1. 神に愛でられし乙女
見よ。
大空に三人の天使が舞い、歌う。
『何人もかの乙女に手を触れてはならぬと神は言われた』
『集え、歌え、祝福せよ。神に愛でられし乙女がこの世に生誕したことを』
『我らのこの白い翼に忠誠を誓え。かの乙女を傷つける者には天誅を』
全知全能の神とともに、かの乙女を敬わんことを。
◇
「姫さま、姫さま」
「姫さま、起きてくださいまし。一大事にございます」
密やかな声。でもその声は切羽詰った響きを持っていて、無理矢理にサーリアを揺り起こす。
ゆっくりと目を開けると、暗がりの中で手燭も持たずに侍女が彼女を覗き込んでいた。その背後では別の侍女が外を窺っている。
カーテンの隙間から薄く月明かりが差し込んでいることからも、朝になったというわけではなさそうだ。
サーリアはベッドからゆっくりと半身を起こす。どうやらただごとではないことは、二人の様子から窺い知れた。侍女たちに倣って小さく声を発する。
「……なにかあって?」
「どうぞ……どうぞ落ち着かれて聞いてくださいまし、姫さま。ああ、なんてこと」
侍女はきょろきょろと辺りを見回しながら、そう言い聞かせてくる。何度も「なんてこと」と繰り返していて、いつも平静を保っている彼女らしくないのは一目瞭然だ。
いったいなにが起こっているのか。「聞いてください」と言ったのに、彼女たちはなかなか次の言葉を口にしない。
「寝起きだけれど私は落ち着いているわ。落ち着くのはそちらよ。いったいどうしたというの」
痺れを切らしてそう問うと、侍女ははっとしたように自分の胸を押さえ、それから二、三度深呼吸してから、そっと言葉を舌に乗せた。
「よろしいですか、姫さま。夜襲にございます。アダルベラス兵が城へ攻めてきたのです」
「……なんの冗談なの」
実はまだ寝ぼけているのだろうかと、目を擦る。けれどもやはりそこは自室で、目の前で慌てているのは自分の侍女たちだ。
「冗談などではございません。奴ら、姫さまを攫いに来たのでございます。さあ、早くお隠れあそばして」
手を引かれて起き上がる。しかし未だ状況が把握できてはいなかった。
アダルベラス。サーリアが王女であるこのエルフィの隣国。アダルベラスに比べればエルフィなど、村といっても遜色ないほどの規模の国だ。
彼らが夜襲? あまりにも突拍子もない話で現実感がやってこない。こんな小さな国を手に入れたところで、彼らにいったいなんの得があるというのか。
それとも、まだ夢を見ているのだろうか。
「さあ、こちらに」
侍女たちは警戒しながらサーリアの手を引き、足音をしのばせつつも早足で歩く。
サーリアの寝室の奥、隠し扉。その向こうには隠し部屋がある。
しかしそこを本来の役割で使ったことなどなかった。幼い頃からそこは、かくれんぼのときの隠れ場所だったり、秘密の宝物を置いておいたりするところだった。
侍女がカーテンの陰にある取っ手のない小さな扉を、指先で引っ掛けるようにして開ける。中は真っ暗闇だから手探りで前に進むしかない。三人ともが隠し部屋の中に身を滑らせると、最後に入ってきた侍女がそうっと扉を閉めた。光はもちろんのこと、音すらも遮断されたような空間ができあがる。
二人の侍女はサーリアの身体を後ろに隠すようにしゃがみ込む。そしてごそごそとなにやら探っているようだった。
ようやく慣れてきた目で見てみると、片手に短剣を握り締めていて、その手が小刻みに震えていた。
そこまで来て、ようやくこれが冗談などではないことを理解する。
「……アダルベラスが攻め入ってきたと言ったわね?」
背後からそう囁くと、二人はビクリと身体を震わせてからサーリアのほうを振り向いて頷く。
「ええ、ええ、さようでございます」
「私を攫いに?」
「おそらく。姫さまの姿を探しているようだと報告がありましたの」
「きっと、『神に愛でられし乙女』である姫さまの力を欲しているのですわ。なんて不信心な輩でしょう」
興奮してうわずりそうな声を、理性で必死に押さえつけているように思えた。
確かに、サーリアは『神に愛でられし乙女』として、エルフィでは敬われている。
しかし。
「そんな世迷いごとを信じて攻め入るなんてこと……」
サーリア自身は、『神に愛でられし乙女』などという大層な名で呼ばれることが好きではなかった。
自分はその名にふさわしいほどの大人物ではないし、何の能力もない。
「世迷いごとだなんて」
そう侍女たちは否定するが、それが真実であれ迷信であれ、アダルベラスがそんなものを欲しているとは思えなかった。
いや、欲していたとしても。夜襲などというやり方で手に入れようとするものだろうか。方法なら他にいくらでもある。政からは遠のいているサーリアでさえ、たとえば輿入れ、と思いつくことができる。
では、手に入れようとしているものはなにか。国そのもの、と考えるのが本来ならば自然なのだろうが、それも納得しかねる話だ。
アダルベラスとエルフィの間には、『神の谷』と呼ばれる峡谷がある。そこを通り抜けようとするならば、騎兵は邪魔だ。旅人や商人たちの小隊ならばともかく、軍を率いてあの谷を抜けるのは困難。
では海側から、といってもエルフィの海は遠浅で大きな船を泊めるのは難しく、さらには潮の流れが特徴的で、沖のほうはエルフィの漁師でもないと潮を読みきれない。
そんな危険を冒してまで手に入れたいと欲するほど、大した資源も土地もない。豊かな自然にだけ恵まれた小国。ささやかに慎ましく平和な国。それがエルフィだった。
そこまで逡巡して、はっとする。
「お父さまはっ?」
思わず声が大きくなった。「しっ」と二人の侍女が同時に口元に人差し指を当てる。
「陛下は玉座の間におられるかと。皆はお止めしたようですが……」
「そんな……!」
アダルベラスの真意は未だ見えないが、国を欲するのならば、国王の首を持って帰るつもりなのは間違いない。
「行かなくては」
サーリアは立ち上がる。侍女たちは信じられないものを見る目付きで、サーリアを見上げていた。
「私、お父さまの元に参ります」
「な、なりませぬ!」
「姫さまはこちらで!」
二人は、立ち上がったサーリアの腰の辺りを抱くようにすがりつく。
「これは王命にございます。姫さまは落ち着くまで隠れているようにと、陛下が」
「どうか姫さま、お静まりください」
「いいえ」
もしも仮に、本当にアダルベラスがサーリアを欲しているとしたら。
王の首を獲ったあと、城中をくまなく探して王女を手に入れるだろう。ここに隠れていても同じことだ。むしろ犠牲が増えるだけのこと。
すがりつく侍女たちの手をそっと握って、自分から放させる。彼女たちも心のどこかで迷いがあるのだろう、激しく抵抗はしてこなかった。
サーリアは狭い隠し部屋の壁を暗がりの中で見つめた。薄い切れ目を手探りで捜し当て、ゆっくりと押す。この扉を開けるには多少のコツがいるのだ。
ここに、玉座の間まで通じる通路がある。これは王族しか知らない通路。
サーリアは二人の侍女たちの制止の声も聞かず、その隠し扉をくぐった。