三章 ~日昇る場所で~
エイジア連合に所属する各国の首脳が一同に集まり、壇上に立つ一人の男の演説に聞き入っている。表面上はその男の演説に聞き入っているようであるが、それでも彼らは主権を持った国々の代表で、その笑顔の下には腹に収めた感情が渦巻いている。
「地球が再生されようとしている今、我々はガルメシア共和国の横暴をこれ以上許してはならない。煙突は世界平和の象徴であり、それをガルメシア共和国がその権利を独占する事は到底我々エイジア連合としては見過ごすわけにはいかない! 我々は今まで以上にガルメシア共和国に対して圧力を強めて行かなければならない!」
壇上の男はそう言葉を締めくくる。その後、各国の代表はその男に対して大きな拍手を送る。
「では、一旦ここで本会議を中断します。再開は明日の……」
議長がそう締めくくると、議会に参加していた各国の代表は本会議場を後にして、それぞれがそれぞれの目的に向かって各国にコンタクトを取ろうとロビー活動を開始する。実際の所は本会議が始まる前にはこのロビー活動で総てが決まっているのは今も昔も変わってはいない。そんな姿を横目でチラリと見ながら壇上で演説していた男は足早に本会議場を去る。
本会議場を出た所で黒塗りの電気自動車が待ち構えており、その前に一人の男が待ち構えていた。
「お疲れ様でした春日首相」
そう言って春日に声を掛ける男。
「ああ、本当に疲れるよ」
車のシートに深く腰掛け、春日はそう言って小さなため息を吐く。そして、思い出したように話しかける。
「氷上君」
そう声を掛けられた男、黒髪に銀縁の眼鏡を掛け、感情を押し殺したような顔の男、氷上 将人は振り向き春日の方を見る。
「はいなんでしょう?」
「こっちのロビー活動は順調にいっているのか?」
「はい、今の所何とか過半数はこちらが占めていますが、やはり中華共和国が対抗しようと躍起になっています。今後の動向には気を付けなければならないでしょう」
やはりか、そう思い春日はその相手である中華共和国の事を考える。昔からの対立は大災害以降も続いており、今も全く変わってはいない。
「しかし首相。ほんとうにガルメシア共和国に対して制裁を行う事が可能でしょうか?」
氷上の言葉に春日は考え込む。煙突自体は煙突公社が前面に出ている以上本来は何処の国にも属さないような形になってはいるが、それでも事実上、煙突とその周辺の軌道エレベーターは実質ガルメシア共和国が独占しているような状態だ。
さらに軌道エレベーターをほぼ独占している事もあり、宇宙開発はガルメシアと太陽系船団の【ジュピトリス】のみが独占している状態だ。そのせいでガルメシアの衛星群はエイジア上空で監視するように配置されており、何か軍事行動を起こそうものなら衛星軌道上からの攻撃で直ぐに潰されてしまう。それが解っている以上、軍事的にはガルメシア共和国に対して手も足も出ないような状態。ゆえに経済制裁以外エイジアが取れる様な手段は無い。しかし、その経済制裁もエイジアが取れる物と言えばほとんどない。唯一貴金属や希土類の輸出に制限を掛ける位だが、それさえも南アフリカをその配下に加えているガルメシア共和国にはそれ程影響はないだろう。
そんな中で、有効な経済的な制裁を加える事は殆ど不可能と言わざるをえない。それに、もしそんな事をすれば、煙突公社が行っているエイジア連合の空気分離を止めてしまわれかねない。そうなればエイジア連合の経済は二酸化炭素の排出が行えず、完全にストップしてしまうだろう。それを考えるとせいぜい、抗議文をガルメシア共和国に対して送る程度しかできないのが現状だろう。
そこまで考えて春日はまた大きなため息を吐く。
「まあ、何にしても現状ではエイジア連合はジリ貧だよ。このまま煙突公社に対しての委託金がどんどん上がって行ってしまえば、エイジア連合はガルメシア共和国に飲み込まれてしまうだけだ。そうなれば、誰もガルメシア共和国に対して声を大にして抗議出来る者がいなくなる。そうなってしまえば、ガルメシア共和国の独裁が始まるだけだ。それだけは阻止しなければな……」
春日はそう呟くと、眼を閉じてしまう。その姿を見て氷室も黙り込む。電気自動車は静かに春日たちを目的地に運んで行く。
春日が演説を行った次の日、再び本会議場に集まったエイジア連合加盟国の各国首脳の前で、中華共和国の首相劉 小龍が声を大に演説を行っている。
