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同級生を彼女にしたら、世界最古の諜報機関に勤務することになりました  作者: 林海
第八章 黒船来航、夏(全18回:幕末血風編)
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10 身柄確保、救出


 水戸徳川家上屋敷の裏門を叩く。

 灯を持った小者が、顔を出し、目を細めて加藤を見た。

 小者といっても、相当の老爺である。

 夜更しした藩士が密かに屋敷に戻る際の開閉ぐらいしか必要がなく、これで用が足りるというより、こうでなければならないのであろう。

 加藤は、その小者に告げた。

 「密命を帯び、この屋敷を出た者の使いにござる。

 『ご下命を果たした』とお伝えくだされとのこと。合わせて、不審な動きをした女を捕縛したので、実検をいただきたい」

 美緒は、加藤の刀の下緒(さげお)で後ろ手に縛られていた。


 「しばし、お待ちを」

 小者はそう言って、顔を引っ込めた。

 待つほどもなく、門が開く。三名ほどの水戸藩士とおぼしき姿がある。

 門を開けた小者は恐れたのか、そのまま後退り、いなくなった。

 加藤は、不審に思われるより先に先手を取った。


 「藤尾源内と申す。

 小半刻ほど前、品川近くにて立会いに行き当たりもうした。

 両者共に奮戦いたしておりましたが相打ちになり、その今際(いまわ)の際に、片方の者が『ご下命を果たしたと水戸徳川家上屋敷にお伝えを』とのみ言い残されたので、事情は分からぬままでもお伝えすべきと思い(まか)り越し申した。

 その際、我が後ろを付ける者があり、誰何(すいか)にも答えぬので、引っ括りましたのがこの女にござる。どうやら、様々事情があるのを察し、裏門から声を掛けさせていただいたる次第」

 返答はない。


 数瞬の沈黙ののち、一番の年配に見える藩士がようやく口を開いた。

 「藤尾殿と申されたな。水戸藩家中の吉田弘兵衛と申す。

 貴殿も相当に使うと見たが、どの流派をお学びか?」

 「馬庭念流を少々」

 間をおかず答える。


 加藤が見るところ、この吉田という藩士も、やはり相当に使う。腰の据わり、目配り、只者ではない。

 「本来、礼を尽くしてお願いせねばならぬことだが、佩刀をお見せ願うことはできまいか?」

 「理由を承りたい。

 当家に由来の者の最期を知らせて、我が刀を吟味される(いわ)れはない」


 理由など判っていての拒絶である。

 そもそも士たるものが、初対面の相手に自らの腰のものをおいそれと渡すわけがない。

 「我が刀と交換で構わぬ」

 焦れている。人を斬った刀かどうかを、なんとしても確認したいのだ。


 当然のことだが、藤尾が加藤自身であることを疑っている。若い二人の藩士が、じりじりと後ろに回っていく。疑いが確定になったら、三方から同時に斬りかかられる。斜め後ろを両方から抑えた、必殺の布陣と言ってよい。だからこそ、自らの佩刀を預ける提案もできるのだ。


 「それならば、是非もない」

 鞘を掴み、捻り込んで返角を躱し、帯から刀を引き抜く。吉田も腰から刀を抜き取る。

 視線を相手から外さず、形だけの礼と共に、刀を交換する。


 吉田が加藤の刀を鞘から抜き、灯火に晒してしげしげと検分する。

 「お疑いならば、脇差も検分されるか?」

 「お願いしたい」

 鞘に収めた刀を再び交換し、今度は脇差を差し出す。

 大小ともに、研いでから何年も経つ。拭いはかけているが、古研ぎなのは見間違えようはずもない。また、刃毀れもなく、いくら見てもハバキ際や柄に至るまで血糊が付いていようはずもない。


 「藤尾殿、さぞやご不快であったろうと思われる。お詫び申し上げる。先ほど討ち死にしたと申されたのは、我が甥でござった。剣の腕をもって殿のご下命を果たしておったのだが、残念な結果となった。

 とはいえ、それをお知らせいただいたのは極めてありがたいことと思う。

 すぐにでも人を出して、引き取りをしよう」

 「それが良かろうと存ずる。町方がすでに動いているため、その方にも話を通したほうがよろしかろうと、これは老婆心ながら。

 なお、町方には、水戸藩に縁ある者と言い残したこと、事情が判らぬゆえ、もしもお家の大事であればと、某の一存で伏せてござる」

 「なんとも行き届いたことを。

 礼の言葉もない。

 ただ、我が方としては、相手の悪党めがそのまま成りすましてここに現れたやもしれず、確認をせざるをえなかったのだ。

 甥は、世渡り下手でも腕だけは立った。

 斬られるにせよ、まったくの反撃ができなかったとは思えぬ。したがって、その体に傷一つなく、刀にも瑕疵のない藤尾殿がその悪党であることはあり得ぬ。失礼つかまつった。

 あやつがその悪党を己の命と引き換えても討ち果たしたる(よし)、それだけで殿にも顔向けができよう」

 後ろに回った、二人の若い藩士の緊張が解けるのが伝わってくる。


 だが、言葉と裏腹に、吉田はまだ信じたわけではないと思わせる眼をしていた。

 「胸中、お察しいたします。

 さすれば、この女を引き渡し、失礼つかまつる」

 「藤尾殿、しばし待たれよ。

 礼らしい礼もまだしておらぬ。藤尾殿は、どこかのご家中か?」

 通常、侍は、刀の拵え、下緒の色、その結び方などで、仕官の有無、学んだ剣の流派、生国まである程度判り会えるものだ。だが、その下緒で美緒を縛っているので、水戸藩士から見て正体不明なのだ。

