囚われた者。
「ニーレイ……俺のニーレイ……」
狭い部屋の中。
ニーレイは壁に磔にされ、ぐったりとしていた。意識はある。しかし、どこかボンヤリとしていて思考がまとまらない。
「ああ、愛しのニーレイ……ようやく俺の手に……」
ヌーラは、ニーレイの首に、鎖骨に、頬に舌をはわせると、喉の奥で小さく笑った。
「俺は君が男か女かなんてどうでもいいんだ。でも女になってくれたんだね。これで、子供も生めるというわけだ。俺との子が欲しかったんだろう? 俺もだよ、ニーレイ」
力任せにニーレイの胸元を引っ張り、布の裂ける音が部屋へ響いた。
「なんて美しい体……他の奴の痕が付いているのは許せないけど……それも俺のため、なんだろう? 俺がどこに行ったかわからなくなったんだな。派手なことをして、有名になれば俺が出てくると考えたってわけか。可愛いな、ニーレイ」
服を破られても、動かないニーレイ。
その頬をつかみ、ヌーラは瓶の中の液体を無理やり飲ませた。その口から液体が溢れるのを見ると『ああ、1人じゃ飲めないのか』と言って口移しで飲ませる。
ヌーラは液体がなくなってもなお口をあわせ続け、しばらく後に満足そうな顔でニーレイから離れた。
* * * * * *
「それで、どうやって廃屋に入るんだ」
「正面突破に決まってんだろ」
「まあ、そうだよな」
「…………」
ユキは2人をアホだと思った。
この時ほどグラスがいればと思ったことはない。
どこの馬鹿が人質を取られた状態で正面から乗り込むのかと怒鳴りたくなり、その瞬間に悟った。
自分は今、グラスの代わりなのだと。
「わ、私が頑張らねば……」
「あ? なんか言ったか?」
のんきなヤクーの問いにため息をつき、ユキは恐る恐る提案をする。
「あのですね。人質がいる以上、うかつな行動は人質の命を脅かすのではないでしょうか」
ポツリと呟けば、目の前を歩くシンとヤクーがピタリと止まる。
そして2人で顔を見合わせ、再びユキの方へと向き直った。
「お前、結構考えてんだな」
ヤクーの一言にピクリとユキの顔が引きつる。
「まあ、俺らの――黒豹部隊のやり方を見てろって。人質が1人くらいなら、正面突破しても大丈夫だから」
「な、何を根拠に……」
「俺らを誰だと思ってんだ? 世界最強の黒豹部隊だぞ?」
「……んもー……どうしよう……この自信が身を滅ぼさないといいんだけど……」
若干の不安を覚えながら、ユキは2人の後についていく。
目的地が見えてきたのは、それから5分もしないうちだった。廃屋の代表みたいなたたずまいに、ユキは生唾を飲み込む。
「な、なんか出そうですね……」
「なんだよ、ビビッてやんの」
おかしそうに笑うヤクーをにらみながら、ユキは小さく深呼吸した。
「それで、私は何をしたらいいのでしょうか」
「シン隊長に近づかないように端っこにいろ。全てが終わったら人質のフォロー」
「シンさんに近づかない……? どういうことですか」
「見てりゃわかる。わかれば近づけもしねぇ」
その言葉を聞いて反射的にシンを見れば、すでに目は廃屋をにらみつけ、薄ら口元に笑みが浮かんでいた。
「ヤクー」
「はいよ」
2人がそう言った次の瞬間、屋敷全体に赤黒い魔方陣が展開される。
それは魔方陣が展開されるとき独特の音を響かせながら、何重にも展開されていった。屋敷全体を覆い隠した魔方陣は、グルグルと回転しながらその光を強めていく。
両手を広げたシンの手は、ほとばしる魔力が具現化してバチバチと音を立てている。それが見えたと思った瞬間、辺りはなんとも言えない緊張感と居心地の悪さに包まれる。
「これは……」
「シン隊長お得意の拘束魔法だ。これを発動されたら、龍ですら抜けるのは困難……」
脂汗を垂らしながら、ヤクーは薬品の準備を始めていた。わずかな興奮と緊張が、ヤクーの手を震わせた。
ユキは『なるほど』と頷く。確かに素人目にも凄いとわかる魔法だ。これであれば、この2人が自信たっぷりなのも頷けるのだが、心の隅に『これは人質も怖い思いをしているのでは……?』と若干の不安が残った。しかし、恐らくはニーレイであるから、この少し乱暴とも思える魔法を使ったのだと自分を無理やり納得させる。
