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同級生を彼女にしたら、世界最古の諜報機関に勤務することになりました  作者: 林海
第八章 黒船来航、夏(全18回:幕末血風編)
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2 闇夜の襲撃

前回話に出ました、刀の中子の写真、Twitterにアップししてあります。

また、屋台の天ぷらを食べる武士の図もアップしました。

よろしかったらご覧ください。


https://twitter.com/RINKAISITATAR/status/1287203441899474944

https://twitter.com/RINKAISITATAR/status/1287209710085578752


 灯火の多い江戸といえど、新月の闇は深い。

 慣れた道ゆえ、灯りは持っていない。むしろ、なまじの灯火は却って、光の届かぬ暗闇を深くし、いざというときの働きの邪魔になる。

 夜間の戦いにおいて、少しでも暗さに目が馴れている方が有利なのは、言うまでもない。

 左手に釣り竿と空の魚籠を持ち、増上寺脇の広小路を抜け、加藤は自分の(ねぐら)である慈雲寺脇の庵に向けて歩いていた。この時代、浜松町から目黒に向け歩き出せば、四半刻で田畑が交じる風景になってしまう。


 土塀の続く、星明かりも届かぬ道に踏み出した時、首筋を固形感が感じられるほど濃密な殺気が撫でた。それを受けた体は、意識することなく半歩後退していた。

 次の瞬間、首の皮に極めて薄く糸くずほどの赤い筋を残して、白い切っ先が飛び抜けていった。加藤だからこそ、避け得たといってよい。

 加藤の体は、切っ先が走り抜けると同時に大きく後ろに跳躍した。


 父との命のやり取りに近い稽古によって得た、超常的な感覚のようなものが加藤に命を拾わせた。


 加藤は、跳躍からの着地に遅れて相手の太刀筋を理解し、戦慄した。

 左逆袈裟に首筋を狙われたのだ。

 剣を握って右下から斬り上げるのであれば、左右の手は交差しない。しかし、左下から切り上げるのは、左右の手が交差し、人体の構造上どうしても無理が生じる。それを感じさせない速さと正確さがあった。

 この向きに斬り込んできたのは、土塀との間に加藤を挟み、万一避けられても二の太刀で確実に仕留めるためだと次の理解が遅れて頭に浮かぶ。


 更にだ。

 相手は加藤の首を()ねる気はない。動脈だけ切り離し、刀に負担をかけない計算もしている。

 戦国の世と異なり、刀は一財産というべき値であり、消耗品ではないのだ。ましてやこの暗闇の中で、勘だけで間合いを見切り、それをやってのけようというのは神技と言って良い。

 恐るべき手練れである。

 二の太刀を防いだのは、半歩引くと同時の跳躍と、その場にわざと落とした魚籠と釣り竿が地面に当たる音のためだ。暗闇でなければ、二の太刀は容赦なく加藤に向かって振り抜かれていた筈だ。


 「何者だ、加藤景悟郎と知ってのことか?」

 誰何(すいか)の声に、闇の中の殺気が膨らむ。

 しかし、目を凝らしても相手の姿は見えなかった。おそらく、顔も黒く塗るか、黒い頭巾を被るなどしているのだろう。それだけの準備と必殺の意思があるということだ。


 加藤は、未だ刀の柄に手をかけていない。

 刀の柄を掴むには右手を前方に差し出さねばならず、それは相手の間合いに右手を晒す危険を冒すのと同義だった。

 また、今日、腰にあるのが本身でない以上、最後の瞬間まで相手に見られたくはなかった。それが、たとえ暗闇の中でもだ。その一方で、一旦抜けば竹光といえど、相手の首筋の動脈を跳ね上げること自体は容易なことだった。

