悪魔の到来。
「んっ……うあ……」
荒い息でユキがうめく。
あれから数時間経ち、ユキの意識はだいぶ回復していた。しかし、それと同時に強烈な体の熱さが襲い、さらには幻覚に悩まされていたのだ。
これがチーの恐ろしいところで、体にまったく害はないが、精神が侵される。
「なに……これ……この、部屋……龍がいっぱい飛んでる……」
細かく分類すると、チーを摂取した第三段階の症状は5類ある。
それは恐怖、幸せ、怒り、悲しみ、欲望にわかれており、それに応じた幻覚や体感を得ることができるのだ。
これは基本的に強く望んだ思いの症状が出るが、体調が悪かったり初めて飲んだりした場合には、自らの過去や悩みに強く引っ張られる。そのため、初めて飲むものは“チーの洗礼”を受けるか“初めから良い”かのどちらかだ。
洗礼を受けた場合、あまりにもリアルな症状が出るため、二度とチーを口にしない者も多い。
そしてユキは、チーの洗礼を受ける側になっていた。
「……苦しい……ゲホっ……喉、かわい、た……」
「おやおや……やはり駄目だったか。苦しいかい?」
ユキを連れ去った男は静かに部屋へ入ってくると、今まで何度も見たことのある症状を起こしているユキを見て、小さくため息をついた。
こうなってしまってはもう駄目だ。もう、体からチーを抜くことができない。現れた症状が色っぽいものではなかったことを少し残念に思いながら、男は一刻も早くユキの中からチーを出してやろうと水の入ったコップを渡す。
「あ~……あり、がとうございますぅー……」
「飲めるかい?」
「はいぃ……」
しかし、水は口に入る前にボトボトとこぼれ、ユキのシャツを濡らす。
男は呆れたように笑うと、取り上げたコップから自分で水を含むと、唇をユキの唇に押し付けて飲ませてやった。
「うあ……ゲホッゲホッ……くるし……」
「飲めた? 少しでも飲まないと、後が苦しいよ」
「あい……すいあせん……」
「舌がまわっていないね。ユキくんはどうもチーが効き過ぎる体質ようだ」
息が吸えず、ユキがあえぐ。
胸元のボタンを外そうとしてもがき、仕方無しに男はボタンを外してやった。
「あーあ。キミが気持ちよくなっていたら、少しは楽しく過ごせると思ったのに」
「すいあせん……ごえんあさい……」
「いいよ。あの馬鹿どもが加減を知らなかったんだ」
「ばか……?」
「キミにチーを与えた男だよ。黙って見ていないで、途中で取り上げていれば良かったな。良い偶然が舞い込んできたと思ったけど、キミの飲みっぷりが良すぎたので止めそこねた」
ユキはそこでようやく思考が回り始め、ここはどこで、自分は何をしていて、いったいこの男は誰なのかと言う疑問がわいてきた。
そしてサッと血の気が引く。
「あの……! あの……! か、か、かえりっ……帰ります! 帰らないと! 今何時ですか!?」
突然大声で騒ぎ出したユキにびっくりしつつ、男は『22時過ぎかな』と伝える。そうすれば熱で真っ赤になっていた顔が見る見る青くなっていき、『どうしよう、殺される、どうしよう』とブツブツ呟き始める。
軍の就寝時間は22時だ。門限は21時。それを超えるようであれば、予め上長に書類を出さないといけない。
初めてお遣いにいって、無断で外泊。
ユキは、自分の人生はここで終わるのかと思った。
「帰ります! ごえんあさい……! 迷惑っ……かけて……! こ、こ、ここ、どこですっか!」
フラフラと立ち上がって転び、またなんとか起き上がろうとする。しかし手にも足にも力が入らず、ユキはウンウン唸って地面にはいつくばっていた。
それを見た男は急に心配になってきた。
