20. 夜に、棄て去る
こらえきれない涙と嗚咽。人前で涙など流してはいけない。いけないのに。
けれど、自分自身の意思とは裏腹に、瞳から零れ落ちる涙は留まることを知らない。
『王女たるもの、人前で涙など見せてはならぬ』
父はいつもそう諭してきた。だから、今までどんなに辛くとも歯を食いしばり、涙を誰にも見せずにいた。
でも。もう、いいのだ。なぜならサーリアは王女ではないのだ。もうエルフィはどこにもないのだ。
そう思ったときに、箍が外れた。わあわあと声を上げて泣いた。だだをこねる子どものように泣いた。
帰るところなどもうどこにもない。どこにも行けない。なにもできはしない。
神などいないのに、どうして愛でられるだなんて言えるのだろう? 自分は無力で、なにも守れなくて、愚かな一人の人間でしかない。
今まで抑え込んでいた感情が、涙とともに一気に溢れ出してきたような感覚がした。
いなくなってしまいたい。なにもかも棄ててしまいたい。……死んでしまいたい。
「悪かった」
そうレーヴィスの声がしたかと思うと、ふわりと抱き締められる感触がした。
「そう、泣くな。追い詰め過ぎた。私が悪かった」
なぜだろう。その腕の中は温かかった。なにもかも投げ出してしまいたいほどに。
サーリアはぎこちなく彼の背中に腕を回して、そしてしがみついて声を上げて哀哭する。
今まで寂しかったとそのとき気付いた。父親が娘にするように、誰かにこうして抱き締めて欲しかったのだ。
誰だっていい。それが、憎い男であっても。人肌を感じれば、悲しみは遠のいていくから。
「お父さま……お父さま……!」
どうしてなの? 私は逃げたくはなかった。一緒に考えて、一緒に戦いたかった。
私はいつでも、そこにいればいいのだ、と祀り上げられるだけの王女だった。微笑みを向けてくれるだけでいい、と望まれるだけの女だった。
なんて無力で、なんて愚かな存在だろう。美しいともてはやされて、『神に愛でられし乙女』と呼ばれて、それがいったい何になるというのか。
なにもできはしない。今、こうして、泣くことしか。
レーヴィスはただ黙ってサーリアを抱き締めて、そして時折、背中をぽんぽんと叩いた。それにひどく安心して、涙は次第に収まってきた。このまま人の温もりを感じていたい、と思う。
「どうしてですか?」
「え?」
「どうして……抱かないのですか?」
その問い掛けに、レーヴィスの身体が震えたのがわかった。
「私、なにも選べない。誰も私になにが起こっているのか教えてくれない。もしその親書を私が受け取っていたら、結果はどうあれ、私は自分で選べたのに……」
自分の知らないところで事が起きて、そして事が終わる。その中心にいるのは自分なのに。
「今となっては、自分の死すら選ぶことができない」
そう零すと身体を少し離して、レーヴィスの顔を見上げる。
彼は哀れむような目で、サーリアを見つめていた。
「あなたが言ったのに。お世継ぎを産みさえすれば、殺してやるって」
そうしたら解放される。すべての苦しみから。
今まで誰もがサーリアのことを神の愛し子として大切に扱ってきた。
違うのは、この男だけだ。彼にとってサーリアは、世継ぎを産むだけの女だ。
きっとこの世でサーリアに剣を向けられるのは、この男だけなのだ。
「なのにどうしてその選択すら私から奪うの? 私に傷があるから?」
「傷?」
「胸の……傷」
剣を突き刺したその場所を、寝衣の上から手で押さえる。自分自身で付けた醜い傷跡。それは彼女の胸に残ったままだ。なにかを忘れないためでもあるかのように、一生消えることはないだろう。
「それは違う」
少し慌てたように、彼は否定した。
「ではどうして?」
「それは……すまない、私自身の問題だ」
「その問題は、解決しますか?」
首を傾げてそう問うと、レーヴィスは困ったように眉尻を下げた。
なんだかおかしい。頭がぼうっとしている。もうなにも考えたくない。ただただ楽なほうへと流されたい。
「お願い」
なにもかも、棄て去ってしまいたい。
「私に、死を」
そう懇願すると、レーヴィスは強く彼女を抱き締めてきた。サーリアは瞳を閉じ、背中に回す手に力を込める。
もっと、身体が折れるほど、抱き締めて欲しい。
そう願い、そしてそれは叶えられたのだ。
◇
窓から差し込む陽の光に、眠りを妨げられる。
「朝……」
レーヴィスは腕をかざして、目に飛び込む朝の光を遮った。まだぼんやりとしたままの頭でふと横を見ると、サーリアはそこにいなかった。
そこで瞬時にしてはっきりと目が覚め、慌てて半身を起こす。
今まで女の部屋で熟睡することなどなかった。自分自身の失態に軽く舌打ちして、少女がいたはずのベッドを眺める。そこで眠っていたことも疑わしいほどに、シーツは綺麗に整えられていた。
昨夜、確かにこの腕でサーリアを抱いた。彼女は腕の中で微かに震えながらレーヴィスを受け入れたのだ。
ふと、枕元に置かれた自分の長剣が目に入った。
ぞっとする。どうしてここまで気を抜いてしまったのか。
レーヴィスは立ち上がると簡単に身支度を整え、隣室に向かう。
そこに彼女はいた。レーヴィスの気配に気付くと、座っていた椅子から立ち上がり、頭を下げる。
「おはようございます」
その瞳は妙に冷めていた。
「……おはよう」
レーヴィスはその様子に眉をひそめると、サーリアの向かいの椅子に腰掛ける。
彼女は少し首を傾げて尋ねてくる。
「朝食はこちらで?」
「いや、王室に用意されているだろう」
「そうですか」
今までとまったく変わらない遣り取り。昨夜抱いた女とは思えない。
彼の知る限り、一度抱けば女は必要以上に身体を寄せてくるものだった。
「使わなかったのだな」
そう口にすると、サーリアはこちらをじっと見つめてきた。
「使ったほうがよろしかったでしょうか」
「……いや」
まさか、情が湧いたなどということはないだろう。そうであれば、今、そんな冷ややかな瞳を向けはしない。
つまり昨晩のことは、彼女にとって、契約の一環でしかなかったということだ。
◇
部屋を出て行く男の背中を見送って、昨夜のことを思い返す。
無防備に眠る男にどうして剣を突き立てなかったのか。そんな風に殺されることを哀れに思ったのか。
違う。サーリアはただ、自分の手を汚したくなかったのだ。
自分の手で人を殺してしまうことが、怖くて仕方なかっただけなのだ。
それだけなのだ。それ以外にはないはずなのだ。




