月の微笑 ～略奪された王女と独善の王～

61. 医師の怒号

　その後、呼ばれた医師は、サーリアの姿を見ると盛大にため息をつく。

　全身で、あなたには呆れました、と主張しているように思えた。

　サーリアは思わず身を縮こませる。

「やはり先ほど当たっていたのですか」

　腰に手を当てて、医師が訊いてくる。

「そのようです。痛くはないのですが」

「そんなはずはありません。今は興奮していて感じないだけですよ」

「そうでしょうか」

「見せてみなさい」

　エルフィの民たちは、その様子を覗き込むように、はらはらしながら見守っている。

「ああ、傷口を見る限り、毒物は塗られていないようですな。良かった」

　言われて初めて、その可能性に気付いた。確かに。オルラーフの矢だ。そうされていてもおかしくはなかった。

「血はもう止まりましたね。気分は悪くはないですか？　胸が苦しいとか、どこかが痛いとか、熱っぽいとか」

「いいえ、大丈夫です」

　医師は頷くと、手早く頬に薬を塗った。

「女性の顔に傷など残したくはないが、そうもいかないかもしれません」

「はい。それはもう仕方ありません」

　サーリアはそう答えるが、背後の民たちは口々にため息をついている。

　そして医師が薬を塗り終えて身体を起こしたと同時に、一人が呼び掛けてきた。

「さあ、姫さま、治療も終わりましたよね。エルフィに帰りましょう」

　そう急かされてしまい、少し俯くが、ちらりと上目遣いでレーヴィスのほうを見てみると、口元に手をやってなにかを考えこんでいる様子だった。

　彼がなにか口を挟むかと思ったが、次に話し始めたのは医師だった。

「は？　帰る？　エルフィに？」

　医師は驚いたように声を上げた。

　それに反応したエルフィの民たちが、怒りをあらわにして返してくる。

「当たり前だ、姫さまはエルフィの女王だ！　いつまでもこんなところにいさせてたまるか！」

　だが怒りを向けられた医師は、目を吊り上げて彼らを怒鳴りつけた。

「馬鹿を言うな！」

　まさかの反論に、エルフィの民たちは身を引く。

「当たり前？　あなた方は、本当に彼女のことを考えているのか！」

　空気が震えるかのような医師の怒号に、民たちは戸惑いを隠せず、おろおろしている。

「え……」

「妊娠中のお身体で、エルフィまでの道のりは遠すぎる！」

「いや……」

「それならアダルベラス王城のほうがまだましです！　正気なんですか、あなた方は！」

　憤慨する医師に、誰もが言い返す言葉を持っていなくて、彼の声だけが天幕内に響く。

「母子ともに危険に晒して、それがあなたたちの女王に対する態度なんですか！」

　そしてそのままの勢いで振り向くと、医師はこちらを見下ろして、サーリアを指差してきた。

「あなたもあなたです！　こんなところまでやってきて！　前から言っているでしょう、あなたは自分を軽んじ過ぎている！」

「ご、ごめんなさい」

　思わずそう謝ると、医師は腰に手を当てて鼻を鳴らした。

「謝るなら、自分の御子に言うことですな」

「はい……」

　おとなしくそう返事するが、医師はまだ気が収まらない様子で、今度はレーヴィスのほうをくるりと振り返った。

「陛下も陛下だ。私は以前、陛下に言いましたよね？　妊娠中のお身体ではエルフィに帰ることはできないって。何度も何度も！」

「言われたが……」

　医師の話に、思わずそちらを凝視してしまう。

　以前？　何度も？　いつ？　では、エルフィに帰りたいと責めたあのとき、もしかしたらそれまでに、何度も医師と話し合っていたのか。

「じゃあ攫ってでも止めなさい！　あなたの御子ですよ！」

「いや、攫ってでもというのは……」

「言い訳は聞きません！　選択肢はひとつだ！」

　なおも文句を連ねようとする医師を、手を立てて制すると、レーヴィスは諦めたように肩を落として肯定する。

「わかった。そなたが正しい」

「わかってくだされば」

　それだけ返すと、身を翻して天幕を出て行く。

「まったくもう、どいつもこいつも！　私の仕事を増やしたいのか！」

　医師の不平不満の声が、だんだん小さくなっていく。

　あとには唖然とする人たちが残された。

　だが気を取り直したのか、民たちがサーリアを覗き込むようにして請うてくる。

「でも姫さま、さきほどアダルベラスの兵士が馬車を用意すると言っていましたよね」

「そ、そうですよ。もちろんお身体には気を付けながら進みますから」

「お願いします、姫さま」

　それらの懇願に、少々の失望を覚える。たった今、身体を大事にするように言われたのに。

　それでも望まれることは、エルフィで微笑んでいることなのだろうか。

　俯いてそんなことを考えていると、前方から、大股で歩く足音がした。

　かと思うと、ふいに腕を掴まれ立ち上がらせられて、抱き寄せられる。

　見上げると、レーヴィスがサーリアを片腕で抱いたまま、民たちのほうを睨みつけるように見ていた。

「申し訳ないが、それ以上の暴論は、許すつもりはない」

　その低い声に、エルフィの民たちは怯んだようだった。

　それを見て、畳み掛けるようにレーヴィスは続ける。

「そなたらが彼女とその子の安全を考えないのなら、今からでも先ほどの協定は破棄しよう」

「な……！」

「そなたらに任せるくらいなら、私のほうがまだましだ。形式上とはいえ、彼女は私の妻だ」

　しばらく睨み合いが続く。

　先に根負けしたのはエルフィの民たちだった。目を逸らして、卑怯じゃないか、破棄するなんて、ともごもごと呟いている。

「ひとまず彼女が動けるようになるまでは、こちらで女王陛下を預かる。それでいいな？　それが先ほどの協定を守る条件だ」

　有無を言わさぬ鋭い口調で諫められ、民たちは俯いた。

　だが。

「自分だって、帰そうとしていたくせに……」

　思わずぼそりと口からそんな言葉が漏れ出てきた。