6 歴史とか経緯とかって怖いわ その2
「南朝の『つはものとねり』も、実戦的な活動ができなくなる一歩手前に陥っていたという話をした。その中で、南朝系の血筋を残すという、存在意義とも言うべき、我々にとって最優先せねばならない目的までが疎かにされる事態となった。
組織内で大きな争いが起き、以後、督は名誉職から、目的を見失わない実戦指揮官としての能力から選ばれるようになった。
古に足利尊氏、新田義貞が左兵衛督だったことを思えば、必然だな。
これから話すのは、嘉永六年、西暦で言えば1853年のことだ。
その時の組織内での争いで、初代の明眼が指揮をとり、二代目の明眼とそれを守る侍が、現代に繋がる『つはものとねり』の組織としての基礎を作り直したのだ。その時に書かれた記録文書が、そのままここの倉庫に残っている。君たちが勉強を重ね、筆による古文書を読めるようになったら、ぜひ読んでおくべきだと思う」
慧思が聞く。
「そのような形で督が変わるということは、実質的に組織内クーデターが起きたという事でしょうか?」
「ああ、そうだ。
ペリーの黒船来航時、日本の国論は開国か攘夷かに大きく揺れた。
が、その時に、幕府ではすでに開国が決定されていた。その時の議論を方向付ける大きな要因として、我々の中でのクーデターが影響していたことは否めない。
幕府はなんだかんだいっても、正確に彼我の実力を見極めていた。世界中の白人国家の植民地状況も、不十分ではあるが掴んでいた。
当時、世界はすでに白人のものとなっていた。だから、戦ったら勝てない。負ける戦を敢えて行うのは、失うものが大きすぎた。また、戦いの相手が外国である以上、その時までの国内戦争のように、総和でのプラスマイナスがゼロというわけにもいかない。
太平の世に骨抜きにされていたとはいえ、幕府は軍事政権だよ。
ましてや、征夷大将軍だ。攘夷に方針が決まり、諸外国と戦うという結論が出たとしたら『戦えません』とは言えない。征夷大将軍が夷と闘いたがらない、戦ったら負けるということは自らの存在意義に関わるからね。
そして、後に孝明帝の『戊午の密勅』という形で、幕府にとっては最悪の形でそれは具現化してしまう」
確か、日本史で勉強したよな。
うーんと、「戊午の密勅」って、安政の大獄の原因になった奴だよな。
天皇の勅許なく日米修好通商条約に調印してけしからんってのと、公武合体して幕府は攘夷をしろってのと、さらにこの二つを諸藩に知らせろっていう三つの内容だった。
幕府は困っただろうと思う。
条約を結ぶって道もあるのにもかかわらず、軍事力の比較で勝てないと判っている戦に勝てと言われているんだからなぁ。
それも、相手が二度と来たくないと思わせるまでに叩きのめせって、ハードル高すぎ。たとえ、黒船を全艦撃沈しても、次の来航を十年は抑えられないだろうし、次の時はとんでもない重武装艦で来るだろう。
石田佐は続ける。
「幕府の立場に立ったら、どうしたら良かったと思う?」
「思い切った想像をしても良いでしょうか?」
美岬が聞いた。
「ああ、ここには他に誰もいないし、ブレーンストーミングと考えてくれて構わない」
「我々が関わっている、そして、幕府が我々を知っているという前提でならば、孝明帝の詔勅を無効にする詔を、より次の天皇に出してもらうということができるのではないでしょうか?」
「そうだな、そういう考え方もある。
だが、最終手段をいきなり持ってくるかね?
最終手段と言うのはだね、それは天皇家内のクーデターということになりかねないからだよ。できたとしても、本当に最終手段だ。
我々が表返る時は、国難としても最終段階のときだ。
ダイレクトに本質を突くのは武藤佐の教育の賜物だろうが、その前にやれることはたくさんあるし、その模索を忘れてるのは不敬ですらあるだろう。
具体的な例を挙げれば、昭和帝の時に日本は戦争に負け、国体の危機に瀕している。その時すら我々は表返らなかった。いや、表返る必要が生じなかった。
それ以上のことを、昭和帝はなされた。
もちろんだが、長い日本の歴史の中、やむをえず天皇の代替わりが起きることもあった。
恐れ多いことなので、滅多なことは言えないが、明治からの紙幣の肖像画になった人物を調べてみるがいい。我々の組織が生まれるよりはるか昔から、複数の痕跡を見つけることができるだろう」
それは、明治政府として、天皇をすり替えた人を顕彰したということだろうか?