「どうしよう……キミ、本当に良い所の坊ちゃんじゃないか。初めてチーを飲むのにあんなに飲んじゃうし、初めて飲んだやつが動けなくなることも知らないのかい?」
男は困った表情で頭をガシガシかくと、ユキを抱きかかえてベッドへ連れ戻した。
「無理だよ、ユキくん。キミはあと1~2日動けなくなるんだ」
「な、なんで……! 帰ります! 帰らないと……!」
「残念ながら無理なんだ。外は雨だ。このままここを出たら、間違いなく水たまりで溺死するか凍えて死ぬよ」
「怒られるくらいなら死んだほうが良い! うわーん……!!」
「何を馬鹿なことを……泣き上戸か。まいったな」
男はため息をつくと、ユキを諭すように両手で頬を挟みこんで視線を合わせ、ゆっくりゆっくり話しかけた。
「初心者はチーをあんなに飲んじゃいけないんだ。耐性がないから、1~2日動けなくなる。死にはしないけど怖い目にもあう。今のところ怖い目にあいそうな兆候はないようだけど、これからそれが出る可能性もあるんだ。わかるかい?」
「……は、はいぃぃ……」
「あーもう……せっかく美味しい思いができると思ったんだけど、キミはこのまま飛び出していきかねないな。心配だよ、本当に。ああ、駄目だ。仕方がないから正体をばらしちゃおうかな」
「えぇ……?」
鼻水を垂らしたユキが嗚咽を漏らしながら男を見ると、男は苦笑しながら鼻をかんでやった。
「初めまして、ユキくん。僕はハノンの店主“ニーレイ”の弟だよ。姉妹店の“アミン”という男娼店を経営している。シュウって言うんだ」
「だんしょー……え? ハノン……? んん?」
「ニーレイから『しばらく男の子を1人かくまってほしい』と言われていてね。理由を言えないかわりに、少し味見するくらいならかまわないと言われたんだけど、キミみたいな真っ白な子だとは思わなかった。ニーレイは、僕がキミに手を出せないのを知っていて言ったんだな。意地悪なことだ」
男はクスクス笑い、ユキの頬を優しく撫であげた。
「キミはあれだろ? 黒豹部隊のとこのお気に入り。ニーレイからの手紙にそう書いてあった。あの男のことが好きらしいともね」
「……えぇ!?」
ボッと火が付いたようにユキの顔が赤くなり、チーとは別の意味で心臓の鼓動が早くなる。
「ニーレイがね、気を遣ってくれたんだ。僕ならキミのことが良くわかるだろうってさ。全く。好きなやつがいる男の味見をしていいだなんて、ニーレイも本当に性格が悪いな」
「あ、あのっ……わ、私、は……」
「ああ、そんなに興奮しないで。血流が良くなるとチーの効果が出るのが早いんだ。面倒は見てあげるから。きっとニーレイから軍に連絡を入れてくれているだろうから、キミは安心して無断外泊を楽しむといい」
そう言ってシュウは自らの鼻をつまむと睡眠香を使った。ユキはただよう煙を吸い込み、目をトロンとさせ始めるとやがてシュウにゆっくりよりかかる。
睡眠香をベッド横のチェストに置いて肩にユキの重みを感じながら、ふとかぎなれたニオイを感じてシュウはゆっくり眉根を寄せた。
「…………」
そしてユキの首筋に鼻を埋め、ユキのニオイを吸い込む。
「……やだな、細いとは思ったけど女の子じゃないか……気付かなかったのか、ニーレイは」
シュウはため息をついてユキをベッドへ寝かせると、毛布をかける。
そして雨のせいで少しばかり冷えた室内を暖めるために、暖炉にまきをくべた。
「僕に女の子をすすめるだなんて。いや……本当に気付いていない可能性があるな。あの人は、どこか抜けているから」
火がまきに移ったのを見届けてから、シュウは再びベッドのところへ戻ってきてユキの寝るベッドへ腰掛けた。
ギシリとベッドが傾く。
