24. セレス
セレスがアダルベラスに嫁いできたとき、出迎えたレーヴィスはにこやかに話し掛けてきた。
「お待ちしておりました」
正直なところ、セレスは婚約者である彼のことをなにも知ってはいなかった。姿絵や彼直筆の手紙などが送られてきてはいたが、そんなもの、信頼に値するものではない。
姿絵は実物とはかけ離れているというのが常だし、誠実な人柄が滲み出ているような手紙だって彼自身で書いているとは限らない。
政略結婚なのだから、そんなことに期待するほうが馬鹿なのだ。自分はただ、オルラーフとアダルベラスの架け橋となるべく嫁ぐだけの駒だ。
わかってはいても、アダルベラスに向かう船の中で、セレスはずっと涙を零していた。
生まれた土地を離れて、見知らぬ場所で、見知らぬ男性と夫婦になる。これ以上の不幸があるかしら、と泣いて泣いて、アダルベラスに到着する頃にはすっかり目が腫れてしまっていた。
なんとか化粧で誤魔化して船から降りると、レーヴィスが待っていてくれたのだ。
驚いた。姿絵そのもの、いや、微笑みを浮かべているからか、それ以上だと思った。
「長の船旅は疲れたでしょう。馬車を用意しておりますから、そちらですぐに入城してしまいましょう。本当は、アダルベラスを紹介して回りたいのですが」
「え、ええ」
差し出された手を取り、馬車に向かう。
「同乗しても?」
紳士的に彼は訊いた。
「ええ、もちろん」
セレスの返事を聞くと、彼は先に馬車に乗り込み、そして手を軽く引っ張り上げてくれた。そして彼女の斜め前に腰掛ける。
「姿絵というものは、当てにはなりませんね」
「えっ」
目が腫れているからだろうか。それにしてもそんなことを言い出すとは。過剰に美しく描けとは絵師に命じていないし、送った姿絵はそこそこ実物に近いものだったと思う。けれど、彼の気に入る容姿ではなかったのだろうか。
蒼白になっていると、彼は目を細めた。
「ここまで美しい女性とは思っていなかった。私ほどの果報者はそうはいない」
「ま……まあ」
お世辞半分としても、なんという嬉しがらせを口にするのか。
「あ、あの、レーヴィスさまも……」
「私ですか? いえ、そんなはずは。絵師には、セレス姫に嫌われないように、と何度も言い含めましたので」
そう冗談を口にすると笑う。
夢のようだ。泣いて過ごした船旅が、ここまで無駄になってしまうとは。
これが恋というものなのだろうか。心臓が跳ねて仕方なくて、顔が熱くて困ってしまう。
アダルベラス王城に到着すると、すぐに後宮に通された。
用意された部屋は後宮の中でも一番広い部屋で、なにもかもが整っていた。
「一応、お好きなもので揃えたつもりなのですが」
手紙に書いた、何気ない一言を拾い続けてくれたのだろう。
華やかな部屋だった。薔薇色が好きだ、と書いたことがあるから、カーテンやベッドなどもその色で統一されている。
「素敵なお部屋で嬉しく思います」
弾んだ声でそう礼を述べると、彼は安心したように息を吐いた。
「それは良かった。今日はお疲れでしょう。もうお休みになられるといい。必要なものがあれば、順次用意させますから」
では、と彼は部屋を出て行こうとする。
寂しい、と思った。もっと彼と話をしたい。
「あのっ」
「え?」
「よろしければ、もう少し、お話をしませんこと?」
それだけの申し出なのに、心臓がどきどきと脈打った。断られてしまったらどうしよう、と心配になる。
するとレーヴィスはにっこりと笑みを浮かべて返してきた。
「私はもちろん、そうしたいと思っていました」
彼はとても優しい。いつだって、そうしてセレスを嬉しがらせた。
◇
嫁いで数日経った頃のことだったか。急に呼び出されて、王宮の中庭に向かった。
なにかしら、と思う。けれど不安はない。彼はセレスに対して、悪いことなどひとつたりともしない。
到着すると、彼は白馬とともにそこにいた。
「まあ! とても綺麗な馬ですわね」
本当に真っ白な馬だった。雪のように白く美しい。
セレスの賛辞を聞くと、レーヴィスは満足げに頷いた。
「あなたに」
「え?」
「後宮にずっといるのでは退屈でしょう。これに乗って好きなところに行っても構いませんよ。ただ、護衛の者はどうしても付けなければなりませんが」
「まあ……」
馬を眺める。すると馬は鼻先をセレスに寄せてきた。恐る恐る鼻筋を撫でると、嬉しそうに啼く。
その様子を見ていたレーヴィスは、はは、と声を上げて笑う。
「どうやら気に入られたようですね」
「そうかしら」
「ええ、そうですよ。馬も美しい人が好きなようだ」
「そんなこと」
その馬は、本当にセレスのことを気に入ったらしい。その後はセレス以外の誰も背に乗せなかった。手綱を引いて歩くくらいはするらしいが、主人と認めたのはセレスだけだった。
レーヴィスとは、その馬で遠乗りにもよく出掛けた。そう遠くには行けなかったが、近場で景色の良いところを選んでは連れて行ってくれた。
あるとき、馬を降りて湖のほとりを二人で並んで散歩していると、彼はセレスの顔をじっと見つめて訊いてきた。
「アダルベラスでの生活はどうですか?」
「ええ、とても良くしていただいております。それに」
「それに?」
「実は……本当は入国するまでは不安でしたけれど、とても良い国なのがわかりますもの」
そう付け加えると、彼は嬉しそうに口元に弧を描いた。
「セレス姫、これから私たちは婚姻の儀を迎えます」
「ええ」
「あなたにはアダルベラス王妃となっていただくわけだが」
セレスは首を傾げる。
王妃になる、当たり前ではないか。セレスはそのためにこの国に来たのだ。
「辛いこともあるだろうが、私を支えて欲しい。私はまだ若輩者で、国王となるにはまだ早かったのかもしれなかった。私には、あなたの支えが必要です」
「それは、もちろん。わたくしは陛下の妻になるためにやってきたのですもの。妻とは夫を支えるものですわ」
そう返して笑顔を向けると、彼は目を細めた。
彼の手が伸びてきて、セレスの頬に触れる。そして顔が近付いてきて、唇が重ねられた。
少しして、馬の嘶きが遠くに聞こえて唇が離れる。
「妬かれているのかもしれません、帰りましょうか」
笑みを浮かべてそう話す彼の顔を見て、頬が染まる。
そして歩き出して、どちらからともなく手を繋ぐ。
それは、夢のような時間で、セレスの大切な思い出だった。
◇
懐妊した、と診断されたとき、彼は一目散に後宮に飛び込んで来た。
「ありがとう、本当にありがとう」
何度も何度も礼を口にする。なんだかくすぐったかった。
レーヴィスは毎日のように後宮に足を運んでは、大きくなっていくお腹を撫でていく。
そんな彼を見るのが好きだった。そんな風にされるのが好きだった。
間違いなくあの頃が、幸せの絶頂だった。




