29 継承2
「話が、横道に逸れたな。
とにかく、僕は入院、加療の生活になった。
そして、まぁ、君には呆れられるかもしれないけど、リハビリの最中に、美桜は美岬を妊娠した。お腹が大きくなった美桜は、とても幸せそうだった。
それが、僕の回復の大きなきっかけになった。
死から生へ、人生の舵を切り直せたのは大きいよ。
とにかく、いろいろ報われた気がしたのが大きかったんだろう。
退院した僕を待っていたのは、育児と美桜の父親による真気水鋩流の修行だった。
基礎体力も無くなっていたから、文字どおりの修行だったよ。
たぶん、君は自覚はしていないだろうけど、遠藤君からすでに初歩は手ほどきされていると思うんだ。とにかく、それによって、ようやく僕は社会人として復帰できるまでになれた」
「修行が生きがいになったんですね?」
「違う」
俺の予想を再び裏切って、その答えは短く明確だった。
「この流派のことを君に話した美岬は、真気水鋩流を誤解している。
僕も遠藤君も、具体的にはなにも話さないからね。
美岬は小手先のテクニックのことしか知らないけれど、当流の本質は生きて帰ることに尽きる。すべてはそのための手段だ。
そして、そのために編み出された、心理操作を可能とする技術体系こそが恐ろしいんだ。だから、表に出してはいけない流派なんだよ。
殺人という行動と、それへの忌避感を切り離すことを可能にするための技術なんだ。生き残るための徒手技術をいくら学んでも、忌避感から使えないのでは意味がないからね。戦がなくなった、平和な江戸の時代に生まれた流派らしいと思う。
だからこそ、それを知ることでPTSDへの効果を持つ。心を切り離すことと、自分の心を守ることは、近い位置にあるからね。
さらには、それを応用して、他者の心理操作も可能としているんだ」
ひょっとして……、遠藤さん、美岬自身が自覚していないまま、仕込んでないか、それ。
美岬に、「必要とあれば躊躇いなく技を使う、体がそのように動く、悩んだり自制したりは技を使った後となるよう仕込んだ」と言ってたよな。
そんなことできるのかとも思ったけれど、実際に自分の腕を美岬に破壊されると、そんなもんかと思うしかなかった。
でも、今の話を聞くと。そのための方法論じゃないかよ?
「美岬さん、それ、すでに身につけていませんか?」
「いや、身にはつけていないよ。
正確に言おう。
美岬は、当流の方法論で、局限的に刷り込みされて、その支配下にある。
美岬自身には、その方法論を教えてはいない。
遠藤君にどうするか聞かれて、僕が許可した。
遠藤君は、そのために小学生だった美岬の肩の関節を外したよ」
背筋に恐怖が走った。
ちょっと歳は離れているけど、良い兄貴と思っていた、あの遠藤さんが……。
冴えない外見の下に隠した、鋼の筋肉を誇る遠藤さんが、小学生の中でも小柄だったに違いない女の子に対して「それ」をしたのか。
幼い美岬の泣き叫ぶ顔が頭に浮かんで、やりきれない、暗澹たる気持ちになった。
「極限の痛みの中で、刷り込みを行うんだ。酷い行為だよ。
その痛みをもう二度と味あわないために、脳が判断をバイパスして、一番良い手段を直截に実行するようにさせるんだ。そして、その手段は、徹底的に反復して体に覚えこませておく。
具体的手段は口伝で、書かれたものは残されていない。これこそが、他の誰にも知られてはいけない技術なんだ。
これを人権とか、人の意思を無視してまで利用すると、本人の自我が泣こうがわめこうが、体は他人を傷つける行為を止めないという極限状態にすら持っていける」
そうだね、美岬は泣きながら俺の関節を破壊したな。
……可哀想に。
美岬の父親は、自虐的な表情になった。
「どうだい?
世の中に出しちゃいけない流派だろう?
自分でもおぞましいことを言っていると思うけどね、子供の時の方がいいんだ。
より深く刷り込めるし、怪我も早く、後遺症を残さず治せるからね。
でもね、それによって、美岬の生きて帰れる確率が上がるのなら、僕は親として許可するよ。人の親としては失格かもしれないけれど。
現に、去年だってそういう事態だったからね。
そもそもは僕がやらねばならないことを、遠藤君が代わってくれたんだ。そのとき、もう美岬が宿命から逃れられないのは判っていたからね」
「美岬さん、それなのに遠藤さんに、懐いてますよね?」
「言ったろう?
