1. 期待された兄妹
「兄様、そちらに行きましたわ!」
流麗な剣閃と共に少女が振り返る。
長く艶めく髪の少女――妹メリルの声を受け、兄フォードは剣を構え銀閃を奔らせた。
八迅の流麗な剣閃がゴーレムの体を八つ裂きに斬り刻み、頭と首、胴、腕、脚、太く頑強な肉体を紙切れのように寸断する。
主の無念を表すかのように、ゴーレムの土の巨腕が宙を舞った。
戦闘終了。十六体のゴーレムの集団は、わずか数十秒で二人の兄妹に全滅させられていた。
「兄様っ、お見事ですわ!」
美しい妹が抱きついてくる。
フォードは甘い香りの少女の体を、優しく抱きとめた。黒髪に翡翠の瞳の少女、その容姿は可憐と言うほどに麗しい。
ゆるやかに波打つ黒曜石のような髪も、白く処女雪のような肌も、まさに芸術品のごとき美しさだった。
妹はほがらかに笑う。
「さすがは兄様ですわ。冴え渡る剣技、鮮やかです!」
「ふふ、メリルの方こそ。昨日より剣筋が良かったよ、頑張ったね」
万感の親しみを込めてフォードが頭を撫でてあげると、メリルはくすぐったように目を細めた。
花のような笑みを浮かべる妹に、優しくフォードは語りかける。
「さあ、魔石を集めて素材を持っていこう。父上と母上が待っている」
「はいっ!」
満面の笑みを浮かべ、メリルは兄フォードと迷宮を後にした。
――オルトレール家の『フォードとメリル兄妹』と言えば、大陸では知らぬ者のない有名人だった。
兄フォードの超速な双剣技と、妹メリルの刺突剣。
どちらも流麗にして壮麗かつ、過激。オーク九匹の秒殺やハーピー十三匹の瞬殺劇、さらにはリザードマン十八匹による奇襲をわずか六歳と五歳の時点で成し遂げた天才児。
由緒あるオルトレール伯爵家の名に恥じない技量と、その器量。兄のフォードはもちろん、妹メリルの美貌も相まって、彼らは同業者のみならず、一般の人々にまで勇名を馳せていた。
「おっ、オルトレール家の坊っちゃんとお嬢さんじゃないか」
「こんにちはですわ、モルトさん。今日も繁盛されていますか?」
「ははっ、フォードさんとメリルさん目当ての客があるから、上々だよ!」
「フォードお兄さん! 今度ぜひ武器屋に寄ってよ。リザードナイトの良い脂が入ってねっ、サービスしとくよ!」
「ありがとうございます、ローエンさん。明日、妹と行きますね」
「いやー、ふふふ。フォードさんとメリルさんのおかげで、市場も活気づくよ!」
賑やかな街中の市場に響く、兄妹を慕う声。
迷宮帰りの活気や、かけられる優しい声。二人はこれが好きだった。
魔物を倒した高揚感も相まって、ついつい朗らかな笑みが溢れる。
「あ、兄様、肩に埃がついていますわ、取って差し上げます」
「本当だ。ん? メリルの肌にも煤が。払ってあげるよ」
「きゃっ、くすぐったいですわ、兄様っ」
兄妹は仲睦まじく、互いに手を差し伸べて綺麗にし合う。
彼らは間違いなく、大陸の人気者と言えた。そして誰もが、次代のオルトレール家を、そして探索者の筆頭になるに違いないと、そう囁かれて日は浅くなかった。
いずれ更なる頭角を示し、必ずや一流の探索者として歴史に名を刻む兄妹。
そのように期待されていた彼らだったが――。
事件は、兄フォード十五歳、メリル十四歳のその日に起きた。
「――よくぞ帰った、我が子供達よ」
「此度の探索、ご苦労でした」
「「はい、父上っ、母上っ!」」
豪奢な屋敷の前で、父ソルゴスと、母フラメールの荘厳な声が出迎える。
どちらもかつて『双聖剣』と呼ばれた、一流の探査者だ。
迷宮を志す者の中で随一の実績を持つ彼らは、歴史あるオルトレール家の中でも栄えある逸材。それに恥じぬ功績を作るため、フォードとメリル兄妹は、幼い日より両親に鍛えられ、修行の一環として迷宮に潜っていた。
湖の要請と見紛うばかりの美貌の母、フラメールが兄妹をねぎらう。
「貴方たちの活躍、近隣の貴族の間でも噂になっているわ。あたくしも鼻が高くてよ」
