黒豹部隊の新人隊員。
『……あれ』
爽やかな朝日。
小鳥のさえずり。
柔らかく、お日様のニオイがする布団。
しかし、目の前に広がる天井には見覚えが無く、ただよってくるニオイにも覚えが無い。
『部屋……間違えた……? 私の部屋じゃない……まあ、いいか』
この世界に来た時から、目が覚めたら自分の部屋にいるのではないかと、何度もそう思った。
そのたびに裏切られ、落ち込むのだ。だからユキは自分の心を守ることにした。
あまり深く考えては深みにはまってしまう。一度でも帰りたいと思ってしまったら、生きるのが辛くなってしまう気がしたのだ。
なぜか、二度とあの懐かしい世界には戻れない気がした。
「……お腹、すいた……」
ゆっくり体を起こしてまず感じたのが眩暈。そして重い頭。
「ん、風邪……? じゃ、ない……お腹すいた……?」
頭を軽く振れば、そんな体調不良も気にならなくなる。
本当にお腹がすいていただけかと呆れながら、ユキは小さくため息をついた。
ところで、ユキはなるべく独り言を教えてもらった言葉で話すようにした。その方が早く覚えるような気がしたのだ。とは言ってもまだ昨日の今日なので、寝起きは日本語になっていたが。
「この世界は、ガラジョーナ。国の名前はデヴォル。海に囲まれた一番大きな帝国」
ポツポツと昨日教えてもらったことをつぶやく。
そこで根本的なことに気づいた。
「……あれ、私、なぜここにいる? いつから寝た、わからない。昨日、歩いてた。いつからここに?」
ヤクーに出会って気を失ったであろうことはなんとなく覚えている。
あのあと、誰が運んでくれたのだろうかと悩んでいると、扉がノックされた。
「はい! 開ける、大丈夫……!」
慌てて飛び起きて頭をなでつける。
それと同時に服装を確認すれば、昨日着ていた服となんら変わりはなかった。ますますいつ戻ってきたのかわからない。ベッドに入った記憶がないのだ。
「おはよう、ユキ。ああ、やっぱりそのまま寝たんだね。大丈夫?」
「グラスさん! おはよう、大丈夫……大丈夫? わからない。体は元気。頭、わからない、いっぱい」
グラスは苦笑すると、手に持った朝食をユキに渡して座らせる。
「昨日は俺がここまで運んだんだ。これは君の分の朝食だよ。本当は食堂に案内しようと思ったんだけど、良く眠っていたから起こさなかったんだ」
ごめんね? と笑うグラスに、ユキは思いっきり頭を振って答えた。
「ありがとう! 助かりました!」
「どういたしまして。今話したの、全部わかったの?」
「あ~……ごめんなさい、全部、わからない。今のは助けてくれて、のありがとう。ご飯は……これは、私の?」
「アハハ、そうだよ。食べな」
「ありがとう! ご飯も、ありがとう!」
キラキラとした笑顔のユキを見て、グラスは小さくふき出した。
「それを食べた頃にまた迎えに来るよ。それまでに外出の準備をしておいて?」
「食べた……? 食べる? グラスも? 外出……がい、しゅつ?」
「いや、俺はもう食べたよ。ユキがご飯を食べるのが終わったら、もう一度、ここに来ます。わかった? お出かけするよ。外に行く」
「……もう、一度? ああ! わかった! 私、早く、食べます。大丈夫!『外に行くのね。どこに行くんだろう』」
「『ソトニイクノネ』……? えっと……最後の意味はわからなかったけど、そんなに焦らなくて大丈夫だよ。じゃあ、またね」
手を振って出て行くグラス。
その背中を見送りながら、ユキはいつもニコニコ笑っているグラスにいたく感動していた。
「私、言葉、下手。でもグラス頑張って聞いてくれる。優しい」
ナンのような物にはさまれた野菜と肉を食べながら、ユキは満足げに笑みを浮かべた。
* * * * * *
「よお、遅い出勤だな新人」
朝食を食べ終え、再びグラスが迎えに来た後のこと。
昨日と同じ男臭い部屋に行くと、ニヤニヤ笑うヤクーが出迎えた。思わずユキは顔をしかめてしまう。胃がグッと重くなり、小さくため息をついてしまう。しかし運のいいことに、そのため息は誰にも聞かれることがなかった。
「あんだよ、その顔」
「あーら、アンタを警戒しているんでしょう? まともな判断だわ。聞いたわよ。昨日イジメたってね」