 加藤の望む所でもある。


 「浪々の身にござる。仕官の口など、どこにもござらぬ」

 「いくつか当藩のために働いては見ぬか?

 藤尾殿、そなたの佩刀、かなりの業物と見た。

 腕、度胸、気働きも相当なものとお見受けする。

 いくつか働くうちに、当藩への仕官も見えてこよう」

 「それは願ってもないこと。だが、どのような?」

 「藤尾殿が引っ括ったこの女狐、その色香で殿を惑わそうという不届千万な者にござる。また、この母狐が輪をかけて怪しく、妖術まがいの技で殿を惑わせておる。

 ようやく、その母狐は当家の座敷牢に閉じ込めたのだが、常ならぬ者ゆえ、その処理を誰もが避けておる。

 この親子狐、処分をお願いできぬか?

 二十両の礼を差し上げたい」

 美緒の顔色が蒼白となった。

 美羽、美緒の存在が、水戸斉昭に切り捨てられていたのが明らかになったのだ。

 解っていたこととは言え、正面からその事実を告げられるのはきつい。


 同時に、この提案は、藤尾と名乗った男に対する踏み絵であった。

 「二つ、確認をさせていただきたい。母狐、子狐共に、その処理は藩主の意思によると解してよろしいか? 今の話だと、子狐を殺すことで藩主の不興を買うことが懸念されるし、その責をことごとく負わされるのは御免こうむりたい」

 「子狐の処分は、藩主の意志ではない。

 が、口に出すもためらわれるが、すでに殿が女色に淫すること甚だしいとの噂が市中に知れ渡っている。それをそれ以上にしないようにするのも、また奉公でござる。我が一存ではあるが、決して悪いようにはせぬ」

 「二十両はいついただけるのか?」

 「狐を絞めたのち、後日」

 「それは困る。こちらとしても、それだけの仕事をするのだ。狐を絞める前に、せめて半金はお願いしたい」

 金の話は、外せぬ。これだけで、相手はこちらを蔑み、油断するようになる。


 「やむを得ぬ」

 これで、この年配の藩士が二十両の礼を払うつもりがない、藤尾と名乗った自分を利用したいだけだと加藤は判断した。

 家臣であるこの藩士が、財貨が保管してある奥と連絡を取り合うのは、すでに不可能な時間帯なのだ。


 もう一つ、推測できることがある。

 このような話を顔色も変えずにできること、作り話にためらいがないこと、門番の老爺が素早く身を隠したことなどから、この藩士がどこの藩にでもある、いわゆる「汚れ仕事」を引き受けている者だということだ。

 相当の腕であることも頷けることで、そのような者の腕が立たないとすればむしろ意外である。


 「改めて、役職と名をお聞かせ願いたい」

 「水戸藩、馬廻役、吉田弘兵衛」

 「うけたまわった。

 では、母狐をお連れくだされ。女狐二匹、退治して参ろう」

 「我が藩士も同行させよう」

 「それには及ばぬと言いたいところだが、その方が吉田殿も安心できよう。

 では」


 そう言って、美緒の後ろに回る。

 抜く手も見せぬ。

 美緒を後ろ手に縛っていた下緒が切れて、はらりと地に落ちる。

 その時には、すでに納刀も終わっていた。


 一瞬の間をおいて、何が起きたかを理解した美緒が、腰を抜かしたように地にへたり込む。

 「お、恐るべき手練れ……。

 その捕縛は、我らに引き渡すためのみのものか?」

 吉田の声に驚嘆が滲む。若い藩士二人は、気を飲まれたように大きく二歩ほど後じさった。

 「御意。

 指呼の間に入った者は、活殺自在。

 女狐が二匹に増えても同じこと。

 人目につく、捕縛による道連れなど不要。好きな場所まで連れて行って処分ができ申す。腰が抜けて歩けないとなれば、そこが処分の地となるまでのこと」

 「藤尾殿、貴殿ほどの剛の者が、なぜ江戸で名を知られておられないのか?」

 「事情は容赦願いたい。

 上州小幡より逐電退去し、未だ三ケ月ほど。江戸で、知られるわけもない。

 小幡藩に問い合わせされるならば、聞き方に十分に考慮されるがよろしかろう。およそ、一回の問いでは白を切られること必定。松平の氏を持つとはいえ、小藩が恥を晒すには、水戸藩は幕府の中枢に過ぎる」