「はい、母上。僕達は立派な探索者となり、迷宮を攻略します」
「わたしもですわ。兄様と一緒に、必ずや高名な探索者となります!」
《迷宮》――古の神々が遺した、深く、険しく、謎に満ちた古代遺跡である。
そこへ武具を用い、深奥へ探索する者たちを、《探索者》と呼んでいる。
探索者は世界中に溢れ、一般的な職の一つと言える。
古の神々がなぜ絶滅してしまったのか、迷宮はどこへ繋がり、どこまで広がっているのか――その中に隠された財宝を、伝説の武具を、魔術の秘奥を、様々な目的のために《探索者》たちは、迷宮の探索に余念がない。
オルトレール家とは、代々一流の探索者を排出し、貴族の位にまで上り詰めた名門の家系なのだった。
「今日の収穫はどうだった?」
「はい、父上。今日はゴーレム十八体、リザードマン二十五匹、コボルト四十五匹を仕留めました」
「上々だな。母さんと私の若い頃を思い出す。私達も幼少時より、共に魔物を狩っていた」
歴戦の強者である父と母の武勇伝はぜひ聞きたいが、今日の疲れを癒やす必要がある。
まだフォードとメリルは修行中の身。共に十七歳となり家督を継ぐ年齢になるまでは、第八迷宮『砂楼閣』での探索をはじめ、多くの鍛錬を義務付けられている。
「では父上。休憩した後、午後の指導を……」
「待て待て。そう慌てるな。お前もメリルも今日は疲れただろう? もう十日も休み無しだ。今日はもう休養に当て、明日改めて鍛錬に勤しめば良い――」
「いえ! 僕らは今気力に満ちています。もっと早く強くなりたいのです!」
「わたしも同じですわ。兄様もわたしも、もっと身のある修行を!」
闘志を燃え上がらせる兄妹に、父母は嬉しそうに顔を見やる。
栄えあるオルトレール家の跡継ぎとして、申し分のない気概が好ましいのだろう。
「ふっ、判った。だが探索終わりとはいえ、手加減はしないぞ? 私の直接指導で音を上げたら、明日は鍛錬を倍にすると思え」
「望むところです! さあ父上、母上、ご指導を!」
意気揚々と詰め寄るフォードとメリルに、父も母も笑みをこぼしていた。
† †
「――フラメールよ、我が子らの才覚、どう思う?」
深夜。月明かりと星々の煌めきばかりが地上を覆う闇夜の時間帯に、父ソルゴスと母フラメールが書斎で密談を交わす。
「ええ、今日の指導ではっきりしましたわ。やはり、フォードの才能は、劣っていますわ」
子達がいた時とは打って変わって、底冷えのする声音の母フラメール。
「フォードもメリルも、同年代の中では抜きん出た才能。けれどフォードの才覚より、メリルのそれの方は遥かに高いわ」
「やはり、な。齢十を超えた辺りから感じていたものは間違いではなかった。フォードの才では、物足りぬ。我がオルトレール家の跡継ぎなら、さらなる高みになければならん」
「ええ。フォードは等級三十六、メリルが三十四。凡百の人間ならこの歳でこの値に達するのは誇らしいけれど、我らが伯爵の血筋では当然のこと」
探索者が等級三十に達するには、一般的に三十代から四十代の中盤まで掛かると言われる。
わずか十五歳程度でその域にたどり着けるフォードたちは間違いなく天才だ。
そして歴史あるオルトレール家の中でも、彼ら兄妹は遜色ない才能だったのだが――。
力ある人間が二人いて、片方がより優れていると、人間、そちらを優遇したくなるものだ。
父と母という肉親であっても、『天才の中の天才』たるメリルにばかり期待が向くのは、フォードにとって不幸と言えた。
「やはりフォードは温いな。等級は勝っているが、魔力、俊敏、知性の値がメリルに劣っている。体力は同等。腕力に至っては同じときている」
人の能力を数値化して宙に表す魔術具の水晶を見て、父ソルゴスが嘆息を漏らす。
兄妹の能力値は同年代を軽く凌駕するものだったが、やはりフォードを評する両親の目は厳しい。