「僕は女の子は愛してあげられないんだけどなあ」
困ったように笑うシュウ。
しかし、しばらくユキの顔を見つめると、ニヤリと笑って舌なめずりをした。
「……でもユキく――ちゃん、ならいいか。もしキミが男の子だったら、前後不覚になってるのもかまわず、好きな男がいるのもかまわず、少しは味見をしたかもね」
そう言ってユキの首筋に唇をよせ、ちゅっと音を立てて吸い上げた。その瞬間、激しい音を立てて部屋のドアが開けられた。
即座に離れはしたものの、シュウはドアの向こう側にいる人物がもしかしたら今の光景を目撃したかもしれないと内心でドキドキする。
「おや、随分と早いですね。隊長殿」
自分のやった行動を見られたかもしれないと動揺はしたものの、そこに現れたシンの姿には全く驚いていないシュウ。
シンはチラッとユキに視線を向けると、苦しげな呼吸をしているのをみとめて顔をしかめた。
「まだ何もしていませんよ。泣いていたので睡眠香を使いましたけど。ああ、あとチーを飲んでいるようです。街の馬鹿な若者が渡しちゃったようで」
シンはシュウに視線をよこさない。
「まだ酷い症状は出ていないんですけどね、結構な量を飲んでいたようなので1~2日は寝込むんじゃないかな」
ただ、黙って話を聞いている。
「……一体全体、なぜこの小さな子供はこんなに無茶をしたんでしょうね?」
シュウの切れ長の目は見開かれ、親の仇を見るような視線をシンによこしていた。
しかし、それでもシンはユキから目を離さず、口も開かない。
「まあ、ニーレイが引っかきまわしたのかな。ところで隊長殿――……雨具も持たずに、どうしたんです? びしょ濡れじゃあないですか」
ここでようやく、シンはシュウへ視線を向けた。
意地悪そうに笑うシュウを見て、シンは髪を引っつかむと無理やり上を向かせた。
「保護してくれたことには感謝しよう」
「これが……感謝のしかたですかっ……」
「お前はアレと違ってこういうのが好きなんだろう? なんならキスの1つでもしてやろうか?」
「……それは、侮辱だ……」
「そうか。すまないな。どうも俺の所有物にマーキングをしたような気がしたので、少し乱暴になってしまった」
頭から手を離され、シュウは小さくうめく。
「あれ……見ていたのですか。すぐに身を起こしたから、見られていないのだと思いました。ああ、それでずっとこの子の首を見ていたのか。あ、言っておきますけど。つけたのはここの1個だけですよ。他のはニーレイでしょうね。ん? 薬が塗ってあるな。証拠隠滅しようとしたのか?」
そう言いながらユキの首筋にかかる髪をよければ、赤い小さなアザがたくさん出てくる。どう考えても絞められたようにしか見えないアザもだ。それを見ながら、シュウは困ったように笑った。なぜなら、どう考えても数分以内にシンによって殴られるか蹴られるかが確定してしまったからだ。ここにいないニーレイを恨む。
そして観念したシュウが再びシンへと目を向けたとき、シュウは声をあげる間もなくシンによって部屋の外へと放り出された。
「優しいアミンの店主殿は、今日ここへ俺たちを泊めてくれるんだって? 悪いな、世話になる」
「……どう、ぞ……ごゆっくり……」
シュウはシンに殴られなかったことに驚いて拍子抜けした顔をしていたが、『殴らないんですか? 隊長殿ほど乱暴な方が?』という言葉をなんとか飲み込むと扉を閉めて去っていった。確かに痛いのは嫌いじゃないが、愛のない暴力は嫌いなのだ。
「……さて、お前にはどんな罰を与えればいいんだ?」
ギラギラと光るシンの目が、いまだに眠り続けるユキへと向けられた。
外の雨は、いまだにやむ気配がない。