59. それぞれの民たち
レーヴィスのあとを、ゲイツは追った。さして速度を出していたわけでもないので、すぐに追いつき、斜め後ろを追走して声を掛ける。
「陛下」
「ゲイツ、エルフィまでの道中、彼女に護衛を」
彼はこちらを振り向くことなく前方に顔を向けたまま、そんなことを指示する。
「ええ、それはもちろん」
「峡谷を抜けられる馬車の手配も頼む。乗ってきた馬もいないようだし、妊娠中の身ではエルフィまでの道のりは辛いだろう」
レーヴィスは、やはりこちらには振り向かない。
「陛下」
「ああ、それから路銀も必要だろう」
「陛下」
「他になにか必要なものがあれば」
「陛下!」
強く呼び止めると、彼は馬を止め、こちらにゆっくりと顔を向けた。いつものように、少し冷めたような瞳をしている。
もしや泣いているのかと思ったから、心の中でほっと胸を撫で下ろす。
「……なんだ、ゲイツ」
「よろしいのですか?」
レーヴィスの隣に馬をつけると、ゲイツはそう尋ねた。
「月の君のお腹にいるのは、陛下の血をひく御子ですよ」
「仕方あるまい。彼女は帰りたがっていて、エルフィの民は帰って欲しいと願っている」
淡々とそう答えて、レーヴィスはまた馬を走らせ始める。
「彼女には、この戦を止めてもらっただけで、もう十分だ。これ以上、なにかを彼女に望むのは、酷だろう」
「でも」
「あの天使たちを見て、それでも彼女を無理に略奪できるか?」
「……いえ」
ゲイツは小さく首を横に振る。さすがに神の怒りには触れたくない。自分だけならまだしも、国ごと滅ぼされることだって考えられるのではないか。
事実、干ばつは起こった。
レーヴィスはゲイツのその表情を見ると、ふっと笑う。
「彼女は自分が魔性の者に愛されていると言っていたが、たぶん、それは私だ」
そう零すと、雨が降る空を見上げた。
「彼女の不幸は、すべて私が運んできた。これ以上は傍にいてはいけないだろう」
天使たちが消えた空を眺めながら、彼はそう続ける。
ゲイツは思う。やはり泣いているのではないか?
「神だの天使だの、馬鹿馬鹿しいと思ってきたが……天誅が下されるのは、いつかな」
そして目を細めて小さく笑う。
「雨を降らせてくれたのは、国民に対する慈悲だろうか。せめて私に天誅が下されるまでに、継ぐ者が生まれればいいのだが。アダルベラスを私の代で終わらせるのは忍びない」
いやに雄弁だ。不安を押し隠そうとしているように見えた。
そのとき、ふと思う。彼はまだ若いのだ。
まだ少年と呼べる年齢から、ずっとアダルベラスの国王として君臨してきた。なにごともそつなくこなしてはきたから、そのことをつい忘れてしまう。
だから彼一人に我々はすべてを押し付けすぎたのではないか。その重責を彼一人に負わせてしまったのではないか。
ゲイツは黙って、彼が紡ぐ言葉を聞く。
「彼女の言った通り、世継ぎは他の女性に産んでもらうだけだ」
彼の発言のすべては、自分自身を納得させようとしているようにしか聞こえない。酷く虚ろだ。
だからつい、口を出した。
「……本当に?」
「なんだ」
食い下がるゲイツに多少苛ついた様子で反応してきた。
「本当にそれで後悔なさらないのですね?」
「……くどい」
一言、そう返してくる。けれどゲイツは臆することなく続けた。
「それは失礼申し上げました。しかし無礼を承知で申し上げます。私には、陛下が満足しているようにお見受けすることはとてもできません。そしてただ、彼女から逃げ出したようにしか見えません」
そうはっきりと言い切ったゲイツの言葉に、彼は口の端を上げた。
「そう見えるか」
「失礼ながら」
「……そうか」
レーヴィスはそれ以上なにも反論せず、ただ馬を走らせるだけだった。
ゲイツもそれ以上は、なにも話すことはなかった。
◇
サーリアはレーヴィスが走り去るのをただじっと見つめていた。
その様子を見ていたエルフィ国民の一人が話し掛ける。
「姫さま」
その声にはっとするように彼女が振り向いた。
「なんでしょう?」
「なぜ、そのようなお顔をしているのです」
「そのような……って」
彼女は自分の頬に手を当てて、戸惑ったように目を瞬かせた。どんな表情をしていたのか、自分ではわからないのだろう。
それきり、彼はなんの言葉も舌に乗せることができなかった。
それは振り続ける雨のためだろうか。彼女の頬に流れるものが、雨ではなく、涙のように思えた。
略奪され、そして晴れて母国に帰れるようになったというのに、なぜ彼女はそんな泣きそうな顔をしてアダルベラス王を見送ったのだろう?
まさか、本当にあの男に情が移ったのか。
その想像に、蒼白になる。慌てて心の中で否定した。
いいや、そんなはずはない。彼女の幸せはエルフィにしかない。
そして自分たちの幸せも、彼女が運んでくる。
今までずっとそうだった。これからもずっとそうだ。
それを崩したのは、あのアダルベラス王だ。憎みこそすれ、情など。
『神に愛でられし乙女』はずっとエルフィにいて、微笑んでいてくれればいい。彼女だってきっとそうしたいと思っている。
いや。思っている……と思いたいのだ。
けれどサーリアの表情を見ていると、彼女も同じ気持ちだと、確信することができない。
さきほどまで歓喜に満ち溢れていた彼らは、今明らかに沈み込んでいた。それは、今のこの空のように。
サーリアはしばらくなにごとかを考え込んだあと、ふいに顔を上げ、こちらを振り向いた。
その表情を見て、思わず身を引く。
「あの……、姫さま?」
彼女は気付いているのだろうか、自分の表情の変化に。
先ほどまで泣きそうだった瞳には、どうしたわけか、怒りが滲んでいた。
常に美しい微笑みを浮かべていた、神の愛し子である自分たちの王女が、知らない間に……そう、人間らしい顔をするようになっている。
彼女はその表情のまま、自分たちに向かって口を開いた。
「何人か、ついていらっしゃい」
「え」
「アダルベラス王と会談をしましょう」




