54. 戦場へ
「サーリアさま、おかえりなさいませ」
自室へ帰ると、ベスタが扉の外でヴィスティとともに彼女の帰りを待っていた。
「お会いできましたか?」
「ええ」
そう答えて頷くと、ベスタは小さく微笑んだ。
彼女には、サーリアには見えていない、いろいろなことが見えているのかもしれない、と思う。
ヴィスティはもう泣き止んでいて、泣き腫らした目でただじっとこちらを見つめていた。
「月の君。お父さまは……?」
「陛下は出陣なさったわ」
サーリアの返事にヴィスティは目を伏せる。そしてベスタのドレスの裾をぎゅっと掴んだ。
「さあ、サーリアさま、行きましょう。急いで避難しなくては」
「いいえ」
「え?」
サーリアの返答にベスタは言葉を失っている。
「誰か、軽装に着替えるから手伝ってちょうだい」
控えていた侍女にそう指示しながら、サーリアは入室する。その肩に慌てて手を掛けて、ベスタは彼女を引き止めた。
「ちょ……お待ちくださいませ!」
「なに?」
「どちらへ行かれるおつもりですかっ?」
「さあ、どこかしら? それは陛下にお訊きしなかったから」
でも追えるでしょう、とサーリアは呟く。
ベスタの顔から血の気が引いた。
「ご、ご冗談でしょう?」
「私は本気よ」
「サーリアさまは、懐妊しておられるのですよ!」
サーリアはその説得の言葉を聞くと、くすりと笑った。
「知っていてよ」
そう返しながら、ドレスを脱ぐ。
パメラが駆け寄ってきて、尋ねてきた。
「馬に乗られるのですか?」
「ええ」
「では乗馬服で? お腹を圧迫しないよう、大きめのものを探して参りましょうか」
「そうね、お願いするわ」
「かしこまりました」
パメラは一礼すると、部屋を飛び出していく。
その間ドレスを一人で脱いでいたが、顔を見合わせていた侍女たちが頷いて、一人、また一人と寄ってくる。
「軽食は必要でしょうか?」
「防寒具も用意いたしましょう」
「男性用ですけれど、新品がありましたわ。裾上げしてしまいましょう」
侍女たちと話し合いながら、用意を進める。
頭がついていかなかったのだろう、呆然とそれを眺めていたベスタが、我に返ったのか大声を上げた。
「あなたたち、なにをしているの! サーリアさまをお止めしなさい!」
ベスタの声にも、誰も手を休めることはなかった。そのことが嬉しくて、申し訳なくて、ありがたい。
「申し訳ございません。けれど、私どもは主人の命に従います」
「お咎めは覚悟の上にございます」
侍女たちが口々にそう宣言する。ベスタはこめかみに手を当て、眉根を寄せた。
「お咎めなどと……サーリアさまになにかあったら、そのような軽いものでは済みませんよ」
「承知しております」
「でも、賭けたいのです」
ベスタの説諭にも、誰も心を動かされはしなかった。
彼女は何度も首を横に振った。そして苦々しくも笑みを浮かべる。
「ああ、長くお仕えしておりますけれど、陛下の命に背いたのはこれが初めて」
「ベスタ」
着替え終えたサーリアは、ベスタの手を握った。
「感謝します。必ず、戻ってくるから」
「……必ず、ですよ。ああ、生きた心地が致しませんわ」
そう茶化すように話すと、天井を仰いだ。
その様子を黙って見ていたヴィスティが首を傾げて問うてくる。
「月の君……どちらに行かれるの?」
「殿下」
サーリアは屈んでヴィスティの目線に合わせて語り掛けた。
「私は、私の為すべきことをしに」
「……帰ってくるわよね?」
「ええ」
そう応えてから両腕を広げると、小さな身体をその中に収める。
「殿下が私を待っていてくださるのなら、私は必ず帰って参ります」
「……待っていてあげる。だから、お父さまを守って」
声を詰まらせながら請うその願いに応えるように、サーリアは彼女を強く抱き締めた。
◇
そのままサーリアは、厩舎へと向かった。
ベスタはヴィスティを連れて、そのあとをついていく。荷物を抱えたパメラも後ろからついてくるが、なにも発言しない。
城内は静かだ。女たちは部屋に閉じこもり、臣下の者も王宮で慌てふためいているのだろう。
兵士は皆出陣している。もちろん城を守る者もいるが、おそらく膨大な数の兵士を出兵させたと思われる。
「馬はまだ残っているかしら?」
「おそらく……でも、良い馬は出払っているかもしれません」
「そう」
さほど気にならないのか、サーリアはそれだけを答える。
ベスタは足を進めながら、次第に不安が大きくなっていくのを感じていた。
確かに彼女は以前、馬に乗れると話していた。だが、妊娠中の女性が馬に乗るだなんて聞いたことがない。
それよりなにより、ああは言ったものの……本当にこのままサーリアを戦場などに向かわせてもいいものだろうか?