「昨日の春日首相の言葉はもっともでしょう。今のままでは、エイジア連合はガルメシア共和国に飲み込まれてしまう。それに煙突の利用権利もだんだんと狭められていくでしょう。そうなればエイジア連合は終わりです。その前に手を打たなければならない。しかし、ただ抗議文を送る、その程度ではとても現状を覆す事は出来ないでしょう。そこで私は皆さんに提案をしたい」
そこで一旦劉は言葉を切る。そして、議場にいる各国の代表に眼を向け、最後に春日の方を見て、徐に口を開く。
「我々は今こそガルメシア共和国に対して、立ち向かっていかなければならないのではないでしょうか? そう、もちろん平和的解決が出来ればそれに越したことはありません。しかし、抗議文を送る程度では全くもって効果は無いでしょう。今までもそうでした。しかし、その背景に軍事的な動きを見せればどうでしょう?」
劉の言葉に各国首脳の半数位は驚きの声を上げる。後半数は全く声も上げる事は無い。恐らく、ロビー活動でその詳細を聞かされていたのだろう。この提案に賛成票を投じる事によってどれくらいのメリットがあるのかは解らない。しかし、それでもこの話に賛成票を投じて、戦争になったとしてもお釣りがくるほどのメリトッが彼らには有るのだろう。
「これは……まずいな……」
一人呟く春日。その春日の方をチラリと見て、更に話を進める劉。
「そうです、我々はいつまでも弱腰の外交を続けるわけには行きません。これ以上ガルメシア共和国の横暴を止める事が出来なければ、我々の息子、いや、孫の世代に必ず禍根を残す事になります。この問題は我々の世代で終わらせなくてはなりません。その為に皆さん、勇気ある決断をお願いいたします」
劉の演説が終わると、議場は昨日春日か演説をした時よりも熱狂的な拍手が生まれる。それはロビー活動で中華共和国が得た三同国よりも多いであろう拍手の嵐だ。恐らく、場の雰囲気に流されてしまった者も多数いるだろう。しかし、春日は立つこともせずに腕を組み、劉を睨み付ける。それをニヤリと笑って少し高い壇上から見下ろす劉。
『静粛に、静粛に!』
議長の言葉が議場に響き渡り、ようやく喝采の拍手は鳴りやむが、それでも熱気はそのままだ。収まったところで議長が再び口を開く。
『今の中華共和国の提案に対して質問がある国の代表はいらっしゃいますか?』
そう言われ春日は手を上げる。そして議長に指名され、春日は壇上に上がる。
「先ほどの劉首相、の提案、大変感銘を受けました次第です。確かに、今までの外交は弱腰の外交でした。それは私も反省致すところであります。しかし、失礼ながら幾つか疑問がありまして、今壇上にてその質問をさせていただきたいと思います。よろしいでしょうか?」
春日は提案者の劉の方を見つめる。そして、劉は少し口元をゆるめて頷く。
「では、質問を始めさせていただきます。第一に、衛星軌道上のインビジブル・ハンマー(I・H)についてです。皆さんもご存じの通り、これは地球上のあらゆる所を監視しているガルメシア共和国の軍事衛星ですが、このI・Hの眼を潜り抜けていかに軍事行動を行うのでしょうか? 先ずそこの所をお答えいただきたい」
春日の質問に対して、劉は手を上げ議長に発言の許可を取る。そして、それに着いて答える。
「春日首相のお言葉はもっともでしょう。今まで、I・Hがある事で我々はガルメシア共和国に対して手も足も出ませんでした。しかし、私の得た情報では一カ月ほど前、煙突に対してテロ行為があったようです。つまり、それは煙突の防備は完全ではない。そこには必ず穴があるという事です。そうであれば、煙突を一時的に占拠、そして第二段階で軌道エレベーターを経由して宇宙に軍を送り、宇宙空間に有るI・Hを破壊する事も可能ではないかと考えております」
自信満々に答える劉。その回答に春日は少し驚く。自分でも知りえないような情報を劉は得ていた。煙突制作にかかわった春日でさえ、その情報網を利用しても、その情報は初耳であった。しかし、仮にそうであったとしても、テロ以降は警備も厳しくなっているはずであろう。それなのに、この男は何を考えているのか? 春日はその事を頭の中で考えながら、更に質問を続ける。