「フォードは凡庸だ。いずれメリルに追い抜かれ、共に戦う事も難しくなるだろう。そうなるとメリルの才能が潰れかねん。凡才は天才を殺す。忌まわしき事態だな」
「ねえ、あなた。フォードにはメリルとの共闘を禁止してもらえないかしら。このままではメリルの成長にも支障をきたしてしまうわ。あたくし達の手で、慈悲を与えましょう?」
「そうだな。この数ヶ月、フォードの才能の『開花』を期待したが、それもない。凡庸者はオルトレール家にいらん。メリルこそが我が伯爵家に相応しい」
冷酷な結論は下される。こうして、不幸にも天才の器を持ちながらも、フォードは『不出来』の烙印を押されてしまった。
† †
「どうしてなのですか! 父上! 母上っ!」
翌朝。フォードの悲鳴が屋敷に響き渡る。
悲しい旋律が、父の書斎の銀細工を震わせていた。
「――いま言った通りだ、フォード。貴様は我が伯爵家に相応しくない。能力値、戦闘のセンス、器量、将来性、全てが凡庸。我が家に落伍者はいらん。貴様は今日よりメリルと接触する事を禁ずる」
「そ、そんな……」
あまりにも無慈悲な発言だった。
フォードとしては物心ついた時より、両親の期待に答え、家の歴史に恥じぬよう最大限に努力し続けてきたのだ。
若輩ながら『オルトレールの美兄妹』などともてはやされ、鍛錬も十分こなし、努力してきた。それはひとえに、育ててくれる父ソルゴスと母フラメールの愛に応えるため。
それなのに、まるで犯罪者を見るかのごとく冷酷な瞳で、父も母も、見下ろしてくるのだ。フォードとしては、たまったものではなかった。
「ち、父上、母上……僕は、僕なりに精進してきました。これからも未来永劫、それは変わりません。ですからどうか、妹だけは、メリルとの事だけは、撤回させて――」
「なりません。これよりお前は我が家の一下僕として扱います。メリルとの会話、食事、共闘、一切を許さないわ。一介の召使いに、当主の娘と軽々しく接する機が許されると思って? 思い上がらないで! お前は恥を知るべきよっ!」
「そ……そんな……っ」
悲しみに暮れるフォードは、その言葉に身を震わせた。
「兄様……?」
事情を知らずに、父への用で部屋に踏み込んだのは、メリルだった。
「どうしたのですか、いったい……兄様? それに父上、母上も……何か大事でも……?」
「メリル……っ、いや、何でもない。君は、気にしなくていい――」
「――誰がメリルに軽い口で話していいと言ったのだ!」
「うっ」
部屋の調度品を揺るがすほどの父の大喝に、フォードが震える。
「貴様は一下僕と言ったはずだ。 貴様にはメリルと同じ屋敷で住むことも汚らわしいのだ。わきまえよ烙印者!」
「その通りよ。あなたの前にいるのはオルトレール次期当主の才媛だわ。軽々しく発言して、才覚を陥れるのはやめなさい!」
「嘘です……そんな……父上、母上……っ」
親の優しい感情も、労る気持ちもまるでなかった。
フォードに向けられる視線と言葉は、まるで罪人を前にしたような、厳しいもの。
昨日とはあまりに違う両親の様子に、メリルが戸惑うのも無理ないだろう。
「兄様……? 父上、母上、これはいったい……」
「お前は私達の言う通りにすればいいのだ、メリルよ」
「そうよ。この場はいったん引いて? また改めてお話をしましょう?」
メリルは言葉も告げずに困惑している。それはそうだろう、父と母が怒りに満ち、兄を犯罪者でも見るかのような剣幕で怒鳴りつけるのだ。それは最も見たくない光景の一つに違いない。
けれど、その妹の怯えようを見て、フォードは幾ばくかの平静さを取り戻す。
それは、せめて妹の前では毅然とした兄でいたいという、強い願望からだった。
「……父上、母上。判りました。そこまでおっしゃるならば僕にも考えがあります。僕を落伍者とする前に、機会を下さい」
「機会だと?」
