血は踊る
「……はあ……はあ……」
月が雲間からその姿を現す。
暗い森の中が一瞬明るくなり、その月明かりで、隠れていたシンの姿があらわになる。
「……チッ。傷が開いたか」
シンは疲労していた。
血があちこちににじみ、黒い衣服を濡らしている。滴る血はジワジワと地面に広がり、あたりに濃厚な匂いを漂わせていた。
任務に出て1週間と1日が経った頃、シンはこの森の奥でヌーラと出合った。街で見たヌーラとは違う姿をした彼は、時折溶け落ちそうになる体を支えながらシンの方へ前進してきた。
切り伏せて終了かと思いきや、思わぬ反撃にあって怪我を負ってしまったのだ。その際に怯えた伝令鳥が飛び立ってしまい、連絡をよこす手段をなくした。仕方なしに魔力で作った伝令鳥を王都へ飛ばすことができたのは、任務が始まって2週間ほど経ってからだった。
一緒にいた騎龍のシェリーは転移魔法でどこぞへ飛ばされ、シンはなすすべなく地面を移動している。
そして夜になると、恐ろしい鬼ごっこが始まるのだ。ヌーラは、確実にシンを仕留めにきていた。
「あの野郎、鬼が自分だと勘違いしてやがる」
シンはマントを切り裂くと、太ももに巻きつけて止血した。
「鬼は、俺だろうが」
森の奥。暗闇をにらみつけながら、シンは荒い息でゆっくり立ち上がった。
* * * * * *
「えー! じゃあシンは付き合っている人がいるってわけ!?」
結局、ユキたち一行は行商人と一緒にムーンの村まで行くことになっていた。
龍に乗ったまま行商人の隣を歩いていれば、退屈していた行商人の娘がシンについて質問をし始め、それにグラスとユキが答える形になっている。ヤクーもキャッツも鬱陶しそうにしており、キャッツなんかはシッポをバタバタと腹立たしげに打ち付けている。
レディスは完全に無視を決め込み、しばらくは大人しく爪をいじっていたが、やがて耐え切れなくなったのか『夜の見回りをしてくるわ』とだけ言い残して飛び去っていった。
「んもー! なんで私が行くまで待っていないのかしら! 男の人って駄目ねぇ」
「…………」
火を囲みながら、据わった目をしているユキをグラスがなだめる。
それを見て、行商人の娘は初めてユキの存在をまともに目に入れた。
「ねえ、あなた名前は?」
「……ユキと申します」
「そ。私はオシャンベリー」
そう言ったきり黙りこみ、オシャンベリーはジッとユキのことを見つめた。
「……何か?」
「あなた、シンの恋人?」
「は?」
「やだ、適当に言ったのに……顔、真っ赤じゃない! シンったら男の人と付き合ってるわけ!? ほんっとに……まあ、男なら安全ね。火遊びと思って許してあげるわ」
「…………」
「お、落ち着いて、ユキ」
剣呑な空気を感じたグラスがユキを抑えれば、『落ち着いてますよ』と低い声が漏れた。
先ほどまで興味を持っていなかったヤクーとキャッツも、面白そうな顔をしながらユキを見ている。
「私、負けないから。あなた、確かに珍しい顔だし男にしては可愛いけど、私の方がシンのことをよく知っているもの」
「それは過去のですよね。私は最新のシンさ――シンを知っていますので」
「んまー!」
顔を真っ赤にしてプリプリ怒るオシャンベリーを見て、ユキは少しだけ溜飲が下がる。
「ああ、そうだ。ユキ、ちょっと」
グラスに呼ばれて火元を離れれば、後ろから『あら、逃げるの? いいのよ、別に』と聞こえてきた。思わず足を止めれば、グラスが『いいから、いいから』と苦笑してユキを押しやる。
そうして不機嫌なユキを森の木陰まで連れて行くと、グラスは真面目な表情でユキの顔を覗き込んだ。
「体調は?」
「今のところ特には……」
「そう」
短く言うグラスの顔には、心配げな色が浮かんでいる。
それを見て、今度はユキは苦笑した。
「悪くなったら、すぐに言います」
「ん。アザ、見せて?」
素直に顔を上げて首を見せる。
しばらく触って様子を見ていたグラスの顔が、少しだけ曇った。
「少しだけど、広がっているな……本当に体調は悪くないのかい?」
「ええ。痛みもかゆみも……だるいとかもないですし」
「……そう、か。まあ、とにかくあまり無理をしないように。君は女の子なんだから」
「ありがとうございます。でも、そんなに心配しなくてもいいのに」
ユキはクスクス笑う。何か言いたげなグラスを残し、ユキはまた行商人たちの元へ戻っていった。
その背を見ながら、グラスは呪の進行が遅くなるようにと願わずにはいられなかった。
* * * * * *
「あれ……」
真夜中。
寝てもいいと言われ、お言葉に甘えてユキが寝ている時のことだった。
目の前に、誰かに触ったときのような映像が観えている。
「……これ、は……誰の記憶?」
遊牧民のテントのような場所。中央では火が焚かれている。テントの柱の陰になっていて気が付かなかったが、そこには男の子と老人がいた。
「シン……さん……?」
その男の子は、シンを触ったときに観えた男の子であった。
『じい様。御用でしょうか』
『よく来たな。龍の愛する子』
“龍の愛する子”
これを聞いて、ユキはベンジャミンの言葉を思い出していた。シンには龍になる資格を持った男だったと言っていた。もしかするとこれはシンの過去ではないかと思う。
(シンさんには触れていない……なぜ記憶が……で、でも……記憶が見えるってことは……たぶん、生きているってことだよね。死んだら記憶は消えるもの)
『お前は我が一族の中でも最も始祖の力の濃い男……将来はこの龍人一族を背負っていく者となろう』
『……じい様、俺は……外に出たいです』
『それはできない。できないのだ、シンよ』
『……どうしてですか』
『龍から離れてはいけない。我々は龍に最も近い人……龍の恩恵を受けながら、自由になるなどありえないのだ』
映像にノイズが混じり、やがて消えていく。
しかし、ユキの心臓の高鳴りは収まることがなかった。いつの間にか開けていた目は、行商人から借りた馬車の天井を映している。
「龍……に……一番、近い一族……?」
大きく息を吐き出し、ユキは馬車を出た。
川のそばにとめていたため、馬車を出るとかすかに水音がする。それを追って行き川辺まで来ると水を少しだけ飲んだ。
「はあ……」
もしあの過去が本当であるとしたら……とユキは思案する。
もし、あれが本当にシンの過去であれば、何か恐ろしいことが起こるのではないかと思った。
龍は人になれない。これは、龍を見ていればわかる。逆も然り、だ。そして恐らくは、この世界で唯一人型と龍型の姿を取れるのが、黒龍でもあるユキの存在。しかし、あの映像がユキの頭を混乱させていった。
「……わからない」
一体、シンの家族はどこにいるのだろうか。