「その情報は私の所には届いておりませんが、なるほど。確かに、その情報が確かであれば軍を宇宙に送る事は可能かもしれませんな。しかし、問題はその後です。仮に、軌道エレベーターを一時的に占拠できたとしましょう。軍も宇宙に上げられたとして、それでも我々には宇宙での戦闘に特化した軍は持ち合わせてはおりません。それでは一方的に我々は叩かれてしまい、軍は降伏、若しくは殲滅させられてしまうでしょう。それでは、人的資源の無駄遣いになってしまう。それについてはどう思われますか? それを押してでも、我々は宇宙に軍を送るべきでしょうか?」
その質問に答える劉。
「なるほど、確かに我々は宇宙に軍は持ち合わせておりません。しかし、もともといる宇宙軍に協力を仰げば、それは可能なのではないでしょうか?」
劉の言葉に春日は考える。この男の本心がまったく掴めない。宇宙に軍を要しているのはガルメシア共和国だけ。それを、のぞけば木星船団の【ジュピトリス】のみ。しかし、ジュピトリスは煙突公社と違い、完全に独立した組織で、それこそガルメシア共和国でさえその存在は注目しており、完全に独立不遜の集団だ。エイジアなどは煙突公社以上に気を使わなければならない相手だ。
ジュピトリスに何かつてでもあるのか? 仮にそうだとしても、独立不遜のジュピトリスを動かす事は無理だろう。春日は考えを巡らすと、また口を開く。
「劉首相には何かお考えがあるようですな? できれば後学の為にも教えてはいただけませんかな?」
春日の言葉に劉は少し不敵な笑みで答える。
「ははは、春日首相でも解りませんかな? では、私の口からお答えさせていただきましょう。まず、事実上の独立の宇宙軍と言っても過言ではないジュピトリスに協力を仰がなければなりません。これは困難を極めるでしょうが、少々私の方でつてがあります。それで何とかなるでしょう。そして、直接交渉するための人材をジュピトリスの代表と話を付けてもらいましょう。そして、交渉が終わり次第、特殊部隊を煙突に送り軌道エレベーターの確保を行います。もちろん、我々の仕業だとは思われない様にしなければなりませんがね。そして、リングポートに軍隊を送り、そこからジュピトリスと呼応して、I・Hを叩く。そして、それと同時に一大兵力を持って、南アフリカを抑える。そうすれば、希少金属や希土類は我々がほぼ独占する事が出来るでしょう。そうなれば、ガルメシア共和国も我々に譲歩せざるを得ません。いかがですかな春日首相?」
勝ち誇ったような笑みで春日を見る劉。そして、劉の話が終わった途端に、各国の代表はまた大きな拍手を持って劉を讃える。その拍手の中、春日はかなりの危機感を覚える。
こんな荒唐無稽な策では必ず失敗する。そうなればエイジアは終わりだ。今は成功を確信しているだろう。しかし、そのすべてがただの絵に描いた餅だ。何も確実性などない。どうしてそれが解らないのだ? 春日はそうは思いながらも、何とかこの話は白紙に戻さなければならない。そう思い、それからも時間の許す限り、劉や各国の首相に話しかけるが、それでもその案は賛成多数で可決されてしまう。その殆どは中華共和国から何らかの援助を受けている国であったが、それ以外にも春日が首相の国、日本と懇意にしている国までもが幾つかの国が賛成に回ってしまい、それ以上は何ともする事が出来なくなってしまった。
「氷上君、緊急閣議を開催する。急いで閣僚に連絡を入れてくれ」
議場を出た春日は直ぐに氷上の待つ車に乗り込み、開口一番そう言いつける。それにすぐに答えるかのように氷上は閣僚の秘書に一斉にメールで連絡を飛ばす。そして、一時間後には閣僚は閣議室に集まり、春日から今日の会議の内容を話されると皆驚きの顔と共に、誰も一言も話す事は無くなった。
「とにかく、この難局を乗り切るために皆忌憚のない意見を述べてくれ!」
春日の一言でそれぞれがそれぞれの意見を述べるが、それでも何一つ解決策となる様な意見は出る事は無かった。半日ほど会議を行ったが、それでもこの事態に対する明確な方針は決まらず、時間だけが過ぎていく事になる。そして、会議が始まって十時間が過ぎようとした頃、これ以上は時間の無駄と思った春日は一旦会議を締めくくり、また翌日にこの会議を持ち越す事を決める。
「皆、忙しいとは思うが、何とかこの難局を乗り切らねば我が日本、いや、エイジア全体の危機に陥る。とにかく、申し訳ないが今まで以上にこの件に当ってくれ」
春日はそう言い、一旦会議を締めくくる。
自分の執務室に戻った春日は椅子に深く腰を掛け、片手で眼を揉む。そうしていると部屋をノックする音が聞こえる。返事をしてノックした主を招き入れる。
