10. 長い夜
「さて、姫には側室となっていただくわけだが」
「……はい」
「いくらアダルベラスについて学んでも、我が妃のことまではわかるまい?」
「それは、そうですが」
いったいなにを話すつもりなのだろう。
首を傾げるサーリアに、レーヴィスは淡々と続けた。
「後のためにも知っておいたほうがいいだろう。オルラーフという国は知っているか?」
「もちろん」
エルフィにある小さな港などには入り込めない大きな船を持つ国。アダルベラスと並んで称される、海の向こうの大国。薬学が発達していることで有名だ。
「我が妃は、そのオルラーフの第一王女だった。無駄な争いを避けるため、王族同士で婚姻関係を結ぶ。まあ、よくある話だ。彼女もそなたに負けず劣らず、美しい女だよ」
言葉とは裏腹に、その声には彼女を賞賛するような響きはなかった。
それに、なぜ、と口を挟む気は起きなかったが。
「嫁いですぐに懐妊。世継ぎの王子を、と期待されていたが、残念ながら姫だった」
「王女では世継ぎにはなれないのですか?」
「エルフィには過去、女王もいたな。しかし我が国では王女に王位継承権はない。例外も許されない」
「そう、ですか」
そう言われてみれば、アダルベラス王の系図には女はまったくいなかったような覚えがある。
「別に王女がいたところで問題はない。とにかく王子が産まれればいい。しかし我が妃は、最初の出産で子どもが望めない身体になった」
その話を聞いて、彼女に少し同情の念を抱く。まだ見たこともない女性。しかしあまりにもそれは辛いことではなかったか。
「それでもまだいい。側室が王子を産めば。そなたに王子を産んでもらいたいのは、そういうわけだ。しかし妃は側室を許さなかった。そのうち私の周りの侍女にまで口出しするようになってしまって」
そこまで話すと、大きくため息をつく。
「そなたを側室に迎えるのに、なかなか首を縦に振らなくてな。無視しても構わないが、後ろ盾が強すぎる。なにしろオルラーフそのものが後ろ盾だ。できれば穏便に済ませたい。それで説得してようやく今日、了承を得た。だから遅くなってしまったのだ」
少しばかり呆れたような口調でレーヴィスは言い募った。
「なぜ」
「ん?」
「なぜ、私なのですか」
理由を知るのは恐ろしくもあったが、訊いた。いつかは知らなければならないこと。
レーヴィスはしばらく黙り込んでから、口を開く。
「人は、弱い」
「え?」
「だからだ」
いくら待っても次の言葉はなかった。サーリアは重ねて問う。
「それだけですか?」
「それだけだ。前に与えた課題だろう? そう簡単に答えを教えてはやれない」
サーリアはもう一度開きかけた口を、閉じた。知りたいという気持ちと、知りたくないという心が交錯する。
そんな気持ちを知ってか知らずか、彼は話題を変えた。
「エルフィでは金脈が見つかったとか」
金脈。サーリアの知る限り、それはエルフィでは一箇所しかない。
「ずいぶん前の話です」
「そう。そなたが生まれたその年だ」
エルフィの王都からは遠いその川で、ある日、砂金が発見された。上流には金脈があった。
弱小国であるエルフィが、大きな資金源を得た瞬間であった。
「まさか、その金脈が欲しかったわけではないのでしょう?」
「ま、あるに越したことはないが」
アダルベラスほどの大国が、小さな金脈欲しさに兵を動かすだろうか。その可能性は低いように思われる。
隣国とはいえ、アダルベラスの王都からエルフィまでは、兵を率いてやってくるには数日掛かる。それには十分な糧食やまとまった資金が必要とされるだろう。
特にエルフィとアダルベラスの間には、『神の谷』がある。楽に越えられる峡谷ではない。
仮に大勝を収めると仮定していたとしても、まったくの無傷ではいられないことはわかっているはずだ。
そうまでしてエルフィの金脈を欲しがるだろうか。エルフィにとっては大きな資金源であっても、アダルベラスにとっては取るに足らないもののはずだ。
「姫」
考え込んでしまったサーリアの手に、レーヴィスのそれが重ねられた。
思わず、びくりと震える。
「考えごとなら私のいないところでしていただきたい。仮にも夫婦になるのだから、もっと語り合おうじゃないか。あるいは、触れ合うか」
そしてレーヴィスは、こちらをじっと見つめてきた。サーリアは慌てて目を伏せる。
見つめられるのが、なぜか怖かったのだ。
彼は握った手をそのまま唇に寄せ、触れさせる。そこだけが熱を持ったように、熱くなった。
彼が半身を起こし、サーリアを抱き寄せる。それから頤に手を掛け、そして深く口づけた。
これは、儀式なのだわ。
サーリアは瞳を閉じ、そう思った。銀の髪をまさぐる大きな手も、重ねられた唇も。
すべては、儀式。あるいは契約。
肩を抱かれ、優しくベッドに横たえられる。サーリアはゆっくりと瞳を開けた。
そこに、彼女を見つめる男の顔があった。栗色の前髪が下りてきていて、濃緑の瞳が彼女を見つめている。いつも憎まれ口を叩いている男とは別人かと思うほど、黙っていれば、端正な顔立ちは美しかった。
サーリアは覚悟を決め、瞳を再び閉じる。
しかし、いつまでたってもレーヴィスが動く気配はなかった。
「今宵は」
ふいに彼が零した。サーリアは、その言葉に閉じていた瞳を開く。
「やめておこう」
短く声を掛けてきて身体を離し、また片肘をついて横たわる。
サーリアも再び半身を起こした。
「私がお気に召しませんでしたか?」
「いや、違う」
「そうですか」
サーリアはそれ以上、深くは尋ねなかった。レーヴィスもそれ以上は口を開くことなく、なにやら思案している様子だ。
どうやら未知の行為には及ばないらしく、覚悟を決めていたとはいえ、安堵の息が漏れる。
とはいえ、ここからどうしたらいいのだろう。こんなにすぐに寝所を出て行ってしまっては、お互い不名誉な噂が立つのではないだろうか。
「今宵はいかがなさいますか?」
悲しいかな、主導権はレーヴィスにある。従うしかない。
「ああ……。王室に帰るわけにもいかないな。朝までここで過ごそう」
「かしこまりました」
その彼の選択が良いことか悪いことかはわからないが、彼女は軽く頭を下げて応じた。
◇
ひどく長い一夜だったような気がする。
お互い何度寝返りをうったかわからない。明かりが消された真っ暗な部屋で、互いの息遣いだけが聞こえていた。
ときたま、レーヴィスに声を掛けられた。
「寝たか?」
だからサーリアは答えた。
「いいえ」
しばらくの沈黙のあと、彼が答える。
「そうか」
一晩中、その繰り返し。
彼にとっては、いつ寝首を掻かれるかわかったものではない状況だ。だからサーリアが起きている間は眠れないのだ。
結局、一睡もすることなく、レーヴィスは寝所を出て行った。
「サーリアさま。具合がよろしくないようですから、寝所に戻られてはいかがでしょう」
今日何度目かの欠伸をしたときに、パメラが心配そうな顔をしてそう声を掛けてきた。
サーリアは読んでいたつもりの書物を机上に置く。
「そうね。そうするわ」
「はい、どうぞごゆっくり」
見れば、他に控えていた侍女たちは、顔を見合わせてくすくすと笑っている。
どうも誤解されているような気もする。けれどそれはありがたい誤解だと思われたので、甘えて、退がらせてもらうことにしたのだった。