はた迷惑な力。
「……全然起きないな」
シンはユキの横に寝転がると、ユキの鼻をつまみながらその顔を見ている。
最初こそフガフガと苦しそうに息をしていたユキだが、そのうち薄っすら口を開けると安らかな表情へ戻った。
口の隙間から漏れる吐息がシンの手の側面に当たる。何気なく手を返したとき、ユキの吐息がシンの手首にあたった。反射的にビクリとその手が震え、シンはキョトンとした顔で己の手を眺めた。
「…………」
鼻からゆっくり手を離し、自分の手首を見つめるシン。
再びユキの鼻のところまで手首を持っていき、ユキの呼気が手首にあたるたびに腰の辺りがくすぐったいような感じになるのを知って苦笑した。
「なるほど」
ユキのベッドがなるべくきしまないようにゆっくり体を起こし、そうして気を遣っている自分に気付いて再び苦笑する。
そのままゆっくりユキに覆いかぶさると、シンは自らの鼻の頭をユキの鼻にくっつけた。
「なあ、お前はどうしてこうトラブルばかり持ってくるんだろうな」
ユキは答えない。
「これがグラスだったりした日にゃ、天井から吊るして、その下で火を焚くのに。どうしてお前相手だと雨具も忘れて雨の下を探し回ったりするんだろうな。俺じゃない他の誰かが真っ先にお前を見つけたらと思うとイライラして、探す人数が多い方が早く見つかるというのに、俺一人で出てきちまった。おかげでずぶ濡れだ」
ポタポタとユキの顔の上に水滴が落ち、濡れた服からも落ちた水分は、どんどんベッドへ吸い込まれていく。
「ああ、このままだとお前が風邪を引くな」
大きなため息をついてシンは起き上がり、次々に服を脱ぐとそばにあった椅子の上へ放り投げた。
その姿勢のまましばし固まり、ゆっくり視線だけを天井へ向ける。
「……お前、俺が洋服をグチャグチャに置いておくと、起きた時に怒るンだろうな。細かいからな、お前」
ユキに向かってそう話しかけ、舌打ちをしてから『仕方がねぇ』とつぶやき、たった今放り投げた服を綺麗に暖炉の前に吊るして、再び大きなため息をついた。
「服の始末なんざ新人の時以来だぜ。面倒くせぇ」
ブツブツと文句を言いながら、再びユキの横へと滑り込む。
パンツすらはいていないのを思い出し、もしユキが起きたら騒ぐだろうなと思ってニヤリと笑った。
「パンツははいてねぇけど、お前が起きる前にこっそりはいておいてやるよ。小娘には、ちと早ぇからな。なに、安心しろ。意識のねぇやつに手は出さねぇさ。なんてったって俺は紳士だからな」
満足げにそう言って笑うと、シンはユキを後ろから抱え込んでユキの頭に鼻をくっつけた。
そして大きく息を吸い込むと、それをゆっくり吐き出す。そのままグリグリと鼻を頭にこすりつけながら、満足そうに喉を鳴らした。
「……こいつ、どうやったら起きんだ?」
しばらくユキをながめていたシンは、段々と意識がなくなっていくのを感じ、『ああ、これは途中で起きられねぇパターンだな』と呟いて目を閉じた。
* * * * * *
「……ゲホッ」
ユキの目が薄っすら開く。
眠っていても世界がグルグル回っているのを感じ、ユキは再び目を閉じた。
「あ~……」
昨日のことはしっかり覚えている。
なんだってあんなことに……と後悔をするも、体感からしてガッツリ夜の間中寝てしまったことを悟った。なんだったら今は昼過ぎではないかと思うほどだ。
「起きないと……」
ゆっくり体を起こし、そして世界が反転して再びベッドへ倒れる。
枕に顔をうずめながら、『シュウさんが言っていた“起き上がれない”というのはこれか』と暗い気持ちになっていた。
「もー……私、ホント馬鹿……なんでこんな――ん?」
ユキの体調が一瞬にして良くなった。温かい魔力に包まれ、そしてそれは忘れようもない飼い主の味で、ユキは思わず赤面する。なぜシンの魔力が……と思いつつも、初めて魔力を与えられたときのことが脳裏に蘇り、動揺してしまう。あの指が、あの魔力の味が、昨日のことのように思い出される。
「あ、暑い……そう、暑い、から、顔が赤いんだ……そうに決まってる」
パチパチと音がするから、暖炉の火がまだついているのだろう。しかし、それにしても暑いと思い、何気なく横に視線をやって、ユキは『ヒッ』と情けない声をあげた。