「お疲れ様です首相。少しお休みになられた方がよろしいのでは?」
目頭を押さえたままの春日に話しかける氷上。
「そうしたい所だが、休んでもいられんだろう。何とか、この状況を打開せねばな……」
目頭を揉みながらそう氷上に話しかける春日。
「確かにそうですが、その前に首相が倒れられては、何ともなりません。それに、劉首相の件に関しては私にいささか案があります。任せてはもらえませんか?」
その言葉に、春日は今まで眼を揉んでいた手を離し、氷上の方にその黒い瞳を向ける。
「ほう……君に何か案があるのかね? ぜひ教えてもらいたいな」
春日はこの若い秘書の事をかなり信頼していた。彼のおかげで今の春日が有ると言っても過言でもないだろう。氷上はそれ位頭がきれる。
「はい、実は最近入国してきた不審な三人がおります。名目上は煙突公社の連絡員となっておりますが、どうも様子が妙でして監視を付けていたのですが……」
「なんだ? 君は入国管理まで面倒を見ておったのか?」
春日は少しおどけた様に氷上に話しかける。それに表情を変える事無く冷静に返す氷上。
「ええ、煙突公社の人間は総て監視の対象になっております。ガルメシアのスパイの可能性が十分に考えられますから」
自分の言った冗談を軽く流された春日だが、話の続きを促す。
「ふむ、それでその三人は何が妙なのだ?」
そう言って春日は氷上に話の続きを促す。
「はい、彼ら三人ですが、カミュ・サカザキ、ヒロキ・ヨコハタ、ユーリ・ウェイン……」
その名前の中に記憶にある名前を聞き、思わず聞き返す春日。
「ちょっと待て、今なんといった? ユーリ・ウェインだと? まさか……」
「はい、ジェイ・ウェインの孫にあたるユーリ・ウェインです」
「そうか……ウェインの孫娘のユーリか……元気にしていたのだな……」
ユーリの名前を聞いて少し遠い目をする春日。その春日を置いて氷上は話し続ける。
「三人が煙突公社の人間であることは間違いありません。それは、煙突公社のネットワークに確認して裏も取れました」
氷上の話に現実に戻された春日。そして氷上の言葉に少し考え、口を開く。
「では、何が妙なのだ? 煙突公社の人間なのだろ? それに、ウェインの孫であればまだ十八かそこらだろう、まさかスパイと言う訳でもあるまい?」
春日の言葉に頷く氷上。
「はい、確かにそのように思えます。しかし、行動が今一つ掴めません。何のためにエイジアに来たのか? その理由がまったく解りません」
氷上の話では、三人は煙突公社の施設に全く立ち寄る事も無く、日本の各地を回っているという事だ。確かに、大災害前であれば日本には観光地も有っただろう。しかし、大災害後の今の世の中では観光するような所も有る訳もなく、ましてや、まだまだ復興の終わっていない世の中だ。そんな余裕があるとはとても思えない。では、いったい何をしに来たというのだろう? それこそ氷上が最初に疑ったようにスパイの可能性もある。だが、こんなに若い三人をスパイに送り込むであろうか? それに行動があまりにも不自然で怪しすぎる。これでは、スパイだと疑ってくれと言わんばかりだ。そこに氷上も眼を付けていたのだろう。
「ふむ……確かにあまりにも妙だな……とにかく、この三人監視を続けておいてくれ。何か動きがあったら拘束しても構わん。君に任せる」
春日はそう言うと氷室は少し頭を下げる。
「それでは、首相次の会議まではまだ少し時間が有ります。少しでもお休みください。また、会議の時間に伺いますので」
氷上はそう言うとまた頭を下げて部屋を後にする。
氷上の出て行った部屋で春日は一人気が抜けた様に独り言を呟く。
「ウェインの孫か……」
その春日の表情は何処か嬉しそうにも見えた。
「あの三人に何か動きはありませんか?」
氷上の言葉に公安局の監理官は答える。
「いえ、今の所これといった動きは有りません」
「そうですか……とにかく監視は怠る事の無いように。首相の許可も頂きました」
氷室の言葉に敬礼で答える監理官。暗い部屋に何台もついたモニターにはカミュ達三人が常時映し出されている。それに、恐らくカミュ達三人の周りには何人かの人間も監視として付いているだろう。カミュ達が映し出されている画像を見て氷上は何かに気が付く。
「うん? この監視対象三は何をしているのですか?」
氷上はユーリの行動に興味を魅かれる。
