言葉のお勉強をしましょう。
「えぇーと……お、俺は、グラスです。わかるかな? グラス……グ、ラ、ス」
『グラ……ス? グラス……グラス……』
「そう、グラス!」
『お兄さん、グラスって言うんですね。私はユキです、ユキ』
「ユキ……名前、かな? うーん……まず言葉を教えないと、どうしようもないな……えーと……ど、どうすればいいんだ」
グラスはユキを引き連れて図書館に来ていた。
幼児向けの本から大人向けの本まで置いてあるこの図書館は、国が運営をしており一般人も訪れる大きな図書館だ。そこに行けば幼児向けの本があるはずだと思ってやってきたものの、いざ言葉表を引っ張り出してきても、グラスはユキにどう教えればいいかわからずにいた。
『これ、言葉を勉強する本ですよね?』
ユキはグラスが持ってきた本を指差す。
表示見て子供向けのイラストと文字が書かれているのに気づいた。そして恐らく目の前の男が自分に言葉を教えようとしてくれていることにも気づいた。
パラパラと本をめくると、案の定イラストの横に大きな文字が書いてある。
「ん? ああ、なんとなく、わかるかな? これはグリ。甘くて美味しい果物で……って……伝わってるのか、これ? グリだよ。グリ」
『グリ? ……食べ物、かな』
自分の言葉を繰り返したユキに、グラスは小さな感動を覚えた。
「少しずつ覚えていこうか?」
ニッコリ笑ったグラスを見て、ユキはなんとなく『この人は信用できそう』と判断した。
* * * * * *
「じゃあ、くり返して」
勉強を始めてから数時間が経っていた。
グラスが思った以上にユキは物事の吸収が早い。
「『私の名前はユキです』。はい、どうぞ」
「私、は、名前、ユキです」
「そうそう! ユキは上手だね。『は』じゃなくて『の』だともっとよくなるよ」
「じょう、じゅ? じょうず? 意味がわからない」
「上手、だよ。上手いってこと」
「上手い、意味、わかる。私、話す、上手い?」
「そうそう。良い子だね」
微妙に意味が伝わっていないんだろうな、なんて思いながらも、グラスはユキの物を覚える速度に感心していた。
ユキからすれば言葉がわからないのは死活問題なので、無い脳みそをフル回転で動かしているだけに過ぎない。ただ、グラスにはその様子がいじらしくうつった。
必死に単語表と見比べながら、上目遣いであっているかを問うてくるユキ。
スポンジが水を吸うような反応に、『本当の子供であればこうはいかないんだろうな』と思いながらも一安心していた。
「休憩しようか?」
「休憩?」
「えーと……お休み? お休みすること」
「寝る?」
「寝るとは違うかな。ちょっと休むだけ」
「ちょっと……? ちょっと……『あ、休憩のことかな?』はい、グラス、休みます。あっている?」
「うん、あっているよ。ユキも休みます」
「はい、ユキも、休みます」
グラスはかつてない程に心の平安を覚えていた。
死神部隊と呼ばれ、恐れ、蔑まれている所属先。そこの住人達はどれもクセの強い男ばかりで、ユキのような人とはしばらくあっていなかったのだ。ましてや男所帯の騎士である。
「ユキ、グラス、やしゅむ! ん? やす、む! 休む!」
癒される。物凄く癒される。
なんだったらずっとこの時間が続けばいいと思った。こんな仕事であれば大歓迎だ。
上司から『女が騒いでいるから治めてこい』と言われ、黒豹部隊が動くだなんてどんな凶暴な女なのかと思って言ってみれば、シンに関する痴情のもつれであったり、『騎士達が暴動を起こした』との情報に駆けつけてみれば、その中心にはヤクーがいたりするのだ。
(落ち着く……これだよ。この“普通”が欲しかったんだ俺は……俺の言葉はそのままこの子が覚えるんだ。丁寧な言葉を心がけよう)
そっと差し出したお菓子を珍しそうに眺め、少し発音のおかしい言葉で「ありがとうございます」と受け取ってニオイをかいでいるユキ。食べ方を教えてあげると、ニッコリ笑ってもう一度お礼をいい、口に放り込んで目を丸くしていた。
