22 熟成肉のステーキ
車が、大きな吊り橋を渡り始めた。ウィリアムスバーグ橋だ。
これを渡ればブロンクス。
「ピータールーガーのテーブルは押さえてありますから、ごゆっくりどうぞ。食事代はこちらで持ちますし、お店には話してあります。
一時間半後に、運転手のサムが戻ってきて、空港まで送ります。だから、荷物は、この車に置いて行ってもらって大丈夫ですよ。ボストンまでの、ジェットブルーでの予約に間に合うようにしますから」
グレッグはそう言うと、俺たちをピータールーガー・ステーキハウスの前に車から下ろすと、そのまま走り去って行った。
石田佐が言う。
「三人とも一昨年、去年の報告書のとおりだな、良い連携だ。
グレッグはプロだ。そのプロがハイスクールの生徒に出し抜かれたんじゃ、いらいらもするさ」
ああ、石田佐も気がついていたのか。
「おまけに、グレッグはギフテッドであると疑って、こちらが尻尾を出すことに賭けて、衣の袖から鎧を見せた。
切り抜けたのは、菊池君のお手柄だな」
俺は慧思に、握りこぶしを突き出す。慧思も握りこぶしを作り、俺の握りこぶしに軽く当てる。その上から、美岬が手のひらで叩く。ぱんっと小気味良い音がする。
石田佐が続ける。
「リムジンに置きっ放しの荷物は、検査されると思ったほうが良い。一応聞くが、何か置き忘れはないか? あるようならば、財布を忘れたとか言って取り返すが」
「ありません」
そう、言葉を返す。体に塗る落屑を防ぐ特殊塗料類は、俺も美岬も手荷物的に肌身離さず持っている。そもそも、ホテルの部屋にも置きっぱなしにはしない。こまめに塗りなおしが必要な時もあるし。
「じゃあ、お店に入ろう。せいぜい、グレッグに高い請求書を回してやろう」
石田佐の言葉に、俺たちも笑った。
お昼時は過ぎているのに、お店はまだほぼ満席だった。
店の入り口から入ったバーのようなところで、テーブルが用意されるのを待つ。壁には、一面にザガットからの賞が掛けられている。
俺は、美岬にも聞こえないよう、慧思に小声で聞いた。
「昨日は何していた? 後をつけられても大丈夫なところにいたか?」
「自然史博物館にいなかったことは、バレてるのか?」
口元だけで笑って、慧思が聞く。
「当たり前だ。あそこにレイトディがないことに気がついたからな。
……ありがとう。本当に感謝している」
「スタバでコーヒーを飲んでいただけだ。お前こそ大丈夫か?」
「ああ、使った金額以外、疑われることはない」
「そんなに使ったのか?」
「六十万」
「マジか!? 日本政府の要人の子息だと、そのくらいは使うかな?」
思わず笑う。
却って良かったかもしれない。
俺だって、今なら生活費も大してかからないから良いけれど、社会人としての生活を始めたら、六十万円なんて出せないと思う。だからこそ、昨夜使った金額はそのまま、グレッグの作ったカバーを証明するものとなる。
フランスの諜報員が無能とは思えない。
かならずニューヨーク市警に裏をとるはずだ。そして、裏を取るからこそ、政府要人の子息という嘘の情報を掴み、昨夜の金額につじつまが合うことになる。
「俺が美岬ちゃんに言うと変なもんになっちゃうけど、昨夜、本当に綺麗だったからなぁ」
「ありがとうな」
石田佐がこちらを向く。
「そろそろいいかな? この間に、私の方からも説明しておこう」
「はい」
今の、聞いてたかな? 石田佐は。
程よい人混みは、却って密談に向く。
ウドバーハジー・センターから俺たちをつけてきていた連中の素性等は、俺の想像とおりだった。でも、これで、グレッグの作ったカバーが有効になるので、日本側から再度、美岬の「本当の顔」をリークすることで、安全は引き続き確保されるだろう。
たぶん、フランスはそのリークを、去年の対象国に確認をとるはずだからだ。それはもう、確実に。
ただ、問題は残った。
美岬と俺でも、このようなシチュエーション下での監視は発見できなかったことだ。武藤佐に、このような場合への対応技術について、教えを請う必要があるな。
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頭がほど良い感じに寂しくなったマネージャーが、俺たちを席に案内してくれた。不思議に、ハゲ散らかすというより、精悍さが増してかっこよくなる人がいるよね。
美岬には、椅子が引かれる。
テーブルクロスなどない、木のむき出しのテーブルだ。だけど、そのテーブルはあまりに毎日磨き込んでいるせいか、どの角も丸く減っていた。
メニューを渡される。
「ほうれん草のクリーム煮は外せない!」
渋いとこつくな、慧思よ。
「前菜の厚切りベーコンのグリルは外せない!」
俺も、慧思を真似て言う。
「ミックス・グリーン・サラダは外せない!」
美岬までが言う。そうだな、緑色の葉っぱの野菜、アメリカに来てからあんまり食べてないもんな。
「じゃあ、ホーリー・カウ・ホット・ファッジ・サンデーは外すわけにいかないな」
石田佐も言う。可笑しい。
これも勝利の味かなぁ。考えてみたら初めてだ。なにより、かゆくない勝利は。去年も一昨年も、激痛と蚊に刺されたかゆみに満ちた勝利だったからなぁ。
ウェイターさんに注文する。このお店、基本、男しかいないみたいだ。
注文は、声の上がったものに加えて、Steak for four!