「ああ、何か端末に向かって話しかけていますね。何か頻繁に話しかけているようですよ」
「何を話しているのです?」
「音声を拾いましょうか?」
「頼みます」
氷上の言葉に監理官は他の職員に指示を出す。
『メルキゼデク、次はどこに行けばいいの?』
『そうだな……次はどこに行こうか……』
どうと言う事の無い会話が聞こえてくる。
「こんな感じでいつも端末に話しかけていますよ。特に会話は変な所は有りませんね。恐らく話しかけているのも監視対象三が作り上げた簡単なAIか何かのプログラムでしょう。これと言って……」
監理官の言葉は途中で氷上の耳には入って来ていなかった。そう、氷上以外にはこの言葉の重大性は理解できていなかったのだろう。もちろん、それについて公安局の人間を叱責する事は出来ない。これは煙突公社の人間でもほとんど知らないであろう情報だからだ。恐らくこの『メルキゼデク』と言う単語を現在の世の中で正確に理解しているのは世界中でもほんの一握りだろう。氷上自身も春日にその事を聞いていなければ解るはずもなかった。
「どうかしましたか?」
監理官が話しかけてきてようやく氷上は現実に戻される。
「い、いえ。なんでもありません。とにかく、三人の警護を怠らない様に。私は直ぐに首相官邸に戻ります。車を手配してください」
「はぁ……解りました。では三人の警護を行います」
そう言うと氷上は直ぐに部屋を出て行く。その出て行った氷上を見て監理官は呟く。
「どうしたっていうのだ? 急に監視から警護に変わるなんて……まあいい。とにかく、監視と警護を行う。首相の許可も下りた人員を十分に確保しろ」
監理官は他の職員にそう指示を出し、三人の警護を十分に行うように命令を出す。
氷上は首相官邸にとんぼ返りし、春日の部屋をノックする。返事を聞く前に部屋の中に入る氷上。案の定春日はまだ起きており、春日の慌てた様子に、他の秘書と話していた春日は驚く。
「どうしたんだ氷上君。そんなに慌てて珍しいな」
氷上の慌てた様子に春日は今まで話していた秘書を部屋の外に出す。その秘書が部屋の外に出たのを見計らって氷上が話し出す。
「申し訳ありません首相。ただ、どうしても火急に首相のお耳に入れたい案件がありまして」
「そうか、私の方でもちょうど君に話したいことがあったところだ。取りあえず、こちらの案件もかなり急ぎだ。先にこちらの話をさせてもらうがいいな?」
春日の言葉に氷上は頷くが、それでもこの事態を早く伝えたい気持ちが氷上には強かった。
「解りました。それで、お話と言うのは?」
指を口の前に組み、その上に顎を乗せた状態で春日は話し出す。
「実はな、中華共和国の案だが、あれがさっそく実行に移されたらしい」
氷上は黙って春日の言葉を聞き、頷く。
「それで案の定失敗したようだ」
氷上はやはり、と言うような表情で春日を見つめる。
「驚かんな。予想通りか?」
春日の言葉に頷く氷上。
「ええ、まあ」
その返事に頷く春日。
「だろうな。我々の予想通り中華共和国は失敗した。しかし、失敗の仕方があまりにも酷かった。一歩間違えれば即戦争、いや、I・Hから直ぐに報復攻撃が行われて我がエイジアはすでにその体裁をなしていなかっただろうな……」
春日の言葉に氷上はかなりまずい事になっているだろうことが解った。
「それで、今後どうされるおつもりですか首相?」
組んでいた腕を広げて手を上げる。
「全く。正直もうお手上げではないかと思っている」
もう何も手が無い。と言うようなポーズをとる春日だが、それでもどこか余裕を感じられる表情だ。
「ご冗談を。貴方がそう言う表情をされる時はまだ何か手がおありの時だ。それは私が一番よく解っているつもりですよ」
やれやれ、そう言った表情で頷く春日。
「君には隠し事は出来んな」
春日はそう言って苦笑を浮かべ、それにつられて氷上も少し口元を緩める。
「そこでだ、氷上君。君の最後の切り札はどうなりそうだ?」
感情を押し殺した氷上の顔に思わず笑いがこみあげてくるが、それを押し殺す氷上。
「首相には敵いませんね。私がいつでも切れる札を持っている。首相はそう思っていらっしゃる」
「なんだ、無いのか?」
春日の言葉に首を振る氷上。
「今回ばかりは……と言いたい所ですが一つ切り札があります」
やはりか、そう言った感じでニヤリと口元を緩ませる春日。
「で、その切り札はどうなっている?」