「はい。僕にメリルほどのと才覚がないと判明すれば、僕はこの場を下がります」
「ほう……? そこまで言うからには、聞いてやろう。慈悲だ。言ってみるがいい」
フォードは、唾を飲み、挫けそうになりそうな心を鼓舞して言い募る。
「『雷紋剣』の裁定を行わせて下さい。その結果次第で、僕は下がります」
雷紋剣――それはオルトレール家に代々伝わる、家宝の魔術具である。
持ち主の等級や潜在性に応じて、強さが変わる変幻剣。
凡庸の才覚しか持たない場合にはただの麻痺剣と化し、最高の才覚を持っつ者には、天空より稲妻を操る力を与えられる名剣である。
つまりフォードが雷紋剣を用いて稲妻を操れば、彼は才能ある者として認められる。
もしくはメリルと同じ難易度の技を引き出せれば、彼女と同等の能力者と判明する。
家宝である剣に、全てを託す――フォードは、それに賭けに出たのだ。
「……よかろう。フォードよ、我が家宝の裁定に身を委ねようというのだな? ――おい! 召使い!」
使用人に命を放ち、一同は庭の中央広場へと移動する。
人が万人ほども入る大広場だ。幾多の歴代当主の彫刻が立ち並ぶその広い庭で、裁定は行われる事となる。
召使いによって家宝・雷紋剣が部屋に持ち込まれる。家紋の入った美麗な宝箱から取り出される、家宝・雷紋剣。
刀身は天の星のように壮麗で、角度によって橙、黄、黄金と色を変える煌きの剣。
それを、フォードは恭しく手に取り、正眼で構える。
「――行きます」
両手を美しき柄に添え、軽く握る。
己を精神を研ぎ澄ませ、最高の結果が出るよう祈る。
――どうか、運命の神レクリクシアよ。僕に幸福を。
――メリルと話せない毎日なんて地獄です。どうか、英断を。
天高く、祈りながら雷紋剣を掲げるフォード。
しかし――その刀身から放たれたのは、わずかな紫電のみだった。
「そんな……」
他には何も出てこない。それで、全ては裁定された。フォードは才能なき凡庸者。メリルと言葉を交わす事もおこがましいと。そう判定が下されたのだ。
「これで決定したな。残念だがフォード。誓いは守ってもらうぞ」
重々しくそう告げる父、ソルゴス。
じつは、雷紋剣の特性として、持ち主の精神状態も多大に加味されるのだが、この時、フォードは父母に貶められ、精神状態は最悪であった。
そのうえ両親共に微塵も期待をかけていない様子だったため、実力の一割も発揮できていない。
更には、もしも妹と離れ離れになったどうしよう――それは嫌だ、絶対に嫌だという不安の心が、フォードに最悪の結果をもたらしたのだった。
しかし父ソルゴスも母フラメールも、その事をまるで汲まなかった。
「お前に雷紋剣は扱いきれぬ。フォード、貴様の才覚は証明された。――さてメリルよ、真なる才覚を見せてやれ。オルトレール家を継ぐに相応しい才覚とはいかなるものか、この場で、兄との決別のために、示してみせよ」
「そんな……嫌ですわ、わたしは……」
メリルは拒絶したが、親であり、歴戦の探索者でもある父母の凄みに逆らえるはずもなかった。
涙を流しながら、嗚咽しながら、フォードの眼の前で、メリルは雷紋剣を解き放った。
黄金の流星のごとき雷鳴光が、天空へ迸る。
それで決まりだ。メリルは最高の才能の持ち主として、見事に雷紋剣の力を発現してみせたのだ。
メリルも、この時は最低の精神状態だったが、それでもなお雷紋剣は『最高の資格』と判断し、その力を発現させていた。天空を彩る荒々しい黄金色の雷鳴光は、メリルの天才を示す確固たる光景だった。
「決まったな。フォード、これよりお前はメリルと対等ではない。従者だ。彼女の才能を支え、飛躍させるため、影から仕えるが良い」
「……く」
「そして、訂正しよう。お前とメリルの会話を禁じたが、従者としてのみ、会話を許可する。ただしそれは相応の口調を用いてだ。軽々しい言葉は絶対に許さんぞ」
「……わかり、ました」
† †