「シ、シ、シ、シンっ……さん!? ななななんでここに!?」
目を閉じてピクリとも動かないシン。
まだ寝ているのだと知って、慌てて口を塞いだ。起こしてはいけない。この男を起こしてはいけない。そう思って、そうっと布団をはいでベッドから降りようとした。そうっと……そうっと布団をはぐ。
「なんで何もはいてないんだこの馬鹿は!!」
ユキの大声が部屋へ響いた。
叩きつけるようにしてシンに布団をかぶせたユキの顔は、真っ赤に染まっている。しかしシンの方を見ずに布団をかけたものだから、その全てを隠すことはできず、中途半端にあちこち出た肌色がユキの視界の隅に見えた。
「なになに? どうし――わお」
「あ! ち、違うんです! 私じゃないんです!! 私が脱がせたわけでは……!」
大声に気付いたシュウが部屋の扉をあけ、良い笑顔でユキを見ている。
「大丈夫、大丈夫。わかっているから」
可哀想なくらい動揺しているユキを見て、シュウはおかしそうに笑った。
「雨に濡れていたから、自分で脱いだのだろうね。昨日の夜遅くに来たんだよ。キミは寝ていたから気付いていなかったようだけど」
「そ、そうなんですか……あの、シンさんは……その……怒っていたり、は……」
「怒っていたよ」
「そうですよね……永遠に眠っていてくれればいいのに……」
露骨に落ち込むユキを見て、シュウは小さく噴出すとベッドサイドにあるチェストから水差しを取った。
「ほら、一杯飲みな。ただのお水だから安心して? 本当はこうして起き上がれるほど体調が戻ってないはずなんだから、大騒ぎしちゃ駄目だよ? と言うか、本当になんで起き上がっていられるんだろうねぇ、キミは」
「ありがとうございます……体調は結構いいんですけど……」
ユキがそう言えば、シュウは不思議そうな顔をした。
「本当に? 具合が悪いとかは?」
「いえ、特に。あ、起きた直後は酷い眩暈がしましたけど、今はもうなんともないです」
「……おかしいな」
「頑丈……なんですかね? 私、うたれ強いので」
「そ、それは関係ないと思うけど……まあ、なんにせよ体調がいいならよかった。隊長殿が起きたら一緒に帰るといいよ」
にっこり笑うシュウを見ながら、ユキは勢いよく首を横へふった。
「い、いえ、そういうわけには! 軍へ連絡をして頂いていたとおっしゃっていましたけど、自分で外泊届けを出したわけではないですし、色んな人に心配をかけていると思いますので帰ります」
「そうかい? 大丈夫?」
「はい、大丈夫です。シンさん。起きて下さい。シンさん」
パチパチと頬を叩けば、シュウが顔を引きつらせながらその手をヤンワリ止める。
「あの……ね。キミは新人だからあまり知らないかもしれないけど、寝ている隊長殿を叩き起こしたら駄目だよ。起き抜けに殺されかねない」
「え? そうなんですか? この間、鼻をつまんで起こしましたけど、全く怒られませんでしたよ? 笑ってました」
「え……」
思わず水差しを取り落としそうになったシュウは、慌ててチェストに水差しを戻すと小さく深呼吸した。
「隊長殿の鼻をつまんだって……誰が?」
「私がですが。なんだったら頭も頬も叩きましたが」
「それで笑っていたって?」
「え、ええ……」
シュウは『ああ、この子は命知らずだったのか』と思った。
一番初めに制裁をくらったのは、シンの店の黒服であった。遊女が何度も起こそうとしたのに起きなかったので、黒服を呼んできたことがあったのだ。寝ぼけたままであるはずなのに軍刀を首に突きつけられた。これは、シンが初めて一般人へ武器を向けた瞬間であった。もっともシンは覚えていないが。
「不思議なことだらけかな……」
どおりで肝がすわっていると思った。
昨日、あんな状況になっても危機感をまったく感じていない様子を見て、シュウはよほど酔っているのだと思った。しかし、我が耳を疑うユキの台詞を聞いてようやく理解した。
生温かい視線を向けながら、シュウはユキが再びシンを起こすのを促す。相変わらず鼻をつまんだり耳を引っ張ったりオデコを叩いたりしているのを見て、『いつこの癇癪もちが飛び起きるのだろう』とソワソワしながら見守ったのだった。
「うーん……起きないなあ……」