春日の言葉に話始める氷上。
「いえ、その前に私の報告をお聞きいただけますか?」
氷上の言葉に少し怪訝な顔をする春日だが、この場で無駄な話をするような氷上ではない事を春日は知っている。春日は黙って氷上の話を促す。
「先ほど報告させていただいた煙突公社の三人の話ですが」
「ああ、確かウェインの孫娘たちが日本に来ていると言っていたな。それがどうかしたのか?」
頷く氷上。そして、また話を続ける。
「ええ、実はその孫娘のユーリの持っている端末ですが、面白い事がいましがた解りました」
「ほう……」
そう一言呟く春日。そして更に話始める氷上。
「ユーリの持っている端末ですが、その中にどうもAIが搭載されているようです」
その言葉にまた怪訝な顔をする春日。今の時代、AIの入っていないコンピューターを探す事の方が難しい。氷上の話の意図を探る春日。その春日の事を無視するかのように話し続ける氷上。
「そのAIにユーリが話しかけている姿を偶然目撃しました」
「ふむ、それでユーリはAIに何と呼びかけていたのかね?」
「メルキゼデクと」
氷上のその言葉に春日は思わず立ち上がる。
「まさか……本当なのか? そんな……いや、しかし……あり得ない話では無い……」
予想通りの春日の表情に氷上は驚きもせずに話を続ける。
「ええ、本当です。しかし、それが本当にあの『メルキゼデク』かは解りません。しかし、これが事実なら……」
氷上の言葉に続けるように話始める。
「ああ、もしそれが本当ならパワーバランスが崩れる! 一方的だったガルメシアをこちらが叩く事も出来る! 何とか、ユーリとコンタクトを取れないか?」
春日の言葉に氷上は頷く。
「今は公安が三人を監視、警護しております。いつでも迎えに行くことが出来ます」
氷上の言葉に頷く春日。
「解った、とにかく三人をここに連れて来てくれ! くれぐれも丁重にな」
春日の言葉に直ぐに氷上は公安に連絡を入れる。
「氷上です、直ぐに三人の身柄を確保してください。くれぐれも丁重に」
氷上はそう言うと、春日に向きなおる。
「直ぐに連れてこられるでしょう」
「解った、待っていよう。今日の予定はすべてキャンセルできるか? 後日に振替を頼む」
氷上は頷くと端末を開き、今日の予定をすべてキャンセルし、スケジュールを組み替える。春日の予定は毎日が分刻みのスケジュールになっているため、それを組み替えるのはかなり困難ではあるが、それを直ぐに終わらせる。そして、スケジュールを組み終わらせた頃一本の連絡が入る。恐らく公安が三人の身柄を抑えたのだろう。
「氷上です。……どういうことですか? あなた達はプロじゃなかったのですか? 解りました、とにかく、直ぐに見つけ出してここに連れて来てください。次は無いですよ?」
氷上は顔色を崩すことなく命令する。
「どうした氷上君?」
「はい。公安が身柄の拘束に失敗しました」
春日は氷上の言葉に驚く。公安がたった三人の子供を捕まえる事も出来ないなど、思いもしなかったからだ。
「どんなコンタクトの仕方をしたのだ……とにかく、他国に悟られる前に直ぐに身柄を確保してくれ! それと、氷上君。君が直接現場に行って指揮をしてくれるか? この件は君を総責任者に指名する。何があっても確保してくれ!」
春日がそう言うと、少し頭を下げ、部屋を出るとまた公安局に向かう。
公安局に到着早々氷上は先ほどまでいた部屋に入って行く。そこではかなり慌てた感じの職員たちがコンピューターに向かって色々と手を尽くしている。
「どうかしましたか?」
氷上の声で気が付いた監理官。
「ああ、いらしてたんですか? 今何者かによるハッキングが行われました。幸い機密情報の漏えいは有りませんでしたが、例の監視対象を完全に見失いました……」
その報告を冷静に聞き流す氷上。
「それで、三人の消息は? 一切不明なのですか?」
まるで、ドライアイスで出来たナイフを突きつける様な眼で、監理官を見つめる春日。その表情に少し怯える監理官。
「い、今消息を追っています。それ程遠くに行ける訳ではないでしょうから、直ぐに見つける事が出来るはずです。もう少しお時間を下さい」
監理官の言葉に氷上は先ほどと変わらない表情で頷く。
「解りました。では、もう一度チャンスを上げましょう」
監理官は少しほっとするが、もう失敗は許されない。この殺気を含んだ眼で見られて監理官は命さえも取られそうなほどの錯覚に陥った。