「メリル様、お召し物が汚れてございます。こちらにお渡ししてくださいますよう」
「剣に歪みはございませんか。訓練用の新しき物をご用意いいたします」
「お食事の時間にございます。僕が責任持って、毒味を――」
「やめてください、兄様っ」
悲しそうに叫ぶメリル。その目尻に、涙が伝っていた。
あれから一年。フォード十六歳。メリル十五歳の春。
来る日も来る日も我慢を重ねていたメリルだったが、ついに絶えきれずに言い募る。
「兄様、こんなのあんまりですわ。兄様は何も悪くないです。ずっとずっと父上たちのため頑張ってきたのに……それなのに……」
「……仕方がないのです、メリル、様。僕は乏しい才能と判断された。父上と母上に逆らうことなどできない。今は耐えるしかないのです」
父と母によって、フォードは従者としての日々を送った。
教育も受け、メリルの従者として正しい規範的なふるまい、言葉遣い、態度、仕草等を教え込まれた。
本心ではもちろん抵抗したかったが、妹と引き離されることだけは嫌だった。いつか機会があると信じて、両親の気持ちが変わると信じて、今は耐え続けていた。
「僕だってこんなのは嫌です。でも父上と母上の態度は判ります。あの態度は僕に期待を寄せているからこそ。僕が結果を出し、父上と母上の目を覚まさせれば、活路はきっと切り開かれる」
「でも……こんな、兄様に苦難を……」
目元にいっぱい涙をためるメリルに、努めてフォードは笑顔を作り、その柔らかな手を握る。
「いいですか、メリル、様。僕は密かに鍛錬を試みます。強くなれば状況は変わる。あなたには、その助けを頼みたい」
「でも……」
「大丈夫。二人でなら、どんな苦難も超えられるはず。これまでもそうだったでしょう?」
妹を安心させるように微笑むフォード。その姿を見て、兄の気高い思いを見て、メリルも覚悟を決める。
「わかりましたわ、兄様。乗り越えましょう。わたしたちの手で、苦難を」
「そう、その意気です……メリル、様」
密やかに、屋敷の片隅で抱き合うフォードとメリル。
誓いを交わし、以後、二人は密やかに鍛錬とその助けをすることになる。
† †
しかしそれでも、フォードとメリルの差は埋まらなかった。
フォードも隠れて強さを磨いたが、それと同等以上にメリルは強くなっていた。
意地悪な運命の女神は、まるで二人の仲を引き裂くように、彼らを惑わせた。
季節が巡り、一年が過ぎ、フォードが十七歳、メリル十六歳となっても、彼らの関係は変わらないままだった。
ゆえに、ついにメリルは、愛する兄のため、強硬策へと出ることになる。
「兄様、寝てるわ。よほど疲れているのね……」
ある日、メリルはフォードを薬で眠らせ、屋敷の外へ連れ出した。
暗く寒い冬の森だった。
周囲に人気はなく、風もない。満月だけが天空を彩る暗闇の夜。
密かに従者へ運ばせた馬車に兄を連れ、雇った御者に指令を放ち、屋敷より遠く離れた森林を兄妹は駆け抜ける。
「兄様……もう心配はありませんわ。あなたが不幸になるなんて、許せない。わたしは、わたしにできる事をします」
兄はますます精悍な若者として育ち、メリルも見目麗しい娘へと成長していた。
メリルは社交界ではダンスの相手として、または凛々しくも強い女性として、メリルは名だたる王侯貴族から求婚されていた。
それでも、父母の命により、フォードが『兄』ではなく、『従者』として扱われることに、メリルはもう耐えられなかった。
「兄様、一緒に屋敷を出ましょう。そしてこの国も出ましょう。大陸を出て新しい街に着いたなら、今度こそわたしたち、普通の兄妹として過ごすのです」
主と下僕である歪んだ関係ではなく。
兄フォードと妹メリルとして、当たり前の日常に戻りたい。
優しくて頼もしい兄と、華やかなで大人しい妹。
誰にもはばかる事のない、いつまでも幸せな日々。
今度こそ、取り戻すのだ。二人だけで――。