 だから、跳躍中に左手で鯉口だけは切ってある。

 加藤がしたのはそこまでだ。


 刀は、柄を掴んで引けば鞘から抜けるというものではない。

 刀身は、鞘の出入り口である鯉口と、刀身に通してあるハバキによって固定され、不用意に鞘走らないようになっている。

 例えば、江戸城内で三寸抜けば切腹である。

 抜こうが抜けてしまったことであろうが関係ない。

 したがって、意に沿わずして刀が鞘走ることがないよう、刀は鞘に固く固定されているものだし、腰に落とした刀の柄側が下がるような時は、常に鍔に指が掛かるようにして鞘走りを防ぐ。これは、侍として極めて当たり前の所作であった。

 逆に、刀を抜くときには、左手の親指を鍔の縁にのせ、押し出すようにしてその固定を解かねばならない。どちらが先に抜いたかということを言われることがあるが、その実、どちらが先に鯉口を切ったかということの方が、外見からでは判りにくいこともあり、より重要なのだ。


 気配、息遣い、相手の足の爪先が間を詰めるに従って踏みしめられていく砂、そういったものも感じられない。

 ただ、黒い殺気があるだけだ。相手が、加藤の跳躍に続いて距離を縮めて来たのかすら判らぬ。よほどに人を斬り慣れていないと、このような対応はとれまい。

 加藤も一分刻みに間合いを計り、おそらく相手がいるであろう位置に近づいていく。


 「加藤様、右前方、二間」

 不意に、凛とした女の声が掛かった。

 加藤の両腕が動いた。

 左手で小柄を投げ打つと同時に、それを追うように間合いを詰め、鞘の返角(かえりづの)を使って左手を使わずに抜刀し、暗闇を薙いだのだ。


 加藤の刀は空を切った。

 流石に、相手なりに加藤の動きを読みきっていたのだろう。

 だが、一瞬の苦鳴を上げると、足音のみ残して走り去って行った。小柄が体のどこかに当たったのだ。暗闇で方向を失わないあたり、やはり、よほど入念な準備をしてきたものと思われる。