恐らく気に入ったのであろう、とあたりをつける。現にユキは小鼻をふくらまして、随分長いことあたえたお菓子をかみしめていた。
ペノップと呼ばれるそれは、白くなるまで練ったハチミツとナッツを混ぜたもので、子供や女性に好まれるお菓子だ。
「グラス、聞きたい、ある」
「なに?」
「アルージャさん、私の髪と目、色、変えました。変だったから?」
「変えた……? 変……って……元は何色だったんだい?」
問われてユキが止まる。
まだ色の名前までは覚えていないのだ。
「色……言葉、わからない、夜の色、同じ」
「ああ~、紺かな? もしくは濃い紫? だとしたら君のためだよ」
「私、の?」
「まず黒色は黒龍と呼ばれる特別な龍にしかない色なんだ。だから、それに近い色を持つ人は色々問題に巻き込まれやすい」
「なるほど。黒、どんな色かわからない。でも理由、わかった」
「……キミはどこから来たんだろうね? 言葉が通じないなんて、まるでどこかから召喚――」
そこまで言って、嫌な予感がした。
この大陸で言葉が通じないなど、よほど辺境の地の民族ぐらいだ。そしてその民族は色素が薄い。しかし、目の前にいるユキの髪は茶色で、決して薄いとは言えない。それに元の色は夜の色だと言った。
(まるでユキは――)
「召喚されたみたい?」
「!」
グラスが反射的に振り返れば、耳を多方面にピクピクと動かすキャッツが立っていた。
「調べたんだよ。少しだけ気になったから。レディスともヤクーとも意見が一致したから来てみたんだけど、随分と仲良くなったじゃない」
「へ……? あ、ああ……この子、覚えるのが早くて。まだ表を見ながらですけど、簡単な会話なら1週間もあればできるようになりそうです」
「へえ? なら直接その子に聞いてもいいわけだ」
「あの……召喚って……どういうことですか」
キャッツは面白くなさそうにユキを眺めている。
ユキは自分が見られているのだと気づいて、口に溜め込んでいたお菓子を慌てて飲み込んだ。
「数週間前にまた国が召喚をしたのは知ってる? あれから漏れたらしいのがコイツ。つまり召喚落ちさ。王命でアルージャのおじさん自ら捜索任務を行なっていたらしいんだけど、どこぞの奴隷商にかっさらわれて売り飛ばされそうになっていたらしい」
「それって内部機密では……なぜキャッツさんが知っているんですか……」
「僕がこれしきの情報手に入れられないとでも思っているわけ? いいかい、これはお前が言わなければバレないんだよ。わかる?」
「は、はあ……」
「それでそいつなんだけど。どうもアルージャのおじさんが勝手な判断で自分のものにしたらしいんだよね。あの馬鹿みたいに真面目な男が、ルールをすっ飛ばしたってわけ」
それを聞いて、グラスは目を見開いた。
召喚落ちは国が保護するのが当たり前であり、保護した後に誰が奴隷として所有するのかを決めるのは王だ。
たいていは王や貴族が所有することになるが、例外もいくつか存在する。その1つがユキであるというのだ。
そもそも奴隷登録というのは絶対的な決定権を持つ法律のひとつで、各個人の財産所有に関するものである。財産として登録されたものは国であろうと勝手に関与できない。
つまり、今回のユキのように、たとえ国に保護されるべき存在であろうと、誰かの財産であると国に認められてしまえば手は出せないのである。通常であれば召喚落ちであると気づいた時点で登録作業から弾かれるものの、今回はアルージャがかなり強引な手を使ってユキを物にした。
あの、真面目な男がである。
「一体……この子は……」
「不思議だろう? 強引な手を使ってまで手に入れようとしたコイツは、一体何者なんだろうね? コイツのせいでアルージャのおじさんはお仕置き部屋行きだってよ。あ、これも内部機密なんだっけ」
「…………」
「随分と……面倒なことを押し付けられたねぇ? グラス」
ニヤリと笑ったキャッツの目は、意地悪そうな色を浮かべていた。