「兄様……兄様……」
愛おしそうに、馬車の中、眠るフォードの髪を撫でるメリル。
はじめは困惑するかもしれないが、兄はきっと判ってくれるはず。
歪んだ二人の関係は、新しい兄妹としての日常で取り戻せばいい。
たとえ一年掛かっても、五年掛かっても、それ以上掛かっても――メリルはずっと兄のそばで、付き添い続ける覚悟を背負っていた。
けれど――
その想いは叶わない。
夜の森の、うらびれた広場。
草木が途絶え、不気味に瘴気が飛び交うその場所で――。
真っ青な悪魔が、彼らの前に立ちはだかっていた。
蒼く輝く体に氷で出来た翼。尾が猛々しく三叉に伸び、その総身は冷気に覆われている。
周囲が凍りつくほどの冷気を引き連れて、氷結たる悪魔は、紅い相貌で睥睨していた。
馬車の御者が、驚愕に目を剥く。
「ば、馬鹿なっ、Sランク悪魔『コキュートス』!? 魔物がなぜ《迷宮》の外に――」
運悪い馬車の御者が、悪魔の爪によってバラバラに引き裂かれた。
咆哮が、満ちる。
冷気を吹雪かせて、死神の鎌のように翼を広げ、嬉しさに悦ぶ冷帝の悪魔が、爪牙を翻す。
「兄様っ!」
メリルは、悪魔を相手に必死に戦った。
生家より持ってきた雷紋剣を抜刀――風のように馬車から跳躍し真っ向から全精力でもって叩きつける。
「闘技『セイントクロス』! 『アストラルサークル』! 『フライベルソード』!」
渾身の力を込めて放った攻撃だったが――剣技も、魔術も、何も通じない。
屋敷から持ち出した最強の剣の力を全開放しても倒せない。
メリルはその時点で等級三十三に達していたが――。
その凍てつく悪魔は、等級八十六という化物だった。
もしもフォードが目覚めていたとしても、敵う相手ではなかっただろう。
メリルは、剣を弾かれ、鎧を砕かれ、そして腹部を爪で貫かれ――倒れ込んだ。
「メリル――っ!」
冷気吹きすさぶ中、フォードの叫びが響く。
戦闘音によって眠りから覚め、フォードが起き上がった時は、全てが終わった後だった。
メリルの反撃に一時的に撤退した悪魔。
しかし代償として、腹部を貫かれた妹は、もはや虫の息だった。
美しかった金髪は乱れ、白い肌は赤く深く染まり、真っ赤な血の池の中で「ひゅう、ひゅう」とかすれた息だけが夜気に漏れていた。
「あ……あ……」
血まみれになった妹を抱き起こしたフォードは、蒼白な顔を抱きしめる。
「そんな……メリル……あぁ、ああぁ……っ」
「泣か、ないで、兄様……わたし、大丈、夫だから……」
命が消え行く感覚。
もうろうとするメリルの意識。
震えて最後の命の欠片をこぼしていく最愛の少女。
月夜と冷気の舞う森の中で、フォードは涙をとめどなく落としていく。
けれど、少女は懸命に笑顔を作り、大好きな兄へ微笑む。
「わたし……兄様を、連れ出せて、良かった……もう、二人で暮らすことは、できない、けれど……だけど、兄様を縛るものは、もう、ないから……」
「しゃべらないでくださいメリル! 血を止め……ああそんな、腕が……っ」
メリルは四肢のうち三つを失っていた。
けれど大きな変化として、フォードの口調が、変わっていた。それはわずかな変化だったが、フォードは他人を敬う口調のままだったが、メリルはその中に、自分を妹として呼んでくれた事実に、嬉しくなる。
――兄様が、わたしの名を呼んでくれた。
――良かった。
――最後に、わたしを呼んでくれて。
――わたしの命は、いま、ここで尽きるだろう。
――けれど、それでも構わない。
――兄様は少しだけ、以前の兄様に戻ってくれた。それだけで、わたしは命を賭けて、戦った価値がある――
メリルの心にはもはや未練はない。兄を少しだけ元に戻せたこと、自分を妹として呼んでくれたこと。それだけが天国への小さな花向けだった。
「あぁ、メリル……いやだ、逝かないでください……っ」
血反吐を吐き瞳から光を消しかけている妹に、必死でフォードは叫ぶ。
