55. 停戦要求
予想以上にオルラーフ軍の進軍が早く、アダルベラス軍はそこに陣を敷かざるを得ない状況になってしまった。すでにオルラーフ軍が陣を敷き始めていたためだ。
王都からそう離れてはいない平原。できれば地理に詳しい分、そう見通しのよくない場所へ陣を敷きたかったのだが。
「エルフィで足止めできなかったのが痛いな」
そう零すとレーヴィスは額に手を当てた。
エルフィでの暴動が痛かった。兵士はもちろん、農民や女子どもに至るまで暴徒と化したというから質が悪い。
「しかし、あちらも船での上陸。軍も小規模なものに成らざるを得なかったでしょう」
将軍は、不機嫌な王にそう進言する。しかし王は肩をすくめて返した。
「だからエルフィの民を味方につけたのだろう。姫を返すという条件を出せばすぐさま乗ってくるからな」
「……そのようです。駐屯していた兵だけではとても収められるものではなく……」
恐縮する将軍を見て、ため息をつく。
結局、ここでも自分の甘さが出たのだ。統治は上手くいっている、と過信した。
今となっては、いったいなにが間違っていたのかわからない。どこからやり直せば、こんな結末を迎えずに済んでいたのだろうか。
城を守る最小限の兵は残してきた。しかしなぜここまで大量の兵を投入しなければならなかったか。結局それも、エルフィを攻め入ったときの痛手が未だにあるのだ。軍の再編は、十分とは言い難い。
敗戦。その二文字が彼の頭の中をよぎる。
もし負けるとしたら。最後に、サーリアと会えたことだけが救いだろうか。
あの口づけには、なにか意味があったのだろうか。あのとき、殺されるのかと思った。彼女に抱き締められたまま、首筋にでも剣が突き立つのではないかと。
そして、それでもいいと思った。けれど彼女はなにも持ってはいなかった。
もしかしたら、哀れと思ってくれたのかもしれない。
微笑みは得られなかったが、それだけで良しとしよう。最高の手向けだったではないか。
空を見上げる。重い灰色の雲が一面に広がっていた。
「どうせ、降りはしないのだろうな」
そう呟く。いや、もし今降ったとしても、開戦は避けられまい。
あるいはセレスは幸せ者なのかもしれない、と思う。現実をなにもかも棄てて、夢の世界に行ったのだ。
「さて、そろそろか」
レーヴィスは自分の馬の背に乗った。もうすでにお互いに臨戦態勢は整いつつある。
一触即発。一本の矢が飛んでくればそれだけで戦は開始される。
「所詮は烏合の衆よ、と笑い飛ばしたいところだが……『神に愛でられし乙女』の微笑を得られなかった私に、神は微笑むだろうか?」
「陛下……」
隣に騎乗する将軍が不安げにレーヴィスを見た。だから鼻で笑って返す。
「気にするな。戯言だ」
そのとき、にわかに陣がざわつき始めた。
開戦か、と思い前方を向いたレーヴィスの目に、敵側の陣と自軍の陣のちょうど真ん中辺りに、ひとつの騎影が飛び込んできたのが映った。
「……あれは」
その騎影は、オルラーフ軍の前方を一往復したあと、少し離れてそちらに馬首を向けて立ち止まった。
◇
歩兵が突如、ざわめき始めたことに、天幕内にいたオルラーフの将軍が眉をひそめた。
歩兵の大部分をエルフィ国民が占める。悪いが騎兵の楯になってもらう腹づもりである。彼らには最後まで従順に戦ってもらわなくてはならない。
「なにごとか?」
不審に思いながら天幕から出て前方を見れば、白い騎影が陣の前を走っていた。
「なんだ?」
白馬など、戦場ではほとんど見かけない。
その場に残された声が耳に入る。美しい、涼やかな風のような声。
「私は、アダルベラス王妃にしてエルフィ女王、サーリア! 即時停戦を要求する!」
「な……」
なんと馬鹿げたことを触れ散らかしているのか。
オルラーフの兵たちは戸惑うように顔を見合わせているだけだ。
だが、歩兵はすでに陣を崩そうとしている。
耳をそばだててみれば、ざわめく彼らが口々に声を上げているのが聞こえた。
「姫さま!」
「姫さまではございませんか!」
走り去る騎影を見たエルフィの民たちが叫んでいた。
彼らの視線の先にある騎影に、目を向ける。
女性が鞍上にいるのだろう。線が細いのが見て取れた。目をこらし、鞍上の人影をよく見てみれば、高いところで結っている銀の髪をなびかせている。
どう考えてもこの場には不釣合いな、美貌の女性だ。
一往復ほどしたあと、こちらの陣から少し離れていく。そして彼女はなにもせず、ただ馬首をこちらに向けて立っているだけだった。
では、あれが噂の『神に愛でられし乙女』というわけだ。噂通りの風貌。こんな離れたところからでも彼女の美貌は輝かんばかりだ。おそらく間違いないだろう。
なぜこんなところにいるのだろうかと首を捻る。彼女はアダルベラス王の側室として城にいるのではなかったか。
「なんにしろ」
まずい。もしあれが本当にエルフィ王女なら、エルフィ国民を動かせない。
彼女は戦を止めようとするかのごとく、そこに立ちはだかっているではないか。下手に開戦して流れ矢にでも当たろうものなら、歩兵は途端に邪魔なものになる。
見れば、彼女にひれ伏す歩兵まで現れている。
将軍は大きく舌打ちした。
まさかアダルベラスの戦略でもあるまい。彼女は王の子を身ごもっていると聞く。このままではアダルベラス側も動くことができない。
どうする?
あんな小娘一人に振り回されるなど、ごめんだ。そんなことで、こんないい機会を見逃す手はない。
セレスが正気を失いアダルベラスを出た以上、かの国とはなんの繋がりもない。そんな大義名分がある今、アダルベラスを叩き潰しておいて損はないのだ。それは激怒した王の命でもあった。
そして自分自身の立身出世のためにも、この戦には絶対に勝つ。停戦など論外だ。
捕縛しなければならない。この場で殺すことは簡単だが、それでは内部から崩れていく可能性がある。
「歩兵を向かわせろ。二、三人でいい。彼女を説得して連れて戻って来い、と」
命じられた兵士は、エルフィ国民の数人にそれを伝え彼女の元へ向かわせる。
了承した人々は、両手を上げサーリアの元へ歩み寄った。




