おかしい……
「おかしい……」
死にかけた――ではなく死んだ任務から帰還して数週間。
ユキは事務仕事をしながら、こっそりとシンの方を盗み見た。相変わらず興味がなさそうに書類をつまんではゴミ箱へ入れ、時折あくびをしたりコーヒーをすすったりしている。
余談ではあるが、一度シンに『書類をゴミ箱に捨ててもいいのか』と聞いたことがあるが、その時に大層不思議そうな顔で『ゴミ箱なんだから当たり前だろ。床に捨てる気か?』と言われた。あとでグラスから『全てのごみは機密情報として取り扱われるから、どんなゴミでも一緒にして大丈夫なんだよ』と言われ、バナナの皮なんかも機密情報になりうるのかと相当悩むはめになった。
「…………」
シンの仕事態度は、あの日から何も変わらない。
相変わらず昼に出勤をするし、気に入らない者がいれば出勤時間より早くとも出向いて制裁を加える。任務があれば『言ってくる』とだけつぶやいて翌日の昼に帰ってきて、その間にヤクー達が『朝帰りならぬ昼帰りかぁ?』とニヤニヤしながらユキを見るのだ。
しかし、少しだけ態度が軟化した。前ほど喧嘩を買わなくなったし、たまに出勤時間が早いときもある。少し、進歩したようだ。ところが、ユキたちの関係は何1つとして進歩していなかった。
(私達……好き同士ってことでいいんだよね……あれ、でも付き合って欲しいとか言ってない……?)
ユキは誰かと付き合ったことがなかった。そのために当然のことながら、その先のことなんて経験したことがない。これも余談ではあるが、この間、医務室にシンによって閉じ込められた時ですら、ずっと抱きしめられたり耳をかまれたりとからかわれただけで終わったのだ。途中で居眠りをし始めたシンに驚愕したユキが、シンの鼻をつまんだり頬や頭を叩いたりしてようやく起こし、シンはとっても魅力的な笑顔を浮かべて部屋を出て行ったというわけだ。
話はそれたが、ユキは知識として『お付き合いして下さい→はい』で交際が成立するという情報は得ていた。だが、大人の付き合いにはそういった言葉が不要なのだとも知っていた。
果たして自分は、どちらなのだろうか。
「……わからない」
ご飯は一緒に食べない。休みの日にどこかに行くこともない。一緒に寝ることなんてもちろんないし、あれから抱きしめられたことはもちろん、キスだってしてもらっていない。
チラリと嫌な予感がする。
「これ、ノーカン? なかったことになってる……?」
チラリとでもそう思えば、そんなような気がしてきた。
お互い好きであることはわかった。しかし、その後の“何もない具合”を見ていると、お互い好きであると情報共有をしただけにおさまっていた。確かに情報共有は大事である。仕事においても“ほうれんそう”は基本だ。
「マジかー……マジなのかー……」
「ねえ、さっきからうるさいんだけど、コイツ。ため息と独り言やめてくんない?」
「すみません、キャッツさん……」
ユキが素直に謝るも、その声は低い。今にも泣きそうな声を出すユキを見て、キャッツは眉をしかめた。キャッツが何か言おうと口を開いた時のことだった。
「おい、ユキ」
「はいっ」
シンに呼びかけられて、ユキが飛び上がらんばかりに立ち上がる。そして慌てて駆け寄れば、目の前に1枚の紙を突きつけられた。
「これは……?」
「これをここに届けろ。いいな。あと、髪の色が落ちかけている。薬をかけていくか、魔法で幻覚膜を張れ。できるだろう? いや、まて薬だな。途中で転んで頭打って気絶した時に魔法が解けでもしたら面倒だ」
「はあ……気絶なんて早々しないとは思いますが……」
ユキに魔法は効かないが、ユキを取り巻くもの――例えば障壁などもそうだが、そういった間接的に作用する魔法は効果があった。確かにまだ魔法は不安定だから、とユキはシンに差し出された霧吹きで薬をかけていく。
シンが一通り髪の色をチェックしたあと、ユキは渡された荷物の他に地図も一緒にもらった。
「あれ……これ……」
その地図はどうみても城下街の地図にしか見えなかった。地図の右下辺りに“ハノン”と言う文字と矢印が書いてある。
「城下街……外? 外任務ですか!? いいんですか!?」
「城下ならさすがに問題も起こらねぇだろ」
フンッと明らかに馬鹿にしたような顔で笑うシン。しかしそれには見向きもせず、ユキは高鳴る胸を押さえて紙を電灯の明かりに透かす。
「城下……」
「おいおい、ユキ。お前、遊びに行くんじゃねぇんだからな? 大丈夫かよ」
ヤクーの呆れたような声に、ユキは思わずハッとする。そして軽く咳払いをすると、机に戻ってカバンを手に取った。