「別にイジメちゃいねぇさ。なあ? ああ……言葉なんざ、まだわかンねぇか」
「……少し、わかる。変だけど、昨日より、わかります」
その言葉に、部屋にいた全員がキョトンとした顔をする。ユキも少しおかしいとは感じているのだ。
昨日教えてもらったのは、あくまでも簡単なやり取り。それこそ“My name is Yuki.”とかそんなレベルである。なのに言葉がなんとなくわかるし、少しだが話せるようになっているのだ。
「吸い取った魔力か」
部屋に低音が響き、視線が集中する。
眠そうな顔のまま入ってきたのは、酒のにおいを漂わせたシンだった。
「やだ、くさっ! ちょっとシン隊長! アナタまた朝まで飲んでたの?」
「吸い取った魔力から自分に必要な知識まで吸いだすとは、無色ってのは随分と高性能だな」
眠そうに言うと、シンは手に持った資料の山を音を立てながら机に置く。
その資料は過去に現れた無色の観察記録で、睡眠もとらずに調べていたのだ。酒を飲みながらではあったが。
「吸い出す……? 意味がわからないんだけど」
「キャッツ、少しは自分で考えろ」
ぞんざいな言い方に顔をしかめるキャッツを無視したまま、シンは引き出しから煙草を取り出して火をつけた。
「魔力から言葉や記憶を吸い出して利用してやがる。そんなマネができる無色なんざ、過去現れたことがねぇ。しかもその魔力は、向けられたものだけではなく通りすがりの奴らからも勝手に吸いとっているときたもんだ」
「じゃ、じゃあ……生きているだけで、その場にいるだけであらゆるものを吸い取ると言うことなの?」
「ああ。これがコイツをウチの隊に入れた理由だ。こいつは何が何でも他国に盗られることは許されねぇと国も判断した。つまり――……」
(あれ……なんだろう……視界が、ぼやける……お腹すいてないのに……)
ため息とともに吐き出された煙草の煙が、部屋に広がっていく。
口だけではなく鼻からもあふれるその煙を見て、グラリとユキの視界が揺れた。周りの音が、段々遠くなっていく。
「規格外の化け物の世話を、国に押し付けられたってことだ」
「……あの」
小さく発せられたユキの声に、みんなが注目する。
ユキは室温に見合わない汗をかいている。そしてどこかフラフラしており、どう見ても体調不良であることがすぐにわかる顔色だ。
「あ、あの……なんかっ……なん……変……ごめんなさい」
そういうと、その場に膝を付いて崩れ落ちた。
「え!? だ、大丈夫かい!?」
慌ててグラスが駆け寄ろうとしたその瞬間、グラスは何者かによってグイッと襟を誰かに引かれ、床に転がる。
ここでぶざまに転がってしまうのが、“黒豹部隊とは言えない”と馬鹿にされる所以なんだろうな、と他人事のように、そして冷静に思ったまま、グラスは大人しく床に転がった。
「いてっ」
そう声をあげたと思った。
しかし実際は強大な爆発音にかき消されたのと、目を潰す勢いの閃光に全てを奪われていた。
閃光の直前にシンの引きつった笑みが見え、『ああ、襟を引いたのはこの人か』と思ったのもつかの間。一瞬にして失われた聴力と視力をなんとか回復させようと、魔力を集中させる。
「……へ?」
状態異常がようやくおさまった時に間抜けな声を出してしまったのは、決して自分が平凡だからではないと思いたかった。
グラスはズレたメガネを元に戻すのも忘れ、青空の下で床に転がっているという状況までは理解できたものの、それ以外は何も理解できないままだった。
「くそったれ……結界張ってこれかよ!! いってぇーな!」
ヤクーのがなる声が聞こえる。
「やーだ! お気に入りのブランケットが燃えちゃったじゃないのぉ!! 魔力放出!? 今の魔力放出なの!? なんでいきなり!?」
「全部は出してねぇらしいな。まあ、赤ん坊から顔面にくしゃみされたと思って諦めろ」
「全部じゃない!? 全部じゃないのにこの威力なわけ!? 上等じゃない、ぶっ殺すわよ!!」
「僕の机、なくなったんだけど」
グラスの目の前には、肩で息をしながら座りこむユキと、文句を言いつつも平然と立っている同僚達と、ユキのアゴをつかんで様子を見ているらしい隊長と、それから屋根が吹き飛んで青空が見える職場しかなかった。