朝もしっかり食べたはずなのに、高揚感からか、狼のように腹が空いている。でも、これって、西洋の表現だよね。日本人だと、ダボハゼのようにお腹が空いているとでも言えば良いのかな?
アメリカにいると、こんなのも気になる。
オニオンブレッドが運ばれてきた。
アメリカに来てから、一番美味いパンかも。なんとなく慣れてきたとはいえ、それでもアメリカの食材は総じて味が薄く感じる。でも、このパンは薄くない。小麦のどっしりした重さを感じる。付いてきたバターもすばらしく美味しい。
厚切りベーコンのグリルとミックス・グリーン・サラダが運ばれてきた。
目の前に置かれるなり、本物のベーコンだと確信する。煙の香りだ。こうでなくっちゃ。
「どう? 前のホテルの朝食のベーコンと違うだろ?」
「美味しいね。確かに全然違うよね」
などと言いながら、サラダをつつきだした美岬の顔が、くしゃっとなった。
こういう表情は珍しい。
「どうした?」
「サラダのトマト!」
「ん?」
口に運ぶ。
これは美味いわ。
日本でも、ここまで甘さと酸味の濃いトマトはなかなかお目に掛かれない。他のレタス等の野菜も、みんな味が濃い。アメリカっぽくないと言うのは、偏見的な言い方だろうか?
特に、野菜を食べられる機会が少なかったのも影響していると思うけど、いつになく美味しく感じる。ステーキで一流の老舗は、サイドメニューも一流なのかぁ。
食べていると、ウェイターさんが小皿をテーブルに伏せていった。
「いよいよ来るぞ」
石田佐が言う。そう、ステーキだ。
大皿に、素晴らしく大きなTボーン・ステーキが二つ。表面は焦げ、骨など炭化するほど焦げているのに、肉はレアだ。
肉自体はすでに切り分けられている。先ほどの伏せた小皿に乗せる形でステーキの皿を置く。結果として皿が傾くので、肉の脂が低い方に集まる。
ウェイターさんが、ヒレとサーロインを一切れづつ取り分け、その油をスプーンで掛けてくれた。そして、ほうれん草のクリーム煮を、スプーンで豪快に肉の脇に盛り上げる。
まずは一口。
深い味がする。
牛肉なのに、鰹節に通じる旨味を感じる。これが熟成肉かぁ。
ほうれん草も、程よいえぐみが舌をリフレッシュしてくれるので、さらに肉を食べたいと思わせてくれる。
これは良くない。
日本に帰ってから、大きいけれど安い牛肉の塊を、エエ加減に焼いてエエ加減に食べるということができなくなってしまう。あれにはこんな旨味はないし、ナッツを思わせる香りもない。中はレアなのに、表面をガリガリと歯ごたえを感じさせるほどに焦がす火力もうちにはない。ということは、また、ここまで来なきゃ、食べられないじゃんかよ。
もっとも、さっきのメニューに書いてあった値段に、飛行機代もかかることを考えれば、次は十年後とかかなぁ。
全員、あまり物も言わずに食べる。
一緒に運ばれてきた、真っ赤なステーキソースも使うけど、そのままの方が美味い気がする。
気がつくと、皿は、ところどころ黒く焦げた骨が、二つ残っているだけになっている。
女性の美岬も、失礼ながら初老と言って良い石田佐も相当に食べたようだ。
「終わったかね?」
ウェイターさんが声をかけてくれ、テーブルの上を片付ける。ほとんど残っていたステーキソースを、空の皿にぶちまけてから片付けたのにはびっくりした。これがここの美学なんだろうなぁ。
「サンデーと一緒に飲み物は?」
俺は珍しく紅茶。あまりに肉をたくさん食べたので、コーヒーより軽いものが欲しくなったのだ。美岬も同じものと。ただ、レモンではなくミルクで。慧思はコーヒーを選んだ。石田佐はアイリッシュコーヒーだ。アルコール飲むんだ、この人。
飲み物とサンデーが運ばれてきた。サンデーはたぶん食べきれないから、みんなでつつき合うということにしたけれど、それで正解だった。
なんという量か。すごい。
しかも、本物のクリーム。どっしりしている。アイスクリームもチョコレートもずっしりしている。上にちりばめられている胡桃の実も、香ばしくて美味しい。どれも美味しいんだけれど、一口ごとに満腹中枢を殴りつけてくる感じ。
これをステーキの後に、一人で一つ完食するアメリカ人はやっぱすげーわ。
次回、鑑定と太い釘
あと十回前後でこの章も終わりそうです。
ピータールーガー、いよいよ日本にも支店を出すみたいですね。