「だ、大丈夫、ですよ。子供じゃあるまいし。遊びに行くわけじゃあるまいし。大丈夫です。お任せ下さい。見事任務を果たしてみせますとも」
「……どーも心配ね。アンタ、初めて城下に行くんでしょう? 迷子になるんじゃないわよ」
「大丈夫です。地図を見るのは上手いんです。私」
答えながら、ニヤーッとしまりのない顔になっていくユキ。
初めて城下に下りる。その事実が、ユキの心を惑わしていた。
「では、行って参ります!」
誰もが不安げな顔をしたまま、ユキを見送った。グラスなんかは中腰で今にも追いかけて行きそうな勢いだ。
「あの、シン隊長。どこまでユキを行かせたんですか?」
グラスの言葉に興味がなさそうな目を向けると、シンは再び資料へ視線を戻してあくびをかみ殺した。
「ハノンだ」
シンがそういった瞬間、部屋の中が静まり返る。
「あの子、大丈夫なの……?」
不安げなレディスの声が響くが、誰もそれには答えなかった。
* * * * * *
「さあさあ、そこの奥さん、フィーゴ菜の大安売りだ! 今年は豊作で味も大きさも、ここ10年見たことねぇぐらい立派だぜぇ!」
「タイムセールだよ! タイムセール! これから30分、このコーナーの商品は40%OFF! こっちは出血大サービスの70%OFFだ! 持ってけ泥棒ー!!」
「さー! 寄ってらっしゃい見てらっしゃい! さっき獲れたばかりのバオバオの子供! こちらを今からさばいて切り売りだ! 今日の晩御飯はバオバオの煮込み! どうだいそこの美人な奥さん!」
ユキが訪れたのは城下の商店街。
そこはむせ返るほどの熱気で、その場にいるだけで薄っすらと汗をかくほどであった。しかし、ユキは暑さよりも好奇心が勝り、目的地を探しているのを言い訳に、あちこちに目をやっては『おお』と小さく声をあげた。
豚のような生物、魚のような生物。どれもこれも見たことがあるものとはちょっと違う、あきらかに“異世界”なのだと思わせられるものばかり。それはどれもとても魅力的で、ユキのテンションはどんどん上がっていく。
そうやって満面の笑みを浮かべて歩いていると、横から大きな声がかかった。
「おや、小さな騎士だ。しかも黒豹部隊じゃないの。こんな小さいのに、黒豹部隊だなんて。よほど凄い騎士様なんだろうね」
その声に振り向けば、ピアという果物を水飴で包んだピアーニ菓子を売っている屋台の店員が満面の笑みで立っていた。
太ってはいるが痩せれば美人なんだろうなと言う容姿で、ニコニコ笑いながらユキを見ているそのまなざしは“肝っ玉母ちゃん”という言葉がぴったりであった。
「ん? ああ、本当だ。黒豹部隊だな。珍しい顔をしているな。外国人か?」
「へえ? 外国人が騎士になる時代か。まあ、強くて国への忠誠心さえあれば何でもいいわな」
飴屋の店員の声に振り向いたのは、隣で饅頭のようなものを売っている男や通りすがりの男。
「え……あ……」
あっという間にわらわらと囲まれ、ユキは一体何事かとオドオドする。
その様子を見ていた人がさらに集まり、『ああ、頭のおかしい連中の仲間か』などと野次を飛ばされた。あまりの印象の悪さに閉口する。だがそんな気はしていた。アレだけ自由なのだから、仕方がないとも思った。街の人も街の人で、黒豹部隊が騒ぎを起こすのは当たり前の認識であったため、酒場や食堂なんかに黒豹部隊が現れた日には緊張が走るくらいだ。
「なんだ、まだガキじゃねぇか。黒豹部隊の色に染まらないうちに、さっさと異動願いを出した方がいいぜ」
そう言いながらも苦笑いを浮かべる人達に気付き、ユキは彼らからさほど敵意が感じられないことに少しだけ面食らった。
「あ、あの……」
「なんだい? 坊や」
(坊や……)
飴屋の店員の言葉に思わず顔をしかめるが、咳払いをして誤魔化す。
「黒豹部隊は、城下でも印象が悪いと思っていたのですが、そうでもないのでしょうか?」
「いや、悪いよ。あんな悪ガキども見たことないね」
「ああ。この間だって街酒場を荒らしていたディーゴン一族が半殺しにされたしな。巻き添えをくって店は半壊状態だ」
ぐぅ、ユキの喉の置くから変な声が漏れる。半目になって遠くを見れば、飴屋の店員は少しだけ笑って言葉を付け足した。
「まあ、でもあたしらのために頑張ってくれているのは、みーんなわかっているのさ。巻き添えをくった店は隊長から修繕費用が届けられたし、黒豹部隊も犯罪者意外には武器を向けないからね。まあ、手はたまに出るが、それでも完全に怒らせない限りは平気なのさ。軍部内では違うのかい?」
「……シンさんが修繕費用……? 軍部内とはちょっと違いますね……もう少しこう、怖いような……」
軍部内と随分違う。
