50. 開戦
夢と現実が混ざったようなけだるさで、サーリアは目を覚ます。
カーテンの向こうから射す光にようやく現実を認識した。
なにかしら。外が、騒がしい。
ゆっくりと身体を起こして、寝所の扉を開ける。
「いかがして?」
扉の外でそわそわとしている侍女に声を掛ける。彼女は慌てた様子で振り向いた。
「ああ、起こしてしまいましたか」
「いいのよ。なにか?」
「いえ……勘違いならいいのですけれど」
「……なに?」
言いあぐねている侍女に重ねて訊くと、侍女はようやく報告を始めた。
「あの……妃殿下のお姿が今朝方から見えないようなのですわ」
「まあ」
正気を失ってしまった彼女のことだ、どこか思いも寄らないところに迷い込んでいるのだろうと、サーリアは軽く考えた。
しかし、侍女は続ける。
「それが……オルラーフからやってきた侍女も全員見当たらないとか……衛兵も侍女もみんな眠りこけているって……」
「え……?」
「いえ、ちょっと混乱しているみたいで、確かなことはわからないんですけれど」
「なん……」
「大変!」
そのとき、部屋に転がるように入ってきた侍女がいた。息を切らして、真っ青な顔色をしている。
「なにごと?」
サーリアが問い掛けると、侍女は驚いたようにサーリアの顔を見上げた。
「あ、お目覚めでしたか……」
「これほど騒がしければね。なにごとなの? 妃殿下は見つかって?」
「ああ、妃殿下は……やはり城内のどちらにもいらっしゃらないようで……」
侍女はそこまでは口にしたが、それ以上は続けるのを躊躇っている。
ざわざわと、胸の中の不安が広がっていく。嫌な感覚だ。口の中が渇く。心の臓を、誰かが掴んでいるような。
「なに?」
「あの……」
考え込んで、中々口にしようとしない。多少苛つきを滲ませて、強く下知する。
「早く仰いなさい」
その命令を聞くと、侍女は覚悟を決めたように口を開いた。
「で……では、申し上げます。さきほど早馬が帰ってきたそうで」
「それで?」
早馬は、なにを持って帰ってきたのか。
「エルフィの港にオルラーフ軍のものと思われる船が乗り入れたって」
その報告に息を呑む。
エルフィ。どうしてその名が、この場面で出てくるのか。
「小さな港ですから、大型なものは沖に泊めて。そこから、小規模な船を幾艘も」
エルフィの港。遠浅で、大きな船を泊めることはできない港。漁師たちが使うだけの港。
平和な、港。
「それで……エルフィの者たちも同調するように、アダルベラスに向かっていると……」
オルラーフの船がエルフィに? エルフィ国民たちも同調?
オルラーフの狙いは、間違いなくアダルベラスの侵略だろう。
そしてエルフィの民たちは、それに乗って、サーリアを取り返そうとしている。
戦が、始まる。
サーリアは絶句したまま、その場に立ち尽くした。
侍女たちもなんと言っていいかわからないのか、顔を見合わせるだけだ。
オルラーフがわざわざエルフィを経由してきたのはなぜか。
エルフィ国民は戦をほとんど知らず、大きな戦力になるとは考えにくい。つまり、捨て駒に使うつもりだ。どこまでお膳立てされたかはわからないが、そそのかし、武器を与える。先の戦と干ばつで弱ったエルフィの民たちは、それに乗った。
『神に愛でられし乙女』を取り返すために。
人は、弱い。神という名にすがり、救いを求める。
こうなっては、サーリアにできることなどなにひとつないのに。
「サーリアさま」
そのとき、部屋に入ってくる者がある。もう懐かしいような気がする、顔。
「ベスタ! もう起きても大丈夫なの?」
サーリアがそう気遣うと、ベスタは目を細めて答えた。
「ええ、お陰様でもう大分いいのです。歩くことくらいは少し前からできておりましたし、それに、こんなときに寝てなどいられません」
「……そう、ね……」
「さあ、皆、必要な物だけ持ち出す準備をしてちょうだい」
ベスタがそう指示して手を叩く。しかし、侍女たちはすぐに動くことはできなかった。
「それは……城を棄てて避難する、ということですか?」
「いいえ、ありえないけれど、もしオルラーフ軍が城までやって来たとしても、篭城することになるでしょう。けれど万が一のことを考えて、サーリアさまには地下に潜んでいただきます。そこから城外へ脱出する道もございますから、サーリアさまだけでも」
侍女たちが緊急事態の勃発にざわめく。
しかしサーリアはベスタの最後の言葉に反応した。
「私……だけでも?」
「そうです」
ベスタは深く首肯する。
「地下道は王族の方しか通れない道ですけれども」
「お世継ぎを身ごもっているから……?」
「ええ」
「私が『神に愛でられし乙女』と呼ばれる者だから?」
次第に語気が荒くなってくるサーリアに、ベスタは眉を顰めた。
そして。
「もう嫌! もうこんなことはたくさん!」
急に大声を上げるサーリアに皆が身を堅くする。
「私のために何人犠牲になればいいの? なぜ私だけが生き残っているの?」
「サーリアさま……」
「皆、私を恨むといいわ。私の存在のせいで、戦が始まるの。私のせいで、皆の大事な人が殺されるわ!」
見回すと、侍女たちが怯えたように後ずさった。
だがサーリアは構わず言い連ねる。
「血の海を歩くのよ。そこかしこに大事な人の死体があるの。目の前で父親の首を斬られて、そしてそこにいる人たちは、それを喜んでいるの!」
口から笑い声が出てきた。
なんだろう。どうして自分は笑っているのだろう。もしかしたら、自分も狂い始めているのだろうか。
そうなのかもしれない。それなら楽になれるのに、とそう思った。