いや、駄目に決まっている。決まっているけれど、彼女のやることを見守りたい気持ちが勝ったのだ。
侍女たちが言った。賭けたいのです、と。
この城内の様子を見る限り、政から遠のいている侍女たちにだって、楽な戦ではないことは感じ取れるのだ。
そして王宮から帰ってきたサーリアは、なにか覚悟を決めたような、期待を寄せてしまいそうな、そんな雰囲気を纏っていた。
だから自分たちは、もしかしたら『神に愛でられし乙女』ならば、と賭けたのだ。
厩舎にたどり着くと、サーリアはぐるっと中を歩きながら見回し、一頭の馬に目を止める。
「いい馬ね」
「え? それは……」
ベスタはサーリアの足を止めたところまで歩み寄ると、首を振った。
美しい白馬だ。
「駄目です。これは妃殿下の馬で、妃殿下以外に懐かなくて、誰も背に乗せないのですわ」
セレスは、この馬のそんなところを気に入っていた。だから覚えている。
「大丈夫よ、ね?」
サーリアは馬にそう話し掛ける。馬はそれに呼応するように、一声嘶いた。
ベスタは首を傾げつつ、厩舎番の者に鞍を準備するよう伝える。
厩舎番も同じことを説明して止めたが、サーリアはこの馬で、と言い張って聞かなかった。
しばらくして鞍の準備が整うと、サーリアは介助もなしにひらりとその背に飛び乗る。
振り落とされるのではないかと心配したが、馬は鞍上の主に従っていた。
「そんな……大人しく他人を乗せるなんて」
ベスタとともに、厩舎番の者もしばらく絶句してしまう。
「いい子よ。わかるわ」
そう事もなげに話すと、馬の首筋をぽんぽんと叩いた。
「では、参ります」
サーリアが手綱を引いて馬首を巡らしたのを見て、ベスタは慌てて声を上げる。
「サーリアさま!」
彼女がその声に振り向く。ベスタは不安を押し殺して、サーリアに声を掛ける。
「どうか、ご無事で」
「ベスタ、殿下を頼みます」
そう返すと、今度はヴィスティのほうへ向き直る。
そして少し屈んで腕を伸ばし、握った手のひらをヴィスティの前で開いた。
ヴィスティは手のひらの上にあったなにかを手に取る。
「これ……」
それは、白い羽根だった。
サーリアは小さく笑って語り掛ける。
「それは、天使の羽根なのです。お守りです。きっと殿下を守ってくれますわ」
「えっ」
「殿下の上に、神のご加護があらんことを」
そう続けて、微笑んだ。すべての者を魅了してやまない笑み。
ヴィスティは大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、こくん、と頷いた。
「サーリアさま、どうかお気を付けて。ご無理はなさらないように」
パメラもそう呼び掛ける。
サーリアはそれに応えて口元に弧を描いた。
「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に良かった」
パメラはその感謝の言葉に、涙ぐんだ。
そしてサーリアは厩舎番の開けた扉から、出て行ってしまったのだった。




