60. 会談
月の君はエルフィに戻る、と聞かされた兵士たちは、彼女が帰国するための準備を行っていた。
しかし心は晴れない。致し方のないこと、それはわかってはいる。
けれど、兵士たちにとって天使も同然の彼女を失うのは、やはり彼らに落胆とため息を与えた。
一人の兵士がエルフィ国民たちの集うほうへ目を向ける。
その場所から数人を引き連れ、月の君と思しき人影がこちらに歩いてきているのが見えた。
それに気付いた兵士の何人かが彼女を迎えるために走り出す。
「月の君!」
「いかがなさいました。こちらから伺いましたのに」
「今、そちらに馬車を持っていこうとしておりました」
たどり着いて息を切らして言うその兵士たちの言葉を聞いて、彼女は小首を傾げた。
「馬車?」
「ええ、峡谷を抜けられる、なるべく振動の少ないものを準備しろと陛下が。あとなにか必要なものはありますか。護衛と路銀は用意いたします」
「……そう」
彼女はそれを聞いて目を伏せた。なにかまずいことを言っただろうか。
兵士たちは顔を見合わせてみるが、明確な答えを出せる者はいない。
サーリアの後ろに控えているエルフィ国民を見てみれば、こちらを睨みつけてきてはいるが、それは今の言葉とは関係ないだろう。
サーリアは顔を上げるとこちらに訊いてくる。
「陛下はどちらに?」
「え、ええと、あちらの天幕に」
陣の奥に張られた天幕を指さす。
「わかりました」
そう答えると、サーリアはまた歩き出す。エルフィの民たちも、黙ってそれについていく。
兵士たちもなぜかなにも言えなくて、彼女が天幕に向かうのについていった。
◇
将軍を含めた主だった者と今後の対策についての話をしていると、一人の兵士に背中から声を掛けられた。
「陛下」
「あとにしろ」
そちらに視線を移すこともなくそう答えると、今度は違う声がした。
「お忙しそうですけれど、私に少しお時間をくださる?」
この声は。慌てて振り向くと、サーリアがそこに立っていた。
その後ろには、何人かのエルフィの民たちが控えている。
「なぜ、いる」
「来たからです」
彼女は当たり前の答えを返してきた。
言葉に棘はあるし、こちらを見る目も冷たい。どうやらなにごとかに怒っているように見える。最初の頃のような、憎しみの眼差しとはまた違う。
怒っているらしい彼女には申し訳ないが、少々、新鮮だ。
「なにか足りないものでもあったか? 要望があれば聞くようにと指示したはずなのだが」
レーヴィスのその問い掛けに、サーリアはこれみよがしに大きくため息をつく。
いったい、なんなのだろう。
「ひとまず、今後について話し合いを」
「……今?」
「ええ」
「一度帰城してから、日取りを決めてエルフィに向かうつもりだったのだが」
「早急に決めたいこともありますし、言いたいこともございます」
言いたいこと。心当たりがありすぎて、見当もつかない。
「代表者同士の会談、ということでいいか?」
「ええ」
従者に指示を出すと、机と椅子が用意された。書記官を置いて、記録もさせる。
簡易ではあるが、会談場所として十分だろう。
彼女は外套を脱ぐと、後方に控えていた民に手渡す。濡れた髪に慌てたのか、兵士たちが手拭いなどを持って来た。
とりあえず落ち着くと、レーヴィスは用意された椅子に座る。彼女も目の前の椅子に腰掛けた。
「ではエルフィ女王陛下。ご要望をお聞きしよう」
指を揃えた手で指し示すと、彼女は一度深呼吸してから、口を開いた。
「エルフィの完全な返還。復興に対する最大限の支援。アダルベラスから私を正式にエルフィ女王として認めること。その際、軍事同盟も。最低でもこれだけは」
「いいだろう。詳細については後々詰めていこう。状況把握も完全ではない」
「ええ。とにかくお約束をいただきたかったものですから。すべて整った際には、独立宣言を行います」
「了承した」
それから、少しばかりの沈黙が訪れた。雨が天幕を叩く音と、書記官がペンを走らせる音が響く。
それだけか。今、彼女が要望したことは、終戦後の行政整理として当然しなければならないことだけだ。こうなってしまっては、異議を唱える者などいるはずがないのに。なぜ急いだのだろう。
それからサーリアは珍しく落ち着かなく辺りを見回した。
なにか、と問おうとしたとき、彼女のほうが先に口を開く。
「それと、私、陛下に……」
サーリアがそう言いかけたのとほぼ同時に、彼女の後ろから声が飛んできた。
「姫さま、もういいですか?」
「早く帰りましょう」
「あの、ちょっと待っ……」
「さあ、お早く」
彼らは、レーヴィスの近くに彼女を置いておきたくないらしい。一分一秒でも早く、ここから立ち去りたいようだ。
当たり前と言えば当たり前なのだが、早急過ぎやしないか。焦りすら感じる。
そのときふと、彼女の頬の傷が目に入った。
今まで雨に濡れていたから血が目立たなかったのだ。今はじんわりと血が滲んできている。
「頬に矢傷があるな。医師を呼ぼう」
その提案に、エルフィの民たちは動きを止めた。




