40. 理解者
「そのようなことはない」
サーリアの呵責をすぐさま否定した。
そして手を伸ばして、彼女の頭を自分の胸に埋めさせる。彼女は特に抵抗はしなかった。
彼女が崩れ落ちるような気がした。このまま放っておくと、壊れてしまうのではないか。
「大丈夫。大丈夫だ。そなたが悪いのではない」
そう言い聞かせると、彼女は手を伸ばしてレーヴィスの胸にすがりついてきた。
「私が先に口にすればよかった。狙いは私のはずなのに。以前だってそう。私が薔薇を手に取ればよかった」
サーリアの声が徐々に震えてくる。彼女はレーヴィスの胸に顔を押し付けて来た。
涙を誰にも見られないように。
「せめて、私も一緒に苦しめばよかった」
涙声でそう絞り出す。
レーヴィスの服の胸の辺りを掴んで、ぎゅっと握っている。その手が小刻みに震えていた。
「ベスタになにかあったら私も」
「そのようなことを言うな。それではベスタのしたことが、まるっきり無駄になる」
その返答に、少しの間動きを止めて、そしてまた顔を埋めて泣いた。
「誰が悪いのかといえば、それは私だ。そなたではない」
「でも……」
そうだと納得できないのだろう。彼女はただ声を殺して泣くだけだった。
侍女たちは決してこちらを振り向かないが、ときどき目頭を押さえているので、サーリアの悔恨の言葉は聞こえているのだろう。彼女のために見て見ぬふりをしている。
本当は、今すぐセレスの部屋に乗り込んで、斬ってしまいたい。感情が、やれ、と囁いている。
だが国王たるものが、そんな短絡的ではいけない。
『もっと落ち着かれませんと』
『ねえやはちゃあんと見てますよ? 殿下が良き王になれますように』
ベスタがそう諭したのだ。
先王の崩御の際も、ベスタが傍にいてくれた。急な即位で強がりながらも不安な気持ちを抱えたままの彼を、叱咤しながら見守っていてくれたのは、他ならぬベスタだった。
ベスタのいない人生など、想像もつかない。
「……申し訳ありません」
ふと、腕の中のサーリアが俯いたまま身体を起こす。なんとか涙が収まったのだろう。
そうしてまた、そろそろと膝を抱えて座り込む。
「手を……」
レーヴィスはサーリアの前に自分の左手を差し出した。
「え?」
サーリアは涙に濡れた顔を上げ、差し出された手を見つめて、首を傾げた。
「少しの間でいいから、手を握っていてくれないか」
落ち着かせようと彼女を抱き寄せたつもりが、どうやら自分自身を落ち着かせるためのもののようだった。腕の中の彼女がいなくなったとたん、不安に苛まれた。
もしベスタの身になにかあったら。
ヴィスティの苦しみがずっと続くことになったら。
これから先、サーリアを失ってしまったら。
その想像は、自分の身体を冷えさせていく。
だが、それもこれも、自分の失態のためなのだ。セレスの暴挙は、彼女を狂わせた己の失態なのだ。
魔性の者でもいい。なんだっていい。今、なぜかサーリアに触れて欲しかった。
彼女の腕が伸びてきて、そっと彼の手を握った。その白く細い指が、ぎこちなく力を込めてくる。
見れば、彼女は哀れむようにレーヴィスを見つめていた。
いつの間に、サーリアはそんな瞳を自分に向けるようになったのだろう。アダルベラスに来た頃はいつだって、レーヴィスに憎しみの瞳を向けていた彼女。
無理なことと知っていて、それでも彼女に今、微笑んで欲しかった。
見る者を幸せにするという、その微笑みを向けて欲しかった。
レーヴィスには未だかつて一度も向けられていない、その至高の微笑みを。
それがもし魂と引き換えだというのなら、それでも構わない。
なぜだか、そう思えた。
◇
侍女が一人、冷え込んできたため、毛布を持って二人の傍に寄ろうとしたが、二人の様子を見ると困ったように辺りを見回し、手近な椅子に毛布を置くと、そっとその場を離れた。
◇
窓の外がじんわりと明るくなっていき、部屋の中に差し込むその柔らかな陽の光が、サーリアを揺り起こす。
目を開けると、夜が明けたばかりであることがわかった。
なにか酷く怖い夢を見たような気がしたが、内容は覚えていなかった。
身体中のあちこちが痛い。床に座り込んだまま、いつの間にか眠ってしまったようだった。
もたれかかっていた肩からゆっくりと頭を起こす。
「おはよう」
ふいに声を掛けられ、慌てて振り向く。そこにレーヴィスの顔があった。
「……え?」