「隊長殿は寝起きが悪いらしいからね」
そう言って苦笑し、シュウはあることに気付いた。
「おや?」
「どうしましたか?」
「……うーん、ただ寝ているのかと思ったけど違うようだ。隊長殿はどうやら魔力切れを起こしているようだね」
「魔力切れ?」
「ああ。どうしてかな? 君を探すのに魔法を使ったのかな? それにしても綺麗サッパリなくなっているけど……まあ、魔力が切れても動けなくなるだけで死にはしないから大丈夫なんだが」
不思議がるシュウを見ながら、ユキはサーッと血の気が引いていった。
ユキは魔力を吸う。その魔力が体力や小さな怪我を回復させているようだと気づいたのは、オーロクに指導を受けているときのことだった。小さな怪我が消えていくのを見て、恐らくは細胞か何かが活性化されているのだろうなと思った。それを今、シュウの言葉で思い出したのだ。
ちなみに、気づいてはいないが、ユキが昨日ニーレイにつけられたアザは、薬だけのおかげとは言えないレベルで回復しつつあった。
つまり、他人の魔力を吸って自動的に体調不良を癒していると言うわけだ。
「…………」
もし……もしも。
この体調不良を癒すために、最も身近にいた人から魔力を吸い取るとしたら、いったいどれほどの魔力を吸い取ればいいのか。
「……やばい、殺される」
「え?」
ユキはゴクリと唾を飲み込み。
懸命に小さな脳みそを回転させ始めた。どうすれば怒られないのか。どうすればバレないのか。
(ようはさ、誰にも見つからなければいいってことだよね。本人も気付かないうちに治ればいいんだ。どうしたらいいんだろう。どうしうようかな。どうしよう。えーと、えーと……)
ユキの顔がすーっと生温かい笑みを浮かべる。
(よし、隠そう)
昔から、ユキのこの癖は直らなかった。
都合の悪いことは隠す。大事になりそうなことはさすがに謝るが、これは言ってしまえば被害者は1人だけだ。しかも別に命には関わらない。であれば、ユキの中に隠す以外の選択肢は残っていなかった。
「シュウさん」
「ん?」
「私がシンさんをおぶって帰ります。いやー、昨日はお世話になりました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。お礼は改めて……」
魚の死んだような目でそう言って、シンを抱えようとするユキ。それをシュウは慌てて止めた。
「ちょちょ……ちょっと待って。君が? おぶる? 無理だろう。軍の人を呼んであげるから、ちょっと待――」
「駄目ですそんなの!!」
ユキの大声に、ビクリとシュウの肩が跳ねる。
「あ……ご、ごめんなさい……えーと、シンさんはプライドが高いので、それはきっと、あのー、そう! 嫌がる、と、思います!」
もう汗がダラダラ垂れている。
はたから見ても、動揺しているのがすぐ分かるくらいに汗が垂れている。シュウは『何か隠しているんだろうな』と思いつつも、その必死さに何も言えずにいた。
「……えーと、じゃあ、せめて馬車を呼ぶかい?」
「駄目です! 目立ちますから! それも駄目!」
「そ、そうか……困ったな」
「いえ、困ることはないですよ。私がかつぎますので!」
「それが困ったことなんだけど……失礼だけど、君には体力がないから無理だろう?」
静寂が落ちる。
ユキは目を閉じ、大きく深呼吸した。
ときおり『恩を仇で返すわけには』とか『でもここでヤるしか』とか不穏なことをつぶやいている。シュウは一体何が起こるんだろうと若干ドキドキしながらそれを見守っていると、ユキの目がカッと勢いよく見開かれた。
「本当にすみません。でも、私、死にたくないんです。本当にごめんなさい」
「え? え? ちょっとわけがわからな――」
サッと目の前に差し出された手。
そこには昨日シュウが使って置き忘れていった睡眠香が握られている。
「え」
「シュウさん、本当にごめんなさい」
鼻をつまんで鼻声になっているユキの顔は、申し訳なさそうな表情になっていた。
それを見た次の瞬間には、シュウの意識は完全に落ちて床へとその体を横たえる。それをなんとかベッドへ乗せると、ユキは肩で息をしながら『いやー、本当に申し訳ない!』と言い、ウンウン唸りながらシンを引っ張って部屋を出て行った。