あの何でもかんでも瀕死にすればいいと思っていそうな男達の街での振る舞いを知り、ユキは誰か別の人のことを言っているのではないかとすら思った。
「えっと……誰か殺されかかったりとかは……?」
「えぇ? 騎士様なんだから、あるわけないだろ。犯罪者ですらせいぜい“重傷”さ。いやまあ……重傷ってのもおかしいが、“ざまあみろ”の方が強いというか……まあ、プロ意識っていうんだろうな。小者には本気を出さねぇんだろうよ」
「だろうなあ。あんな怪物に本気を出されたら、俺らなんか一瞬であの世逝きだ。だってめちゃくちゃに速いんだぜ? この間、黒豹部隊のやつとコインゲームをしたんだがな、動きがまるで見えなかった。お陰で俺の虎の子がすっからかんだ。優男に見えたのになあ」
ゴクリと生唾を飲み込む。
なんとなく『ああ、身内に厳しいタイプか』とも思ったが、そういうレベルではないような気がして良くわからなくなってしまった。一番しっくり来る言葉は“猫をかぶっている”だ。だがそれで街が平和ならば、それでもいいような気がしてきた。
ユキは、故人となった王が黒豹部隊のことを語った時、シンは“意図的に好き放題やっていた”というようなことを言っていたなと思い出す。なるほど、であれば街の人に対するあり方の方が本来の彼らかと思い、即座に自分の考えを打ち消した。もし街の人に対するあり方が本来の姿であれば、自分に対してもう少し優しいはずだと思ったのだ。恐らくは“好き放題”のベクトルが一般と本人らでは大きく違うのだろうと、ユキは考えることを諦めた。
あれらは根っからの自由人で、街の人達が上手いこと誤魔化されているだけなのだと。
「まあ、ちょっとした揉め事や小競り合いには参加するけど、武器は絶対に出さないからな。手を出すときだって最後の手段だ」
「とは言っても、街の男共はハノンの主人が怖いようで、めったに争いごとは怒らないんだけどさ。それは黒豹部隊のやつらも同じなようだけども。だから、何かあればまずはハノンの主人を呼んできて、一喝してもらって終了ってわけだ」
「えぇ!? 黒豹部隊が恐れる店主ってどんな……そもそも、あの人達の揉め事が叱って終了になるんですか!? どうやって!? ぜひ教えて頂きたいのですが!!」
ユキが半ば絶望してそう言えば、飴屋の店員はカラカラと笑った。
「苦労してんだろうね、坊やは」
「ええ、本当に」
「まあ、でも……あの店主は本当に怖くて礼儀にもうるさいからね。坊やも怒られないように気をつけな」
「そんなに怖いんですか?」
そう言った瞬間、周りの男たちがニヤリと笑って顔を見合わせる。
「怖いなんてもんじゃねぇさ。俺なら龍の逆鱗に触れる方がマシだね」
「ああ、そうだ。綺麗な顔してンのにさ、中身は死神のような奴なんだから」
「し、死神……」
「黒豹部隊の隊長だって黙るんだから、相当に怖いんだろうなあ? こう、なんて言うかなあ。静かに淡々と途切れることなくこちらを攻め立てる様は女王の風格すらあるな」
ハハハ、という男たちの笑い声を聞きながら、ユキは絶対に合わないようにしようと心に誓う。
「まあ、坊やはまだまだあの人の店に行くような年じゃないだろう? 興味があっても、今日は死ぬほど機嫌が悪いらしいから、興味本位で玄関先から覗くのは止めた方がいい。坊やも黒豹部隊にいるくらいだから強いんだろうけどね、あの人はそういう強さとは別ベクトルなんだよ」
「い、一体どういう店なんで――ん?」
そこまで言って何かが引っかかる。
「どうしたんだい?」
「あ、いや……なんか聞き覚えのある名前が――あ、そうだ」
確か地図に店の名前が書いてあった、と思い出す。その名前が“ハノン”ではなかったかと思い紙を取り出し、『ああ、やっぱり』とつぶやいた。
「あの、そのお店がどこにあるか教えて下さい。お遣いでそこに行かないといけないんです」
噂を聞いた直後なので半ば恐る恐るそう言えば、一瞬辺りの人達に妙な緊張が走る。
その反応に、ユキは嫌なものを感じた。飴屋の店員が『……まあ、坊やだって男だし、黒豹部隊の一員だからね』と自分を納得させるための独り言をいいながらユキの肩をバシバシ叩いてきたので、ユキはよろけないように踏ん張る。
「あの……ハノンの店主は一体どんな方なのでしょうか。機嫌が悪いというのは……どのくらいのレベルなのでしょうか……」
生温かい視線をくれるだけで何も言わないギャラリー達。
ユキはまだ知らない。ハノンに待ち構える主人が、“死ぬほど機嫌が悪いらしい”では済まない状態になっていることを。
物語の下が始まりました。ここから甘くなっていきますし、まだまだ山あり谷ありです。