とても一朝一夕で理解しきれる話ではない。あとで、慧思に教えてもらうしかない。
石田佐は話を続ける。
「少し、時代がずれてしまったな。
それでは、誤解を招かないように、視点別に起きたことがらを簡単にだが話そう。
まずは、その時の督の視点だ。
オランダ風説書の記述など、1853年の黒船来航を予想させる情報はあった。また、1846年にも、アメリカの軍艦が浦賀に来航している。
それを受け督は、南朝の尊王と攘夷のために表返りを考えた。自らが血筋のバックアップであるという存在意義より、南朝正統の思想を具現化できることを優先させたんだ。
もう一つ、その時、督は幕府から強制隠居と謹慎処分を受けさせられていたから、尚のこと、鬱憤がたまっていたんだろうな。
とにかく、1846年の来航時、督は、初代の明眼たる佐に調査を命じている。
当時、すでに他に遂行能力を持つ佐はいなかったし、自らの藩の藩士を表立って使うこともできなかったからな。
まぁ、当時は、今のように佐による権限の鼎立はされていなかったし、組織上、督の権限が極めて強く、それなのに督は名誉職として就く人間が決まっていた。そして、その督が任意に任命した佐が複数いるという状態で、その佐すらも名誉職でほとんど部下を持たなかった。
もっとも、逆説的だが、だからこそ督に権限が集中していても実害がなかったと言えるがね。
文字どおりの空回りなんだが、それでも督は、表の自分の権力を合わせれば、何とかできると信じていた節がある。
しかし、先ほど話したように、『明』で起きた土木の変が我々を生んだのだ。外国から侵略があっても、国家の象徴を生き延びさせるために我々はいるのだ。それなのに、外国からの侵略が予想される時に、血筋の存在を明らかにしてしまうなど論外な話だ」
そう言って、石田佐は自らを落ち着かせるようにお茶をすする。
俺たちは、黙って石田佐の次の言葉を待った。
「ともあれ、当然のように当時の南帝は、督の言に乗らなかった。というより、乗れるはずもなかった。
クーデターを目的として残された血筋で無いことは徹底して伝えられているし、そして、それを忘れることと、国内で無辜の血が流れることはセットだからね。
あまりに督の表返りの言上がしつこく、叱責すら聞かないので、時の南帝は督を飛びこして、初代の明眼たる佐に対応を求めた。
それを知った督は、初代の明眼たる佐を密かに処分しようとし、失敗した。
止むを得ず、時の南帝と明眼たる佐は、督の政治的対抗者に協力を求めた。
督とその政治的対抗者は、政治的にだけでなく、どうやら食い物の恨みもあって、個人的にも仲が悪かったらしい。
そして、折も折、黒船が来航した。南帝と明眼たる佐は、開国派に協力し、幕府の規定路線を実行させる一助となった。
攘夷派である督は最後には失脚、蟄居となり、その後に亡くなっている」
長い話を一気にした石田佐は、お茶を飲み干し、お替りを入れるために立ち上がった。
その後ろ姿に、慧思が声をかけた。
「当時の督が、水戸の徳川斉昭、南朝の帝と初代の明眼たる佐が協力を求めたのが、桜田門外の変の井伊直弼ですね?」
「菊池君には、判ると思っていたよ」
背中越しに石田佐が答えた。
小声で慧思に聞く。
「食い物の恨みっての、マジか?」
「ああ、牛肉事件ってのがあってな。徳川斉昭は、牛肉の味噌漬を井伊直弼にねだっては断られるという、アホなことを繰り返していたんだ」
そうか、そんな下らんことで、歴史ってのは動いていくこともあるんだろうな。それが却って怖い。
とにかく、今日はもう、慧思劇場だな。もう、ずっとお前のターンでいいや。
次回、明眼とアメリカとの関わり
に続きます。