「俺は魔法の精度と動きを見ながら、薬品を準備するのが仕事だ。まあ、今日くらい気合いが入ってりゃ精度が高ぇから、そんなに威力が強い薬は使わなくて大丈夫そうだな」
「それは何に使うんですか」
「このエグイ魔法を無効化する薬品だ。これがないと、俺らも動けやしねぇ」
ヤクーは薬を一気にあおると、瓶をしまって頬を何度か叩く。
「よし。おい、ユキ。お前はここにいろよ。合図したら中に来い。そんときは、この薬を飲んでから入って来い」
「は、はい」
「1分だ」
「え?」
「1分で合図を出す。安全が確保できたら、いよいよ敵とご対面だぜ」
ヤクーの目は、薬によって色が変わっていた。虹色に輝く目は好戦的に光っており、薄っすら笑いながら、ヤクーは屋敷の中へと入っていく。
「1分……できるの……?」
ユキが緊張で高鳴る心臓を落ち着かせようと深呼吸をした時、空気が抜けるような音がする。
思わず肩を震わせれば、音の方へ振り向く前に横から現れたシンと肩がぶつかる。よろめいて、シンの顔を見ようと顔を上げた瞬間。
「……っ」
見たのを後悔するくらい、強烈な殺気を帯びたシンの好戦的な表情があった。
まるで相手を殺してしまうのではないかと思うほどの凶悪な顔。
「……シン、さん?」
ユキの問いに、シンは答えない。
ユキは、シンがヌーラを殺してしまうのではないかと思った。
* * * * * *
「シン、か……」
ヌーラは、自らを取り巻く拘束魔法を眺めていた。
それに少し力をこめるも、魔法がとける気配はない。しかし動けないわけではなかった。
「懐かしいな……この魔法は数年前にも味わった覚えがある……あの時は確か、ニーレイを連れて行こうとしていたときだったか? 邪魔をされて酷く腹が立った覚えがあるよ。今回は俺が自ら招いてやったわけだが。同じ魔法を使う辺り、それがどういう意味を持っているのかわかっていないようだ」
ヌーラが辛うじてひとさし指を立てると、その先からスルスルと青色の光が流れ始める。
やがてそれはヌーラを取り巻くようにして、それから光の粒が四散した。
「……どういうことだ。なぜ、解除魔法が効かな――」
「ユキ、来い! 防毒マスクとさっきの薬を飲むのを忘れるなよ」
屋敷内に響くヤクーの声。
「……誰だ……なんだあの声は……シンの仲間か」
バタバタと聞こえる複数の足音を聞きながら、ヌーラは唇をかみ締める。
やがて音を立てて扉が開くのを見て、ヌーラは目を見開いた。
「たった2人か?」
そういうヌーラを見て、部屋に飛び込んできたユキは思わず顔をしかめる。
扉を開けることによって外の光がヌーラにあたる。その姿は、皮膚がドロドロに解け、床にポタポタとしたたるほどであった。
「化け物……」
「化け物? 俺のことか? なあ、教えてくれ。なぜ俺は動けないんだ? これではニーレイのことを抱くことができない」
「ユキ、ニーレイはここにはいねぇ。他の部屋を見て来い。あ、いや待て。ここにいろ。シンがニーレイを探している。向こうは大丈夫だろう」
マスクをつけたヤクーが小声で口早に言う。その手には、かすかに煙を上げている瓶があった。
「薬。それやめてくれないか。なぜか動けなくなるんだが。ああ……キミはもしかしてヤクーか? 噂は聞いているよ。薬品作りがうまいらしいな。闇に活動するものの間では、どうやったらキミの薬品に対抗できるのかと苦戦している」
「へえ、そりゃ嬉しいね」
そういいながらも、ヤクーの目は部屋を見回していた。
「お前、裏の名は“ヘドロ”だろ」
「よく知っているな」
「お前の処刑命令が国からおりている。ニーレイの件はついでだ。だいぶ前から国にマークされてんだよ。分かるか? テメェが処刑される理由が」
「覚えがないな」
「お前……その体、魔物にやったな? 臭うぞ」
ただ話しているだけのはずなのに、部屋には緊張感がただよっている。
ユキは、一歩も動けず立ち尽くしていた。
(こっちにはニーレイさんはいない……だとしたら、シンさんの方が見つけられるかも。ヤクーさんはここから移動することがないから、私は――あれ?)
