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同級生を彼女にしたら、世界最古の諜報機関に勤務することになりました  作者: 林海
第八章 黒船来航、夏(全18回:幕末血風編)
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7 二八蕎麦


 半刻(1時間)後、増上寺脇の広小路を抜ける頃には、加藤が美緒に背中を見せて歩く形となっていた。加藤が美緒を信頼しきったというわけではない。とはいえ、人目のある通りでは、その形をとっても良いと思えるまでに気を許したのは事実であった。


 「どうだ? そこの二八蕎麦でも手繰ってゆかぬか?」

 そう肩越しに、美緒に声を掛ける。

 「よろしいのですか?」

 美緒の返事は、この大事な時に、という意味である。

 美緒も愚かではない。当然のように、これから向かう加藤の(ねぐら)が危険なことを予測している。


 加藤はあえて、その言を誤解した振りをした。

 「なんの、水臭い。馳走しよう」

 そう言って、屋台の親爺に声を掛ける。

 「親爺、何ができる?」

 「へい、花巻と月見が」

 「すげぇな、月見ができるのか」

 加藤の口調が、伝法なものになった。体に纏っている雰囲気も、がらっと変わる。


 「増上寺様近辺ではうちだけとなりやす。新月ですから、丼の中で月見を洒落込んで貰おうと思いまして」

 蕎麦が十六文なのに、タネものの玉子は二十文が相場となる。計で三十六文、これは天ぷら蕎麦より高い。このような商売、そうそうにあることではない。


 「粋だねぇ。蕎麦は、あと何人分残っている?」

 「もう遅いので、三人分で」

 「では、月見を二つ。熱くしてくれ」

 「わかりやした」

 「先に代を払っておきたい。いくらだ?」

 「七十二文になりやすが、七十文でようがす」

 「すまねぇな。

 ではよ、おごるから、親爺、お前も残り一人分を食べて店じまいしなよ。そして、残りの薬研掘(やげんぼり)、すべて貰わせてもらう。いいな?」

 「結構なお話で。ようがす、全てお持ちになってください」

 財布を親爺に渡し、対価を抜いてもらう。侍は、自分で財布から金を出すことはない。

 百枚も銭はないが、たしか、八十文に相当する天保通宝が数枚あったはずだ。あとは親爺がよろしくするはずである。


 その間に、懐紙を取り出し裂いて、竹の容器に入っていた薬研掘を、これから三人が使うであろう量を除いて全てを包む。薬研掘とは、七味唐辛子の江戸での俗称である。

 「味噌汁に振ると、乙なもんなんだぜぇ」

 と、そのままの口調で、美緒に笑いかける。


 「旦那、おありがとうごさいやす」

 支払いに、支障はなかったらしい。返された財布を、包んだ薬研掘と一緒に懐にねじ込む。

 「お前さん、腹減っていたんじゃないかい?」

 そう聞く加藤に、(かぶり)を振る美緒だが、蕎麦を待つその顔は、ひどく幼く見えた。黒づくめの鯔背(いなせ)な着物姿が、子供が無理に大人の姿をしたように浮いて見えるほどだ。この顔の方が、この娘の(ほん)かもしれぬと加藤は思う。


 美緒の脇に立って、話しかける。

 「熱くしてもらうから、玉子が半分固まる。それを蕎麦に絡めながら啜り込むと、そりゃあ美味い。食ったことあるかい?」

 「ありません」

 「普段、どんなもん、食っているんだい?」

 「これも修行ゆえ、自ら用意いたします。服毒にも耐えられるよう、毎日少量の毒をも食しております」

 「そりゃあ、辛くねぇか? 余計なお世話だけどな……」

 「定めですから……。食べられぬ母はもっと辛いかと」

 美緒の視線が外れた。足元辺りを見ている。


 「ふーん。そうか……。お前さん、歳はいくつだ?」

 「かぞえで十七になります」

 「ふーん。そうか……、なぁ、少し息を抜きな。折れちまう前によ」

 「息を抜くというのが、どういうことか解りません」

 「深刻だなぁ、あんた……」

 「深刻って、今のありさまでしょうか?」

 「いや、あんた自身だ。

 女衒(ぜげん)に岡場所へ売られた娘だって、も少し息を抜く場所ってのがある。大の男だって、斬られる前にゃあ怯えた顔をする。命を的に仕事をするって言やぁ聞こえはいいが、そういうの、その歳で全て捨てちまったんだなぁ」

 「……」

 「可哀想に……」

 そう言うと、加藤は美緒をおいて屋台に戻る。玉子を割る音がしたのだ。


 「親爺、できたか?」

 「へい、お待ちどうさまでした」

 割り箸を丼に渡して、美緒に渡す。

 「さ、熱いうちが馳走だ。食いねぇ」

 そう言って、自らも啜り込む。

 「親爺、美味いな」

 美緒が食べ出すのを確認してから、振り返って言う。

 一心不乱に箸を動かす美緒を、己れの修行時代と重ね、急に痛ましくて見ていられなくなったのだ。


 「お(あし)を貰って玉子を食うなんてこた、生まれて初めてですから、そりゃあ美味い」

 「言うねぇ」

 「これからも、贔屓(ひいき)にしておくんなさい」

 「俺は、この先の猿のところが贔屓よ。だが、新月にゃあ、月見をここまで食いに来るぜ」

 「猿吉なら、仕入れが同じ場所の仲間になりやす。どちらが旨いかは言わぬが花としても、出汁の味もそう違わねぇでしょう?」

 「ああ、美味い。新月以外でも、こっちに来た時にゃ世話になるぜ」

 初夏の蒸した季節にもかかわらず、この時刻ともなれば熱い蕎麦が美味い。体を冷やさないのは、やはり、士たるものの心得の一つであった。

 一昔前ならば、火を使う屋台は厳格に冬季にしか許されなかったが、今では規制とそれを潜っての営業は、えんえんとイタチごっこを続けている。


 「親爺、食い終わったら、水をくんな」

 「へい、汲んでまいりやす」

 「頼んだぜ」

 汗をかき、それを拭いた手ぬぐいが重い。それを手桶の水で濯ぐ。改めて濡れた手ぬぐいで、首筋を拭く。

 そして、おもむろに、上気した美緒の顔に向かって言う。

 「さて、と。

 行くぜ」


次回、待ち伏せ

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