「それで、三人が消える前の映像は有りますか?」
氷上の質問に監理官は直ぐに答える。
「おい、警護対象が消える前の映像を出してくれ」
直ぐにその動画が始まり、それを見る氷上。画像には公安の人間が接触したところから始まっている。氷上の眼から見てもまあ、紳士的に接触をしているようだ。しかし、三人は警戒の目で見ている事は明らかだ。そして、三人が端末の方に眼を向けた次の瞬間、総ての画像から三人が消える。そして、次に画像が映し出された時にはもう三人の姿は見えず、蹲る公安職員の姿だけだった。
「いったいどうしたというのですか? 彼らに何があったのですか?」
「今現場と連絡を取っていますが、まだ繋がりません。もう少しお待ちください」
暫くすると通信が回復する。
「こちらは本部の氷上です。何があったのか説明して下さい」
ようやく立ち直りだした公安職員に氷上は質問する。
『解りません、何が何だかわからないうちに無力化されていました。申し訳ありません……』
誰にも聞こえないような小さなため息を吐く氷上。
「解りました。とにかく、あなた達は直ぐに三人を捜索して下さい」
氷上の言葉に敬礼で返し画像は終わる。
「さて、彼らはどこに行ったのか……」
一人呟き、考えを巡らせる氷上。最後の画像を見る限りでは、間違いなくハッキングの正体はメルキゼデクだろう。そうであればますますこちら側に引き込まなくてはならない。そして、ハッキングされている以上システムなどは全く役に立たないだろう。しかし、ハッキングで監視カメラなどは逃れても、プロの公安職員の眼をくらます事は早々できる事ではない。恐らくそこまでメルキゼデクは考えているだろう。だとすればどこに逃げるのが最良の策か? 氷上はそれを考え込んでいる。
「監理官」
突然の氷上の呼びかけに答える監理官。
「なんでしょう?」
「下水道の敷設図は有りますか?」
氷上の言葉に直ぐに画像に下水道の配置図を映し出す。
「彼らがいた場所から一番近いマンホールは何処ですか?」
氷上の言葉に配置図上にその場所がモニター上で拡大される。
「下水道に逃げた可能性があると?」
監理官の言葉に頷く氷上。
「ええ、コンピューターはごまかせても人間の眼はごまかせません。そうである以上、人目の付く所は歩かないでしょう。そうなれば下水道を移動する可能性がかなりあります」
下水道の配置図を見ながら氷上は答える。かなり入り組んでいるし、出口もかなりの箇所数がある。それを全部抑える事は不可能だろう。それに、そんなに大規模に動いてしまえば、他国の諜報員に気付かれてしまう可能性がある。そうなってしまえば、切る札であるメルキゼデクは他国の手に渡ってしまい、最悪エイジア連合の主導権を日本から奪われてしまう可能性がある。今後のエイジア連合の舵取りは間違いなく良くない方に動くだろう。今回の例を見れば、それは火を見るより明らかだ。まだ、春日にエイジアの舵取りを行ってもらわなくてはならないのだ。
「特殊作戦群に連絡を」
氷上の言葉にその部屋にいる全員が氷上の方を見る。
「特殊作戦群と言うと……」
「この国にその名前が付いた部隊は一つしかありません。早く連絡してください。事は急を要します」
冷たく言い放つ氷上。そして、通信が繋がると、画面上の特殊作戦群の隊長であろう男が氷上に敬礼をする。
「直ちに重要人物三人及び、重要人物が所持している端末を無事に確保して下さい。実弾の使用は禁止します。ただし、殺傷能力の無いゴム弾の使用は許可します。ですが、絶対に端末を傷つけないようにしてください」
氷上の言葉に敬礼だけで返して画像は消える。
「あとは彼らに任せます。あなた達は彼らの要求する必要な情報を総て提供して下さい」
氷上はそう言うと再び黙り込み、椅子に深々と腰を掛け、暫く眼を閉じたまま動かない。氷上がそうしている間に、特殊作戦群は三人が逃げ込んだであろうマンホールに到着する。人数は一個小隊五〇人が、この時代では珍しい人造ガソリン動力の高機動車から降りてくる。降り立った五十人の顔は完全に覆面で隠され、眼だけが覆面から出ているだけで、その表情は伺えない。その風貌だけでかなり異様な部隊だという事が解る。
現場にいた公安の職員はマンホールの前を明け渡し、その前で特殊作戦群の隊長が班長に指示を出していく。そして、到着から三分後には二個班がマンホールの中から手際よく降りて行く。装備は殺傷を目的としている訳ではないのでハンドガンにスタングレネード数個と軽装備だ。