もしや、彼の肩にもたれたまま、眠っていたということか。
気付けば、いつの間にか二人で寄り添うように毛布にくるまっていたようだ。
「あ、申し訳ありません」
焦るサーリアの謝罪にレーヴィスは首を傾げる。
「なにを謝る?」
「その……もたれて眠ってしまって」
レーヴィスは苦笑して返してきた。
「なにを今さら。仮にも夫婦だというのに、そんなことを遠慮されても困るな」
しゃべりながら、掛けられた毛布をはがし、畳み始める。
「あ、私が」
慌てて手を差し出すとレーヴィスはいい、と彼女を制した。
「王といえども自分でできることはやれ、とベスタに厳しく躾けられたのでな」
サーリアはそれ以上なにも言えなくなり、ただ黙って彼を見つめる。
「ベスタが目を覚ましたら二人とも怒られてしまうな。懐妊中のそなたがこんなところで眠ってしまったのだから。生きた心地が致しません、と責められる。目に見えるようだ」
「そうですわね」
サーリアにも、その光景は目に浮かぶ。
そして昨日から閉ざされたままの寝所に目をやった。
すると、人の動く気配がしたかと思うと扉がゆっくりと開き、中から疲れ果てた顔をした医師が出て来た。
「陛下」
サーリアは慌ててレーヴィスを振り返る。彼も気付いていたのか、立ち上がり、医師の傍に歩み寄った。
サーリアもそのあとについて行く。
「どうだ」
レーヴィスがそう問うと、医師は大きく息を吐いて答えた。
「だいぶ、吐かせました。初期の対応が良かったのがなによりです。利尿作用のあるお茶を定期的に飲ませましょう。あとは効くかはわかりませんが、解毒剤を試しています」
寝所の中を覗くと、パメラが泣きながらベスタにお茶を飲ませたり、汗を拭いたりしていた。寝ずの番をしていたのだろう。
「一命は取り留めた、と申し上げていいとは思います。が、予断の許されない状況であることには変わりありませぬ。やれるだけのことはやりました。あとは、彼女の意思次第」
「そうか、では大丈夫だな。彼女は強い女性だ。きっと……」
その呟きは、誰に聞かせるものだったのだろう。
レーヴィスが医師に労いの言葉を掛けると、彼は頭を下げて部屋を出て行く。
そのあと彼は、扉の外にいる自分付きの侍女に声を掛けると、急ぎ指示した。
「内密に重臣会議を執り行う。召集しておけ。皆が集まったら私も行く」
「かしこまりました」
侍女は頭を垂れ、王宮に向かった。
それを見送るレーヴィスの背後から話し掛ける。
「陛下。いったいどうなさるおつもりですか」
「妃のことか」
「はい」
真摯なサーリアの視線を受け取ると、レーヴィスは自嘲的に笑い、顔を寄せてきて声をひそめて耳打ちしてきた。
「病死したことにして、殺しておくか」
「陛下!」
こんなときにそんなふざけた冗談を聞きたいわけではないのだ。
しかし、彼は別に軽口を叩いたわけではないようだった。
「可能だ」
「陛下……」
「オルラーフから連れてきた侍女から全員、流行り病で逝ってしまったと説明すればいい。なに、暗殺など簡単なことだ」
「……本気ですか」
サーリアが呆然として返すと、レーヴィスは肩をすくめた。
「そういう道もあるということだ。これからのことは今から話し合って決める」
「陛下、私は……」
もちろんサーリアにだって、重い罰を与えたいという気持ちはある。セレスはそれだけのことをしたのだ。
でもこれ以上、自分に関わった者の不幸を見届けたくもない。
だが、それを口にすることは憚られた。この状態では明らかに、独りよがりなわがままだ。
するとレーヴィスはこちらに手を伸ばしてきて、サーリアの頭の上に、ぽん、と手を置いた。
「わかった、考慮はする。だが期待はするな」
そのとき、サーリアは思う。もしや彼は、唯一の自分の理解者なのではないか。
……いや、そんなこと。
サーリアが目を伏せると、頭の上の手の感触が消えた。
王宮から帰ってきた侍女が、背後から声を掛けてくる。
「陛下。重臣方、すでに集まっておいででございました。急ぎ王宮にお戻りくださいませ」
頷いて応えて退室していこうとするが、ふと振り向いて、サーリアに向かって口を開いた。
「私はこの状況を許せるほど、寛容な心は持ち合わせていない」
そう告げた彼の瞳が怖くて、サーリアは身じろぎして声を掛ける。
「陛下、もちろん私も陛下と同じ気持ちですが、どうぞ落ち着きあそばして」
「わかっている」
そう返すと、彼は再び歩き出した。