 同等以上の腕前の相手と戦うときは、一身を賭けた一撃と、複数の攻撃を同時に行う幻惑を状況に応じて巧みに使い分ける、それが加藤の身につけている剣の技術だった。


 加藤は、振り抜いた刀をそのまま止めることなく納刀し、暗闇を透かし見た。

 火種の着いた火縄を取り出したのだろう。ぼんやりと赤い光点が現れ、ろうそくに燃え移った。提灯に移される。

 「加藤様、私どものために、ご迷惑をおかけしました」

 辰巳芸者の鯔背(いなせ)さを思わせる、歯切れの良い口調である。


 加藤は、どのような女か掴みかねている。

 黒の綸子(りんず)の着物に、髪は髷を結わずに束ねただけで下ろしている。帯も黒の地味なものだが、ものは良さそうで、絹の輝きが見て取れる。

 顔を見て、加藤は一瞬、狐狸の類に化かされたのかと疑った。着物と髪と瞳の艶やかな黒と肌の白さ、唇の薄紅色の三色だけで作られたその姿があまりに美しい。


 加藤も、水茶屋の看板娘の見物に行ったことがないではない。

 が、格が違う。

 水茶屋の看板娘にあった愛嬌といったようなものは、この若い娘にはない。

 細面で色白く、切れ長の大きな目が顔の造作を特徴付けている。鼻は小さめだが綺麗に通っており、あまりに整って気品に満ちているので、どこぞの姫君でも通りそうだ。

 だが、蝶よ花よと育てられた女でありえないのは、大きな目には傲慢の一歩手前の意思の強さを表し、その立ち姿が型に適っていることだ。

 小柄で、ほっそりして見えるが、打ち物稽古なり武芸の修行をした肉置(ししお)きであることを、加藤の目は提灯越しの灯火の中でも見抜いていた。



 女からの助言により、一旦、危機を切り抜けたことは間違いない。

 だが、それを以って加藤が警戒を解く(いわ)れはない。納刀こそしているが、鍔元一寸を残し、鯉口を閉めてはいない。


 そもそも、加藤に掛けた初声の内容が問題だ。

 戦いの機微の中で、彼我の距離は常に変わる。ましてや暗闇の中だったのだ。

 どうして、その距離を伝えることができたのか。

 咄嗟にそう思ったからこそ、抜き打った刀をそのままの速度で鞘に納めたのだ。たとえ周囲が明るかったとしても、その速度の刀身を本身か竹光か見切れる人間はそうはいない。


 全てが茶番で、この女こそが刺客の本命ということすらも疑えるのだ。

 後腐れないように斬ってしまうか、と加藤は刀を腰に深く戻しながら話しかける。油断を誘うためだ。刀を抜くという動作は、刀を鞘ごと腰から前方に移動させるからだ。

 「礼を申す。

 私どものため、と言われたが、どのような仔細か」

 加藤は、ゆっくりと、そして最小限の言葉をかける。

 「ここでは、壁に耳があります。私の後に付いて来ていただけませぬか。女だてらに先行させていただきますが、御不審な点があれば、御容赦なく」

 加藤の右手は刀の柄頭に動き、左手は、控切(ひかえぎ)りの形を取った。


 言外の会話がなされた。

 女は、江戸の男女間の礼儀に沿わず、男に先行して案内をする意思を見せ、加藤に背後から抜き打つ裁量を与えた。自ら人質になったと言って良い。

 加藤は、右手を刀の柄頭に動かし最後の一寸を納刀し、鯉口を閉めた形を見せた。しかし、左手は外から窺い知れぬ控切りの形で鍔を抑え、本当に鯉口を閉めたかの判断を与えぬ。

 控切りとは、左手の中指、薬指、小指では鞘を握り、親指と人差し指の輪で鍔を抑える形であり、鯉口を切っていても鞘走らせないための形である。

 この形で刀を持たれると、刀を持っている者が臨戦体制なのか否かを外見からは判断できないことになる。あえて、このような形をとることで、戦闘体制を解いていないことを示し、斬る時は迷いなく斬るという意思を見せたのだ。


 女は、左手に提灯を抱え持ち、右手で加藤の釣り竿と魚籠を拾いあげた。そして、加藤に一礼すると歩き出した。

 本来ならば、付いて行くべきではない。

 女の名も聞かされていないのだ。ただ、背を見せるその覚悟に、士として応えるべきではないかと加藤は思った。

 加藤は右手を空け、後に続いた。


次回、水戸藩上屋敷


刀の扱いって、文章のみで説明するのは難しいですねぇ。

文中の返角(かえりづの)とは、刀の鞘に付いている突起で(付いていない鞘も多いです)、帯に引っかかって鞘が腰の前方に抜けないようにするためのものです。これがない刀は、鞘も刀身と一緒に前に出てきてしまいますから、右手のみで抜くのは極めて困難です。

高速で刀を抜くという動作は、右手で刀を前方に抜くという動き、左手と腰で鞘を後ろに引くという動きの両方が同時で、かつ抜刀の最後の瞬間は刀の反りを活かして鞘を90度回転させます。すなわち、刀の刃は上を向き、峰を鞘の内側に触れた状態で抜かれるわけですが、最後の瞬間に、鞘ごと刃は90度回転して横向きになり、横薙ぎに払われるのです。

なので、鞘は帯に対して角度的にも抜き差しの距離でも大きく動きます。

さらに、刀を抜いたあと、鞘の鯉口が帯近辺にあると、刀を振り下ろしたとき左肘が鯉口に当たってしまう(結構痛いです)ので、刀を振りながらも、鞘の位置は細かく調整されます。

そこで、鞘の動きの自由度を下げる返角は付いていない拵えも多いのですが、右手一本で刀を抜ける優位は動かしがたいため、各流派により返角の利点を活かし、欠点のカバーするための方法が工夫されており、中には口伝でのみ伝えている技法もあります。


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