11. 月の君
ある日ふと、その音はサーリアの耳に飛び込んできた。
「今、子どもの泣き声がしなかったかしら」
侍女たちに向かってそう問うと、彼女らは顔を見合わせた。そしておずおずと口を開く。
「サーリアさまにも聞こえましたか?」
「も?」
話をよくよく聞いてみれば、彼女たちも何度か聞いたことがあるという。
しかし、ここは後宮。妃たちの外界との接触を懸念するためか、警備も厳重。サーリアのいる宮に迷い子が入りこもうはずもない。
「もしや物の怪の類ではないかと思いまして。サーリアさまのお耳を汚すこともないかと」
「物の怪?」
サーリアは首を傾げる。しかし、はっきりとこの耳で聞いたのだ。あの泣き声が物の怪だとはどうしても思えなかった。
「いいわ、見て参ります」
「えっ!」
すく、と立ち上がったサーリアを見て、侍女たちはあわあわと狼狽し始めた。
「危のうございます! もし本当に物の怪の類でありましたら」
「お止めになられたほうがいいのでは」
侍女たちはサーリアを引き留めようと、口々に諫めてくる。
アダルベラス国民は、そういったものを信じているのだろうか。エルフィでは神や天使という存在はあっても、物の怪というものはそこまで信じられてはいなかった。むしろ、魔王や悪魔といったものが怖がられていたものだ。
「大丈夫よ。本当に子どもが迷い込んだのかもしれないし」
「でも……」
サーリアが部屋を出て行くのを最後まで侍女たちは渋っていたが、さっさと歩き出すことにする。
ちょっと散歩するにも必ず付いてくる侍女たちもその探検は遠慮したいようで、追いかけてくる者はいなかった。
◇
ひとまず、中庭のほうへ歩を進めた。部屋の中で聞こえた声の方角を振り返って確認しながら、少しずつ歩いていく。
何度か散歩に出たことのある中庭ではあったが、完全に把握しているわけでもない。大国アダルベラスの後宮なだけあって、広い。
それでも泣き声のした方向へ、ゆっくりと進んでいく。
「……聞こえた」
いくらかうろついていると、今度ははっきりと女の子の泣き声がした。
猫の鳴き声が赤子の泣き声に聞こえることもあるというから、それではないかとも疑っていたのだが、いくらか成長した少女の声のようだ。年の頃は五、六歳か。
歩を進めるにつれ、泣き声が大きくなる。池の手前にある茂みの辺りから聞こえてくる。
サーリアはそっとその茂みを覗き込んだ。
するとそこに、やはり思った通り、五、六歳の少女がうずくまって泣いていたのだ。
「いかがして?」
サーリアが小さく掛けたその声に、びくりと反応すると、少女はぴたりと泣き止み、慌てたように涙をぬぐい振り向いた。
そしてなにか言おうとした口を開いたまま、サーリアを見つめて唖然としていた。
「驚かせまして?」
「驚きましたわ」
幼い少女が大人びた口調で答えるものだから、サーリアの微笑みを誘う。
「そちらに行ってもよろしくて?」
少女は返事の代わりに頷く。
サーリアは黙って歩み寄ると、少女の隣に腰を下ろした。
「あの……」
しばらくして、少女がおずおずと話し掛けてくる。
「あなた、月の君ね?」
「月の君?」
「皆、そう呼んでいるわ。お父さまの側室でしょう?」
「お父さま……ああ」
ということは、この少女が王女殿下というわけだ。
よく見れば、レーヴィスに面差しがよく似ていた。アダルベラス国民特有の栗色の髪と濃緑の瞳。父親のものより幾分明るめの色なのは、母親から譲り受けたのか。目鼻立ちがはっきりとしていて、大人になればさぞ美しい王女になるだろうと思われた。
「私が月の君と呼ばれているとは存じませんでしたわ」
「お母さまは陽の君と呼ばれているの」
「そうでしたの」
二人の妃を、人々はそう称していた。
陽の光のように華やかな、陽の君。
月の光のように冴え冴えとした、月の君。
