56. サーリアの戦い
「姫さま! なぜ、このようなところに」
「危のうございます。どうぞ、我らの元に」
近くに寄ってきたエルフィ国民に目を留めると、王女は馬上から、彼らに首を横に振ってみせた。
「いいえ、私はあなた方が武器を棄てるまで、ここから動きません」
「あの、姫さま? 姫さまは、アダルベラス王城に拘束されていたのですよね?」
「拘束というほどでもありません。現にこうして抜け出してきました」
オルラーフの軍人は、サーリアがアダルベラス王城で酷い扱いを受けていると熱弁していた。それは嘘だったのだろうか。
アダルベラス王は極悪非道で、王妃であるオルラーフ王女は命からがら逃げだした。側室であるエルフィ王女も泣いて暮らしているのだと。
だからともに手を取り、アダルベラスを討とう。そうするための助力は惜しまない、と。
なのに、サーリアはそこに立って停戦を要求している。彼女は、抜け出してきた、と言った。戦の混乱に乗じたのだろうか。ならば完全に解放されたわけでもないのか。
いや。なんにせよ、王女がエルフィから略奪されたのは事実だ。
そして王女がいなくなってから、エルフィは干ばつに見舞われている。
「ではいい機会ではありませんか。このままアダルベラスを出ましょう」
「姫さま、エルフィにともに帰りましょう」
「皆、お待ちしておりますれば」
口々に請うエルフィ国民に向かって、サーリアは頭を下げた。
「姫さま?」
「今まで、なにもしてこなくてごめんなさい」
その謝罪に、人々は顔を見合わせた。
「けれど、私が必ずエルフィを取り戻します。だから、ここはオルラーフ軍とともに退いてちょうだい」
エルフィを取り戻す。王女が?
オルラーフ軍とともに退く。今さら?
どちらもひどく困難なことのように思えた。
それに、抜け出してきたというのなら、またアダルベラスがエルフィを侵攻するかもしれない。そしてまた略奪されるのかもしれない。
それなら今、オルラーフとともにアダルベラスを倒しておいたほうがいいのではないか。
「オルラーフは、姫さまをエルフィに返してくださると約束してくれました。そのためにはアダルベラスを討たねばなりません。オルラーフほどの大国ならばそれも可能です」
「私は、即時停戦を要求しているのです」
彼女はこちらを見て、きっぱりと断じる。
「私には、仮にオルラーフが勝ったとしても、彼らがおとなしくエルフィを解放するとは思えません」
「それは……」
確かにその可能性もあるだろう。甘言につられているだけなのかもしれない。
けれど干ばつに苦しむ今、『神に愛でられし乙女』を取り戻すことが急務なのではないだろうか。
「いずれにせよ、ここは危険です。オルラーフ軍の後方にお控えください。戦が終わったら、エルフィに帰りましょう」
「姫さま、我々は姫さまがエルフィにいてくだされば、それでいいのです。我々の望みはそれだけなのです」
その懇願に、サーリアは悲しげに眉を曇らせた。
エルフィ国民たちはその表情を見て思う。
今、自分たちは、彼女を酷く傷つけたのではないだろうか?
「今の私は、あなた方にはとてもみっともなく見えるでしょう」
「そんなことは」
「けれどどんなに無様でも、馬鹿げていても、それでも私は私の戦いをします」
サーリアはそう宣言すると、馬上で背筋を伸ばした。
「オルラーフ国王陛下はこちらに来ていますか?」
「い、いえ。将軍が率いているはずです」
「では、私はエルフィ女王として将軍閣下との会談を要求します。そう伝えてちょうだい」
「い、いや、姫さま」
「私は停戦要求が受け入れられるまで、ここを動きません。もし私がこの場で戦に巻き込まれ命を失うようなことがあれば、それこそ神の思し召しというものです」
彼らは顔を見合わせる。
彼女の下命に歯向かえるエルフィ国民など、ただの一人もいないのであった。
◇
「どいつもこいつも役に立たぬわ!」
そのうんざりする報告を聞かされた将軍は、忌々しげに地面に唾を吐いた。
退け、と? ここまで来て、そんなことができるわけがない。
この戦は、決して長引かせてはならない。短期決戦が必須だ。船で上陸したオルラーフ軍と、王都にほど近いアダルベラス軍では、補給や援軍のことを考えると、長引けば長引くほどにあちらが有利になる。
なのにあんな小娘一人の説得に時間を掛けるなどと、馬鹿馬鹿しすぎる。
会談だと? なぜそんなことをする必要がある。
将軍は前方を指し、声を上げた。
「ままよ。かの王女を射よ!」
「将軍、そんなことをしては」
側近の者が慌てて将軍を制するが、彼はそんな進言に耳を貸さなかった。
「殺さなくともいい。人質になってもらったほうがいいだろう」
「動きを止めて捕縛するということで?」
「そうだ」
もう面倒だ。『神に愛でられし乙女』の身柄がこちらにあればいい。
小娘は馬に乗っている。下手に彼女に抵抗されてもたついている間に、アダルベラスに動かれても困るのだ。
「射手に伝えよ。動きを止めればそれでいい。まったく、説得などと時間の無駄だった」
「しかしそんなやり方でエルフィ国民がおとなしく従うでしょうか」
「それでも歯向かう者は殺せ。一人殺せば他の者も皆動くであろうよ。そのあとですぐさま陣を整えて開戦だ。準備しておけ」
「はっ」
将軍のその冷酷な命に逆らう気にはなれず、側近の者が背後に控えていた腕の良い射手に命を伝える。下手に殺してもまずい。動きを止めるだけ。
命を受けた射手がすぐさま矢をつがえた。
それに気付いた、エルフィの者が声を上げる。
「姫さまになにを!」
わっと数人が射手に飛びかかろうと動く。しかしそれも間に合わない。
矢は美しくまっすぐに王女に向かって飛んでいく。エルフィ国民たちはそれを目で追うことしかできなかった。
◇
「陛下、援護せねば!」
うろたえた声でゲイツが叫んだ。
「月の君の保護を! 参ります!」
「待て!」
レーヴィスの返事も聞かず馬を走らせようとするゲイツを、鋭く制する。
「今は駄目だ。こちらが動けばオルラーフも動く」
そのまま開戦となるのは必至。そうなれば、もはや誰にも止められぬ。
戦場の真ん中にいるサーリアが無事に済むはずがない。
「しかし、このままでは!」
「黙れ。まだ兵は動かさない」
わかっている。このまま放っておいても危険であることは。
兵士の中には先走って駆け出そうとする者もいる。それを命じて止めさせた。
守らねばならない。が、動くに動けない。
歯軋りして彼女を見守ることしかできない自分が、歯痒かった。
「……ゲイツ、よく見て態勢を整えよ。開戦は、近い」
今なら、エルフィ国民を味方につけることができるのではないか。
オルラーフ軍の混乱に付け込み、一気に叩き潰す。その一瞬の緩みを決して見逃してはならない。
しかも、その混乱の中で彼女を保護する。それは途方もなく難解なことのように思えた。
「神に愛でられているということを信じるしかない……か」
それは、祈りにも似た思いだった。




