を持つ者たちは、急速に組織化されていった。これを維持し続けるのは、別の問題としてである。

 井伊直弼も、流石にそこまで考えてはいなかっただろう。

 まさか、美羽が、一年の活動資金として与えられた三百両を数日で使い切るような暴挙に出、しかも、それによって一つの組織が作られていくなど、想像の範囲を超えている。


 南帝の玉体は、安全なところに移された。

 その際、どういう話になったのかはわからぬ。

 御物が数個、江戸と大阪の口の固い数寄者に流され、いつの間にか数千両もの資金が確保されていた。それらの数寄者は、それなりの金額を使用して探し出された口の堅い豪商であった。このための情報料を、美羽は惜しまなかったのだ。これらの豪商が、これからの活動の要になるからである。


 したがって、最初の元手となる資金がなければ、いかに水戸斉昭という重石を外された美羽とて、動きが取れなかったのである。

 数千両のうちの一部は、他の御物の補修に使われ、さらに一部は米相場での運用に廻された。補修の終わった御物の行く先、米相場での運用、共に先ほどの豪商たちの協力があるのは、当たり前のことであった。


 その一方で、日が進むごとに美羽は艦隊の監視の準備にかかりきりにならざるを得ず、美緒がその名代として、兵衛府(つはものとねり)の組織固めの実働に当たっていた。八百善での会合ののち、一度は男装に化けて馬を走らせ、彦根、京都、大阪と出向いたこともあり、日に一刻ほどしか睡眠をとらないままの激務であった。


 その激務の間を縫って、美緒が協力を求めるために会う者たちは、その若さに言を軽んじる者もいた。

 無理もあるまい。

 美緒は、数えで十七の小娘に過ぎないのだ。

 だが、もともとは南帝という、表に出ない存在に忠誠を働くことを考えている者たちである。代々忠誠を誓ってきた者の、その思いは筋金入りであった。

 その一方で、新たな加わった者たちは、どこか酔狂なものがあるのは否めないが、それがために多くは美緒の美しさと鋭い弁舌の懸隔(けんかく)に驚くとともに進んで協力を約束した。それでも、狷介(けんかい)さから反抗して見せる者は、美緒の背後に控える加藤から発せられる殺気に、言葉を失うというのが常であった。



 嘉永六年六月六日。

 ペリーの艦隊は、浦賀湾深くの測量を始めると共に、幕府に対し上陸許可を迫っていた。

 彼等の艦隊は、コールタールが塗られており、その色から黒船と呼ばれた。

 井伊直弼は八百善での言葉どおりに一転して開国を主張する側に回り、水戸斉昭と舌戦を繰り広げていた。


 嘉永六年六月八日。

 美緒の元には、水戸藩の動きはおろか、幕閣の会議の詳細すら伝わってくるようになっていた。

 明日九日には、ペリー提督以下の久里浜への上陸が決定されていた。



 − − − − 


 嘉永六年六月八日深夜。

 美羽は、久里浜で、黒船の軍備の状況変化に目を向け続けていた。

 様々な示威活動がなされていたが、相手が海上では日本側からできることはなにもなかった。実質的な海軍力が皆無なのである。


 その一方で、美羽の見るところ、黒船は臨戦態勢を崩さず、それでいて水兵たちは実戦に至るまでの緊張を持っていないという、ちぐはぐな状況が続いていた。

 明日の上陸に向け、緊張は高まっているが、それが、米海軍にとっても即、戦闘を意味しないということである。その旨は(したた)めて、早馬にて井伊家に使いを出してある。


 一方、美緒の元には、この日の朝から、水戸屋敷の動きが二刻ごとに届けられていた。

 水戸藩では、黒船来航時から藩士たちが臨戦態勢に入っていたが、それが攘夷の行動のためであろうことは想像できた。

 将軍家から非公式に、他の御三家までもが内々とはいえ水戸藩に対し自重を求めた。同時に、井伊直弼の言ったとおり、斉昭の江戸城封じ込めもされている。


 だが、看過しえぬ情報もあった。

 名も風貌も判らぬが、相当の手練れの浪人を、水戸藩がその下屋敷に招き入れたという話であった。その手練れは、屋敷の一画に閉じこもったまま表に姿を見せず、水戸藩士内でも腫れ物を触るような扱いがされているという。

 浪人を雇い入れ、藩士にさせられないことを任せるのは、水戸藩ではいつものことと言えた。知らぬ存ぜぬで言い逃れが利く、便利な駒を再び手に入れたということであろう。この浪人が、美羽、美緒に牙を剥いてくることは十分に予想されることだった。


 いや、美羽、美緒が襲撃の対象となるならば、まだ良い。

 深読みをするならば、ペリー本人を狙うことすら考えられる。

 この場合、米海軍からの報復を考えねばならぬが、たった四隻の黒船では、どれほど江戸に甚大な被害を出そうとも、日本全土の征服は不可能である。

 次の増派襲来までには、当然、相当の期間が想定できることから、その間に攘夷で国内をまとめ上げ、水戸斉昭自身がその首魁となるという心計すら考えられた。


 美緒は直ちに美羽及び南帝に警戒の知らせを鳩と早馬にて送るとともに、自らも加藤とともに浦賀に向け足を運ぶこととした。美緒、加藤ともに馬を併用し、足を飛ばせば、翌日には余裕で着く距離である。


 「つはものとねり」の仕事は一段落しているし、加藤がいくら手練れでも、浦賀と江戸の両方にいることはできぬ。

 美緒は、美羽とともに自らを囮とし、敵浪人を誘いこむことを選んだのである。これならば、もしも襲撃対象がペリーだとしても、現場にて万全の対応ができよう。


 更に言えば、江戸と浦賀の距離十五里は、そのまま敵浪人の洗い出しが可能となる距離でもあった。各宿ごとに幾許(いくばく)かの金子を置き、怪しい浪人が通ったら知らせるように布石を打ちながらの旅である。

 敵浪人がこちらが手を打ったことを警戒し、表街道を通らなくても飯は食わねばならず、定期的に宿場には入らざるをえない。

 更なる遠回りをして三浦半島の山沿いを南下すれば、前々から井伊家が配してあった藩士たちの網にかかる。海路を取るにしても、黒船とのいらぬ混乱を避けるため、浦賀近辺は船を出すことは禁じられているうえ、街道は海沿いに伸びており、その目をくぐって航海することは不可能であった。


 加藤は、密かに舌を巻いている。

 未熟と思っていた美緒の、作戦立案、実働の指揮能力にである。

 おそらくは、この数日のうちにも、目覚ましい成長をしているのだ。そのための機会がふんだんに与えられたというのもあるであろう。

 海千山千の者たちを丸め込み、組織化し、使っていくその姿を見る加藤の視線は、後進を見るそれから、自らと同等の者を見るそれに変わっていった。


次回、ペリー上陸の陰で

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