ユキはある異変に気付いた。動けないはずのヌーラの足が、ジリッと動いているのだ。
これに気づいたのは、ユキだけであった。
(どうして動けるんだろう……)
ジリジリと動く足をジッと観察していると、あることに気付く。
見覚えのある図形がヌーラの足元に出来上がっていた。それは魔法が発動される時によく見るもの。
「……っ!! ヤクーさん、魔方陣です! 足で、魔方陣を描いている!!」
ビクリと肩を揺らしたヤクーが反射的に銃を構えるが、一瞬襲い。
「俺の方が早かったようだ」
ヌーラは魔方陣を完成させ、辺りに暗闇が広がった。
「ユキ! いるか!」
「は、はい!」
「手ぇ出せ!」
暗闇の中、ユキがヤクーの方へ手を出すと、それを握り締める力強い腕。
近くから聞こえてくるヤクーの息遣いに、ユキは少しだけ安堵した。
「いいか、絶対に手を離すなよ」
声が遠ざかっていく。
「……ヤクーさん……? ヤクーさん……ヤクーさんってば……」
暗闇の中、離されることのない手を力強く握り締める。しかし、ヤクーからの返事はない。声はもう聞こえない。
では、今自分の手を握っているのは一体誰なのだろうか、とユキの背筋が寒くなる。
「ねえ、ヤクーさん、どうしたんですか……ねえ……」
その時、パッと電球をつけるようにして周囲が明るくなる。
ユキの手には、ドロドロに溶けた何か。
ゆっくりゆっくり視線を上げると、ユキの手を握っているヌーラの笑顔が見えた。
「うわぁあぁぁあああぁぁぁ!!」
思いっきり手を引くが、物凄い力で握られたその手は離れない。
ヤクーはいなかった。
「お前がシンのお気に入りか。俺のお気に入りはニーレイなんだ。シンがニーレイを取り上げるなら、俺がシンからお前を取り上げても問題ないよなあ? そうだろう? ユキ」
ヌーラの顔が、ヤクーに変わった。
「……ヒッ」
「上手く化けられるものだろう? この体は分裂することもできるんだが、あの男は何を握って逃げたんだろうなあ?」
ヌーラの笑みが、濃くなった。
* * * * * *
「おい」
シンは簡単な探査魔法でいとも簡単にニーレイを見つけていた。
ザッと様子を見て怪我がないか確かめる。甘ったるいニオイから、ニーレイが何か薬品を飲まされていることに気付くが、ヤクーがいれば大丈夫だろうと息を吐き出した。
その時であった。扉が勢いよく開けられる。息を切らして立っているヤクーが、忌々しげに顔を歪めて怒鳴る。
「ユキを盗られた!」
ヤクーの手には崩れ落ちた肉片。
それを見ただけで、シンは何があったのかを悟った。一気に殺気量が増す。
「……ほう? ニーレイのことはもうどうでもいいわけだ。同じことを俺にしてやるほうが優先ってわけか。どうせ隣国の王子の件も、先代の王の件もヤツがからんでいるんだろうな。それが全て俺のための催しだったとは」
実のところ、シンのこの予測は当たっていた。しかし、シンもヤクーも『恨まれるのはいつものこと』と気に留めない。恨みを買わないわけがないからだ。
だが、この愛憎が混じった恨みはいつもの恨みとは違った。それに気づいている者はいない。
「地下には行けねぇ。魔力の塊が――」
ズンッと屋敷が揺れた。
そして、あれほど禍々しい気配をさせていた魔力が一気に四散していく。
「何が起こった……? いったい――」
ヤクーが呟く。
そして、次の瞬間にあふれ出した濃厚な黒龍の気配を感じ、シンはニーレイをヤクーに任せると部屋を飛び出した。階段を駆け下り、地下へと向かう。そして扉を蹴破る。
「……ユキ」
その先には、肩で息をする、半龍化したユキがいた。
瞳孔が開き、手が震えている。腕や顔には黒いウロコが表れ、角や牙の他に、爪までもが鋭くなっている。
「ユキ。おい、ユキ」
しゃがんでその顔を覗き込めば、ユキは泣きそうな声でポツリとつぶやいた。
「こ、こわ……こわ、かった……」
シンは黙ってユキを抱きしめる。
「悪かったな……1人にして……」
「……怖かった……ヌーラ、が……溶けて……なのに、腕をつかむ力が……強くて……抜け出せ、なくて……」
「ああ」
「殺されると……思った……」
「……ああ」
しばらく、泣くユキを黙って抱きしめる。
ようやく落ち着いてきたユキの背を何度かさすると、『怪我は?』と小さく呟いた。ユキから『大丈夫です』と声が上がると、シンは深くため息をつく。ずるずると力が抜けて行くユキを力強く抱きしめ、シンは再び大きなため息をついた。
「……お前が……死ななくて良かった……慎重に動かなくて悪かったな。もうしねぇよ」
こうして、遊女誘拐事件は終結した。行方不明になっていた遊女は結局出てこなかったが、あっけなく全てが収束したのだ。
いや、収束したように思われた。
しかし……消えたヌーラの居場所を知るものは誰もいない。