47. 事の後
「ああ、セレスさま、お可哀想に」
正気を失って、どこか遠くを見つめたままのセレスの身体を抱き寄せて、ヒルダはその金の髪を、赤子をあやすように撫で続けた。
結局あのあと、セレスの宮の奥の間に二人して閉じ込められた。扉の前には衛兵が、ひと時たりとも離れずに見張っている。
このあとどうなるか。あの場ですぐさま殺されてもおかしくはなかった。だが軟禁されたということは、オルラーフとの関係性を考慮したと考えていいだろう。
アダルベラスは一枚岩ではない。人は金で動く。オルラーフの息のかかった貴族もいくらかはいる。そちらとの調整がつかない限り、手出しされることはない。
だがセレスはともかく、いずれ自分は処分されることになるだろう。
ヒルダはぎり、と奥歯を噛んだ。あんな男に、文字通り足蹴にされるなど。なんという屈辱。なんという恥辱。
どうしてセレスは、あんな男を愛してしまったのか。
「ヒルダ……」
セレスがヒルダを見上げてくる。
「は、はい」
呼び掛けられて思考を中断され、そちらに視線を移した。
セレスははらはらと涙を零し、ヒルダに身体を寄せてくる。
「わたくし本当は、お嫁になんて行きたくないの……。婚約者なんて勝手に決められて……酷い人だったらどうしましょう。本当は、アダルベラスになんて行きたくないの……わたくし、オルラーフに帰りたい」
そう零して、しくしくと泣き続ける。
これは……アダルベラスに嫁いできたとき、彼女が船の中で話していたことだ。
「大丈夫ですよ、姫さま」
「ヒルダ?」
「陛下が、この婚約は取りやめると仰られたのです」
「……お父さまが?」
「ええ、アダルベラス王はとても酷い人だから、大事な姫さまをやれないと仰ったのですわ」
「まあ、本当? お父さまはやっぱりわたくしの味方ね」
セレスはにっこりと微笑んだ。愛らしい笑みだ。
美しく気高い、オルラーフの誇りである第一王女。どうしてこんな目に遭わなければならなかったのか。
「ええ、もちろんですとも」
ヒルダは優しく語り掛ける。
セレスは安心したように息を吐くと、そのままヒルダの胸に顔を埋めて眠ってしまう。
「あんなに追い詰められておいでで……しかも、正気まで失われて……。なんて酷い仕打ちでしょう。ああ、姫さま、オルラーフに帰りましょう。私が陛下に口上させていただきます。アダルベラス王が姫さまにされた酷いこと、私が皆、訴えて差し上げます。だから、帰りましょう。オルラーフにいた頃、姫さまは本当にお幸せそうでしたもの。こんなところへ嫁いで来なければよかった。だから、帰りましょう。ね?」
しかし、セレスは二度と彼女に応えることはなかった。
◇
その夜、疲れ果てたような顔をして、レーヴィスがやってきた。
寝所に入ると、ベッドに倒れ込むように身体を埋める。
サーリアがベッドの端に腰掛けると、顔だけこちらに向けてきた。
「言い過ぎたな、すまない」
「いえ……」
彼がサーリアに話したことは正論で、なにひとつ言い返すことなどできなかった。
ただどうしても心の中から、自分のせいで、という思いが消えない。自分がいなければ、皆に訪れる不幸はなかったのではないか。……自分はいないほうがいいのではないのか、と。
「ありがとうございます」
「なんの礼だ?」
「その……。助けていただいて……」
するとレーヴィスは小さく笑った。
「珍しく殊勝だな。さすがに落ち込んだか?」
苦笑しながらそう返してくる。
彼は身体を起こすと、サーリアの隣に座った。そして肩を抱いてサーリアを引き寄せる。
「無事でよかった」
彼はサーリアの銀の髪を撫でてから、頭に口づけた。
反射的にぱっと顔を見上げると、急に動いたことに驚いたのか、レーヴィスは肩を抱いた手を離して、こちらを見返してきた。
「どうかしたか?」
「いえ……なんでも」
そう返事してサーリアが俯くと、今度は頭をぽんぽんと叩いてきた。それからまたベッドに横になる。
彼女に触れた手で、私に触れないで。
彼女を抱き寄せたその腕で、私を抱き締めないで。
自分の胸の中に湧き上がった思いが信じられない。なんだろう、これは。
そんな馬鹿な。そんなことがあるはずがない。よりにもよって。
サーリアはひとつ首を横に振ると、彼のほうに向き直った。
「あの、妃殿下はどうなるのですか」
「……おそらく、正気に戻ることはないだろう。ならば、そのままだ」
「そう……ですか」
「そなたが気にすることではない」
レーヴィスは幾分、肩の荷が降りたような表情をしていた。気が触れたのなら、殺さなくて済むからだろう。
きっと、正気を失ったことは永遠の秘事となる。オルラーフに知られなければそれでいい。彼女には、墓に入るまでこの後宮で生きてもらえればそれでいい。
それですべてが終わるはずだ。
ふいに起き上がると、レーヴィスが口を開いた。
「さて、帰るか」
「えっ」
そしてさっさと立ち上がって、それからこちらを振り返った。
なぜか手を伸ばしてしまっていて、慌ててそれを後ろに回す。
「どうした? 寂しいのか?」
からかうように顔を覗き込んで、楽しそうな声を出す。
「まさかっ」
慌ててそう否定すると、彼は肩をすくめた。
「ただ、さっきおいでになったばかりなのに、なにをしに来たのかと……」
言い訳がましくそう続けると、レーヴィスは少し考えて答えた。
「長居しないのは、今、王宮にはヴィスティがいて、放ってはおけないから」
「ああ」
それはそうだろう。しかしそれならば、わざわざこちらに来なくてもいいのではないか。ずっとヴィスティの傍にいてやればいい。
その疑問にも彼は答える。
「けれど単純に、無事な姿が見たかった」
「はあ……」
そんなことで? と首を傾げる。
そうしている間に、彼は軽く手を上げて背を向けた。
サーリアは立ち上がり、去っていく背中にすがりついた。
「うん?」
彼はこちらに向き直り、そして抱き締めてきた。
「やっぱり気にしているのか? そなたのせいではない」
そうして背中をぽんぽんと叩いてくる。
優しくしないで。私に優しくしてはいけない。
「私、陛下にお願いが」
腕の中から、レーヴィスを見上げて請う。
「なんだ?」
「もう一度、将軍に目通りを」
「……なぜ」
彼はサーリアの要望に眉をひそめる。
サーリアは頭をレーヴィスの肩につけて答えた。
最近、叔母からの手紙が来ない。それはなぜか。
「私、不安で……。エルフィの民が安寧に暮らしていることを、もう一度、彼の口から聞きたいのです」
「……そうか。そんなものかもしれないな。では、伝えておこう」
「ありがとうございます」
感謝を述べると、彼の背中に回した腕に力を込めた。
そう、商売女のやっていることと、なにが違うだろう?