 作り話を語る加藤にも、淀みはまったくない。

 上州小幡の藩名も、同じく上州の馬庭念流の名を出したこと、江戸に武家屋敷を構えるものならば誰もが知っている藩名だから出したに過ぎない。


 「相解った。

 上州小幡といえば、かつて鼠小僧次郎吉を捕縛せし雄藩、我が藩とも無縁ではない。

 さぞや語れぬ事情もおありであろう。

 それでは、(それがし)が同道つかまつろう。藤尾殿を疑うわけではないが、殿への報告にも検分は必要なのでな」

 吉田は、藤尾と名乗る男を疑い、最後には口封じも兼ね、若い藩士に始末させるつもりであっただろう。

 だが、それは極めて難易度が高いことを思い知らされた。

 なので、自らの同道を申し出たのだ。

 内心は、「失礼つかまつる」と帰る意思を見せたときに、自ら引き止めてしまったことを後悔しているに違いない。

 そのあたりも含めて、加藤の手の中での駆け引きである。


 「吉田殿に同道していただけるのであれば、拙者も心強い」

 「ご謙遜めされるな。先ほどの腕の冴え、感服いたしておる。

 これ、母狐を引っ立ててこい」

 吉田は、二人の藩士に命じた。


 小走りに屋敷内に戻る二人を見送り、振り返ろうとした吉田の首に加藤の腕が巻きついた。頸動脈を的確に押さえ、数瞬で落とす。

 声も上げずに倒れかかる吉田の体を支えると、吉田の刀の下緒を解き、手早く縛り上げる。手拭いを噛ませ猿轡とすると、庭園の樹木の陰に引きずり込む。この間、わずかに呼吸を五つ数えるほどの間しか掛からぬ。


 そのまま、美緒の後ろに戻り、耳元に囁く。

 「立てるか?」

 「はい」

 「では立て」

 そう言って、美緒の左後ろに立つ。美緒も、実際に恐怖を感じもしただろうが、へたり込んだのも半分は演技である。


 吉田と名乗った侍の腕はかなりのものだった。

 馬廻役と言ったのも、あながち嘘ではあるまい。

 まともに戦ったら、勝てないとは言わないが、いかな加藤でも一合もなく斬り倒すのは無理だったろう。なので、加藤を疑いつつも、油断のある上屋敷内で急襲したのだ。騙し討ちに限りなく近いが、加藤からすれば、「自らの敷地内だから安全」と思っている方が悪いのである。

 当然のことながら、これが一歩でも上屋敷から外に出た後だったならば、ここまで容易にはいくはずもない。

 この辺りの機微は、父から徹底した問答によって鍛えられている。


 人が裏切っていることを明らかにする時は、最大の見せ場で行うと誰もが思いがちだ。吉田も、「女狐二匹を斬る直前こそ、藤尾と名乗る男が本性を現す時」と思っていたはずなのだ。

 なので、その無意識の見込みを、出発すらしていない屋敷内という機会(タイミング)で完全に外したのだ。


 これは、若い二人の藩士についても言えた。

 ここで吉田が姿を消したことを不審に思っても、まさか屋敷内で何かが起きたとは思うまいということである。

 幾許(いくばく)の間もかからず、二人の藩士が美羽を連れてきた。美羽に対し、敬して遠ざけるという態度の見本のような応対をしている。

 やはり、機先を制し、先に話しかける。


 「吉田殿は、金子(きんす)の無心が必要と、先に中屋敷に向かわれた。この時刻に、金子のある奥に伺候するは憚られるとのことだ。

 この二人を引き連れ、拙者も中屋敷に向かう。お二方について、特段の事情がなければ、我らに同行するようにと伝えられている」

 「うけたまわった。同行いたす」

 「よろしくお願いする」

 話は滞りなく進んでいく。加藤の目論見どおりである。

 若い藩士二人の同道も、こちらから言い出せば、吉田がいないことにも不審を抱かれぬ。さまざまに言い繕うより、加藤の腕であれば同道させ、屋敷から離れる方がリスクが少ない。


 「奥」とは、武家屋敷で女性がいる場所であり、通常、金の保管もその奥でなされていた。

 したがって、丑三つ時にならんかという時刻に、藩主以外の者が出入りして良い場所ではないのだ。吉田が即金を安請負した段階で、頭に浮かんだ筋書きである。

 美羽は、すでに加藤と美緒の顔色から全てを察したのだろう、何も言わぬ。

 「明るくなる前に、全てを終わらせたい。それでは」

 五人で、上屋敷を出た。


 上屋敷から中屋敷まで、道は入り組んでいるものの、現在の東京ドームから東大本郷キャンパスまでしかない。直線にして、わずか五百メートルを超えるほどの距離である。

 この近さも、水戸藩士の油断を招いていた。

 辻行灯の合間の暗い路上で、影が交差した。

 後には、失神して倒れ伏した二人の藩士が残されていた。


次回、新宿追分の宿はずれにて

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