その映像を見ている公安職員たち。
「これですぐに捕まるだろう」
公安職員たちは何処か安心しきった表情で見ている。
「捜索を開始します」
特殊作戦群の隊長から通信が入る。下水道に降りた隊員からリアルタイムで画像が送られてくる。それを氷上は見ている。下水の中を歩いたのだろう足跡はマンホールを降りた後すぐに消えていた。氷上の予想通り、三人は下水道に逃げ込んでいた。下水道にも何か所か監視カメラは有るが、それは恐らくメルキゼデクによって無効化されているだろう。こうなっては本当に人海戦術で探し出すしか手は無い。しかし、どこに行ったか解らないような状況であるにもかかわらず、特殊作戦群の隊員はまるで道筋が描かれているかのように、何の迷いもなく下水道の中を進んで行く。そして暫く隊員たちが進んで行くと、何やら話し声が聞こえてくる。それも、大きな声で怒鳴りつけるような言葉だが、それは日本語と外国語が混ざり合ったような言葉だ。そして、その声の主は明らかに三人の声も混ざっていた。
その音声を聞きながら氷上は顔色を少し曇らせる。
「拙いですね……」
そして、その様子を映し出していた隊員が分隊長に指示をこう。
『どうも、中華共和国の工作員のようです』
その言葉に氷上はやはりか。と、納得したが、ここで中華共和国の人間に彼らを連れて行かれるわけにはいかなかった。様子を見ていた感じでは、工作員はあくまでも一般人と変わらないような恰好をしているため、ゴム弾とはいえ重武装の特殊作戦群が制圧できない相手ではないだろう。そう思い、氷上は命令を下す。
「制圧せよ。ただし、全員生かして捕えるように」
氷上の命令を受けた隊員は別の隊員に合図を送る。そのすぐ後にスタングレネードを投げ込む。一瞬後爆音と目蓋を閉じていても眼を突き刺すほどの閃光が辺りを包み込む。そして、その瞬間を利用して、特殊作戦群の隊員たちがその現場に雪崩込み、中華共和国の工作員と、三人を無事に確保する。しかし、その時の衝撃で少女は端末から手を離してしまい、下水の中にそれを落としてしまう。
まだ、目と耳をつぶされ、蹲る三人と工作員を拘束し、直ぐに手近のマンホールから全員を押し上げる。
そこでようやく少年たち三人が眼を覚まし、ぼーっとした頭で周りを見て、その異様な光景に戸惑う。三人が出てきたマンホールは氷上たちのいる所からそれ程離れておらず、直ぐに氷上がその場所に到着すると、直ぐに三人に声を掛ける。
「手荒な真似をして申し訳ありません。しかし、こうでもしないとあなた方は中華共和国に連れて行かれる所でしたので」
氷上の冷静な言葉に三人は朦朧とした意識の中でなんとなく頷く。そして、暫くした後、ユーリが騒ぎ出す。
「端末!? メルキおじ様の入っている端末が無くなってる!」
ユーリはそう言って騒ぎ出すと、隊員の一人が氷上にその端末を手渡す。
「これの事ですか?」
氷上がそれをユーリに見せると、それを奪い取る様にして、その状態を確認して、直ぐに悲観する。
「ああ……これじゃあもう元に戻らない……」
それをまたユーリから受け取ると氷上はその状態を確認する。
「これぐらいなら大丈夫でしょう。直ぐに修理させますよ。暫く預かっていてもよろしいですか?」
その言葉にユーリは直ぐに頭を下げてお願いする。
「お願いします! どうか修理して下さい!」
しかし、ユーリとは別にヒロキは冷静に答える。
「ユーリ、駄目だ。どこの誰か解らない人間に端末を渡したらまずい!」
その言葉に氷上は少し笑いながら答える。
「ふふふ、用心深いですね。いいでしょう。ユーリさんでしたね? あなたの目の前で修理させましょう。それでどうですかヒロキ君?」
まだ名乗ってもいないのに自分の名前を知っている事に驚くヒロキ。
「おっさん、なんでヒロキの名前を……」
カミュの言葉を途中で遮り、氷上は話始める。
「とにかく、こんな所で話こむのはやめにしましょう。それに、正直あなた方三人は御世辞にもまともなかっこではない。それに、匂いも酷い。とにかく、少しまともなかっこになってから話をしましょう。いいですね?」
そう言うと、氷上は周りの公安職員に眼で合図して、三人を車の中に乗せ、そして自らも電気自動車に乗り込み、三人を確保した場所を離れる。
この瞬間から四人の運命は動き出す事になる。