それが当流の恐ろしさなんだ。
生きて帰るためには、すべてを犠牲にして、それに呵責を覚えない。それを応用すれば、そうできるものなんだよ」
「もしも、それでも良心からの呵責に負けたら、どうなりますか?」
「個人差もあるけど、文字どおり、精神の死だろうね。
江戸の時代ならばともかく、現代はそういったことにより厳しい常識を持たされているからね。緊急避難による正当防衛だって、相手を殺してしまって、それを忘れて生きることは難しい。
だから、そうならないうちに『現役』を引退することだね。遠藤君は、豪傑だからまだ大丈夫だろうけれど。
僕は最初から壊れている状態だったから治療効果はあったけれど、それによる他者の破壊に踏み込むことはなかったし、今までも踏み込まないで済んだ」
「そうなんですか……」
「繰り返すけど、人を害するというのは、まともに育った人間にとっては、恐ろしく精神的な障壁が高いんだ。
そこに踏み込まなくて済んだのは、ありがたいと思っているよ。
遠藤君にも感謝の言葉もない。
当流は、初伝では相手の命を奪わず、最小限の怪我をさせるにとどめることを可能とすることで、自らの心を守るように体系付けられているけど、それでもきついからね」
そうか、だから、相手の小指への攻撃なのか。
で、実際に小指を怪我したら、もう刀は振れない。小指への攻撃は、フェイントという意味合いではないんだな。
って、そのくらいで留まる経験ならば、この人もしているのかもしれない。
「だからこそ、実戦が続いている間の心理的疲労の軽減が可能になる。疲れないから、生きて帰れる。すべてがそういう発想のものなんだ。
美桜の父が言うことには、そもそもは武器を温存するためだったらしい。
頸動脈、手首の内側や小指を斬っている程度ならば、日本刀はほぼ永遠に切れ味が持続するからね。で、武器を温存する戦い方は、心理的にも正常さが温存されると応用されだしたらしい。
だから、双海君には、美岬のために受け継いで欲しいと思っている。生きて戻るために」
「はい。わかりました。
ただ、質問なんですが、事故は起きないんですか? 美岬さんが、誰彼構わず怪我をさせてしまうといったような……」
「美岬の反射が発動するのには、条件がある。専守防衛を満たすときだ。
やみくもに人を傷つけたりはしないよ」
過去のそれぞれの事態を、思い起こす。
そうか、あのとき、俺は、美岬と薬の取り合いになった。
俺が手を伸ばすタイミングが一瞬早かったら、一回目の投げ技はなかったのかもしれない。薬の真上で、俺と美岬の手は絡み合ってしまった。具体的な攻撃と認識されてしまったんだ。
次も、俺は必死で傷ついていない左腕を上げた。美岬との間合いを図るためだ。あのとき、左腕を上げ間合いを測ろうとしたのは、慧思が美岬を抑えるための時間稼ぎのためだった。
そうか、慧思が美岬の間合いに入り、俺の態勢も攻撃をするものと認識された。
じゃあ、慧思が動かず、俺がドアの前に棒立ちで何もしなかったら、美岬は部屋から出られなかったのか。
美岬の体格じゃ、単に押したり引いたりじゃ、俺を動かせないもんな。
さらに思い返せば、二年前、紫陽花の陰で技をかけられたとき、俺は怪我をしなかった。
あのときの俺は全くの素人で、そのときの美岬は反射とかより、練習試合とか組み手の感覚だったのだろう。
確かに、専守防衛なんだろうとは思う。
ちょっとぎりぎりだけどな。
まぁ、あの時ああなったからこそ、今一緒に居られるんだけれど。
でも、なんか、この種明かしは逆にショックだな。
俺の自業自得があるだなんて。
美岬の父親は話し続ける。
「ただね、当流を学んだら、人の上に立つべきではない。
これを実生活に応用すると、部下を平気で見殺しにし、平然と合理化しているサイコパスにしか他者からは見えないからね。
サイコパスを、当流では魔界に落ちた者という。
魔界に落ちないよう、目的のためにそれを行いながらも人の心を保つような手段も当流は含むけど、残念ながら両者の違いは側から見ている他者には区別がつかない。
僕は、美桜の旦那であっても戦う者ではないから、サイコパスに見られる事態に陥ることもないし、人の心を保つのも困らないけど、君はどうするかな?
君は否応なく、戦う現場にいる」
「俺は大丈夫です。
美岬さんがいつか、武藤佐の後を継ぐでしょう。私には、そのお鉢は回ってきませんよ。だから、美岬さんを支える立場に徹します」
「男として、それでいいのかな? なにかのてっぺんを取ろうと思うのではないかな?」
「思うでしょうね。
でも、それは、組織のてっぺんでなくていいんです。昨日も姉に、無趣味な奴と非難されましたが、ずっとこのまま無趣味でいるとも思えないですし、打ち込める何かがきっと現れますよ」
そう言って、美岬の父親の顔を見上げた。
「これから先も日本にいらっしゃるのならば、碁を教えていただけたら楽しいとも思いますし」
「そうだな、君と僕は、他の人には理解できない、特殊な女性と生きることを選んだ者同士だからね。そういうのもいいかもしれないな」
「もっとも、なかなか自由になる時間を作れないかもしれませんが……」
「そうでもないよ。たぶん、君たちのこの夏の訓練は中止になる。
石田さんの言葉は重いんだ。昨日の言葉は、美桜にはショックだったろう。一時は美桜すら怖がるほど、壊れきっていた僕を連想させただろうからね」
……去年、一時的とはいえ、美岬に恐怖した自分を思い出した。
それって、PTSD、俺も危なかったってことか?
そうか、だから、「双海君と美岬さんのモチベーションの元だけは、絶対に破壊しないように」と石田佐が言ったのか。俺と美岬のモチベーションの元は、俺の美岬に対する、美岬の俺に対する想いだ。その想いすら、破壊が可能で、それをしてしまうことに気をつけろと……。
うっわ。
去年の、俺の美岬に対する恐怖、遠藤さんには見抜かれていたのか。冗談めかして、態度にはあまり出さなかったつもりだったんだけど。
ああ、そうか、遠藤さん、真気水鋩流で、「恐怖」の専門家なんだ。で、それが、報告書に一筆付け加えさせたんだ。
それで、ああ、すべてが繋がった気がする。
美岬と肌を合わせて、俺は安らぎを得た。恐怖を安らぎで上書きした。
たぶん、上層部の皆さまによって、幾重にも検討結果が張り巡らされたアメリカ旅行だったんだね。
そりゃあ、「したな?」って、カマもかけるわ。
「真気水鋩流を学び、恐怖と付き合う方法を覚える必要があるということなんですね」
「石田さんから、僕に話があったんだよ。遠藤君から学ぶより、僕からの方が君には良いだろうからと。
美桜を怖がった僕と、美岬を怖がった君は共通するところが多いからね」
これもまた、石田佐の「配慮」だったのか……。
次回、父としての