二人の妃は対照的でもあったのだ。
「よく私が月の君と呼ばれている者だとおわかりになりましたね」
「見ればわかるわ。本当にお美しいのね。……羨ましい」
そう呟くと、膝を抱えて黙り込む。
素直にそう言葉にしてしまうところに、育ちの良さを感じる。
「羨ましいなどと。殿下はとてもお可愛らしい方ですのに」
サーリアがそう褒めると、ぱっと少女は顔を上げた。
「本当?」
「もちろん」
サーリアが深く首肯すると、少女は花が零れるように笑顔になった。
口調は実際の年齢よりも大人びているが、笑うと幼さが溢れ出て可愛らしい。王女という立場上、周りが大人ばかりでそうなってしまったのだろう。
けれど少女は、すぐに目を伏せてしまった。
「嘘よ。私が王女だから、気を使ってくれているだけだわ」
「まあ、私が殿下を謀っているとでも?」
「そういうわけでもないけれど……」
そして再び黙り込んでしまう。
サーリアは俯く少女を覗き込むようにして、語り掛けてみた。
「私でよければ、お話を聞くくらいならできましてよ?」
「……だめ。月の君はお母さまの敵だもの」
「敵……」
こんな幼い少女がそんな単語を口から出すものだから、しばらく二の句を継げなかった。
「……お気を悪くされて?」
「いいえ?」
心配げにサーリアの表情を窺う少女に、笑顔で答えた。
「では私は失礼いたしますわ。お邪魔して申し訳ありません」
そう打ち切ると、立ち上がる。話も聞いてやれないのでは、一人にしておいたほうがいいのではないかと思ったのだ。
サーリアがくるりと背を向けると、少女は、あ、と声を出した。その声に振り返る。
「ドレスが」
「ああ、少し汚れてしまいましたわね」
そう返して、ぱんぱんと叩く。それでいくらかは草や土が落ちた。あとは洗わなければならないだろうが、気にするほどでもない。
「お母さまは」
ふと、少女が話し始める。
「お母さまは決して、こんなところに座ったりしないわ」
「私は田舎の生まれなものですから」
サーリアの返事に、少女は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「違うの。違うのよ」
そう否定して、またその瞳に涙を溜めたかと思うと、ぼろぼろと零し始めた。
「まあ」
サーリアは慌てて早足で近くに寄り、しゃがみ込んでドレスの袖口でその涙を拭ってやる。
「王女たるもの、人前で涙を見せてはなりませんわ」
何度となく自分自身が諫められてきたことを、少女に聞かせる。まさか誰かに向かって言う日がくるとは思ってもみなかった。不思議で温かな感覚が、胸の中に広がっていく。
少女は素直にサーリアの袖口で涙を拭き、しゃくり上げながら言い返してきた。
「だから隠れていたのよ。ここは私の秘密の場所だったのに」
サーリアの使っている部屋は、側室のいない王には必要のない部屋だったのだ。その空き部屋の裏手の中庭。そこは王女の秘密基地のようなものだったのだろう。
王妃にも王にも侍女たちにも気付かれない場所で、彼女は一人、泣いていたのだ。
「それは失礼いたしました」
サーリアが側室として迎え入れられなければ、ここで泣いていることも誰にも知られずにすんだのかもしれない。
「では、私はこれで」
再び立ち上がり、背を向ける。
「待って」
その背中を少女が呼び止めた。
「……誰にも、言わない?」
上目遣いでそう問う少女にサーリアは笑みを返す。
「もちろん」
了承したサーリアを見て、少女はほっとしたように息を吐いた。
「そのドレスに免じて、話して差し上げるわ」
少し口を尖らせて、聞きようによっては生意気とも取られない発言をする。
しかし、なぜか微笑ましかった。
「はい。では、ありがたく」
そして再びサーリアは少女の隣に腰掛けたのだった。