「平気……兄様、わたし、は、」
これまで兄妹で過ごした、あらゆる記憶がメリルの脳裏で流れる。
花畑で花かんむりを作って笑った。
怖い話で兄に抱きついて泣いた。
寒風吹きすさぶ迷宮の奥地で、肌を温めだった事もある。
どれも失いたくない、大切な思い出。
けれど、もう自分がしてあげられることはないから。
兄に、大好きな兄に、妹としてできる最後のことは、たった一つだけだ。
「兄様、これ、を……」
メリルは、家宝である煌剣を兄に託した。
「メリ、ル……?」
「雷紋剣……わたしはもう、使えないから……兄様が、持っていて……もしも、兄様へ悪い事する人が、いても……これがあれば大丈夫。わたしの、祈りが、願いが、想いが込められているから……どうか、兄様……これをわたしと思って、使って……」
「嫌だ! 僕はまだお前に何もできていない! 恩返しもできない! 僕たち兄妹はずっと、一緒のはずでしょう? そんな縁起でもない事、言わないでください!」
「わたし、兄様の妹で、幸せでしたわ……大、丈夫です……兄様を、独りには、させません……ずっと一緒……だから、わた、しが……兄様を、守っ……――」
そして、それが妹の最後の言葉だった。
少女は凍てついた森で、血に染まった池の中で、静かに事切れていた。
人形よりも無機質な塊となった妹。
白を通り越して色を失った体。
「あ……あ……あ……」
安やかに微笑んだまま逝った少女を抱えて、フォードは身を震わせる。
「メリル? そんな……嘘……いやだ、メリル、メイルメリルメリルメリル……っ、――うわああっ、あぁぁぁあああああああああああああああぁぁ―――――――――っ!」
闇夜と冷気の森の中。妹の亡き骸を抱えて、フォードは声が枯れるまで、絶叫した。
† †
「――、……」
やがて、どれほど時が過ぎたのだろう。
妹の遺体を抱いていたフォードは、ゆるやかに立ち上がった。
右手には、妹が託してくれた雷紋剣。
左手には、かすかに残った、妹の体の冷たさ。
「……、――、……僕は」
まるで幽鬼のようにふらふらと歩くフォードの前に、森の奥から、人の気配がなだれ込む。
「よお兄ちゃん、どうした? 遭難かね? 俺たちが面倒をみてやろうか? ひひ」
ゲラゲラと笑う十数名の男たちは、野盗だった。
人の命を奪い、人の宝を盗み、災禍を振りまく外道の人間。
嘲るようなその瞳が、ふと、美しい骸となったメリルへ向けられる。
「おい、なんだ可愛い娘じゃねえか! 剥製にしよう! 貴族に売って大金を――」
「だまりなさい」
一閃、だった。
フォードが右手にした雷紋剣を無造作に振り回した瞬間、雷雲が天空に広がった。
天空から恐ろしい程の轟音と共に幾重もの雷が飛来し、野盗どもを跡形もなく消し飛ばしていた。
かすかな紫電の名残の中、フォードの瞳には怒りも絶望もなかった。
ただただ胸の中を埋め尽くすのは、妹の遺してくれた、最後の言葉だった。
――兄様を独りにはさせない。
――わたしたちは、魂までずっと一緒――。
「そうですね、メリル。僕はあなたの分まで生きます。探索者として、一流になります。それが僕に託された想いであり、僕の生きがいです」
フォードは妹の亡き骸を森の土に埋める。丁寧に、優しく、愛情を込めてフォードは埋葬した。
そして、立ち上がる。雷紋剣と、新たな決意を手にして。
彼は、新天地へと、旅立つのだった。
【フォード 十七歳 伯爵家の長男 レベル36】
クラス:双剣使い
称号:『最愛の人を亡くした者』(HPゼロ時、高確率で生き残る)
『克己者』(習得する経験値が通常の1・5倍となる)
体力:354 魔力:339 頑強:345
腕力:351 俊敏:367 知性:385
特技:双剣技Lv9 投擲術Lv7
装備:伯爵家の絹マント 伯爵家の銀篭手 伯爵家の軽鎧一式
雷紋剣〈メリルの加護Lv1〉