狂犬の気づき。
「……ッ」
顔に落ちる水滴の刺激で、ユキは目を覚ました。
薄っすら目をあけるも、頭がぼんやりして何も考えられない。
(ここは……私は何をやっていたんだろう……暑いのに寒い……喉、かわいた……ここは、牢屋……? 鉄格子が見えるけど顔が動かせない……)
そのままぼうっとしていると、重たい扉の開く音がした。
続いて複数人の足音。視線だけ上げるも、視界がぼやけてよく見えない。
黒い影がユキのすぐそばまで来た。
「シンのお気に入りがいると聞いた」
「…………」
「男だとは思いもしなかったぞ?」
聞いたこともない声。
しかし悪意は伝わってくる。
「前は隣国の王子を使ってみたが……邪魔が入ってしまってな」
その台詞を聞いて、ようやく理解した。
あの時から――隣国の王子に関する任務の時から全てが仕組まれていたのだと。どれだけ恨みを買ってるんだ、とシンに対して呆れる。もしかしたら今回の呼び出しも罠だったのかもしれないと思い、自分の迂闊さに怒りがわいた。
「……わた、し……は……取引、材料、には……なりません……」
出した声はかすれており、息をするのもしんどい。
ここでユキはようやく自分の体が震えているのに気づき、どうやら熱が上がったようだと知った。
「取引材料になるかどうかは、やってみねぇとわからないさ。ならなかったら死んでもらうだけだ。取引材料になってもお前は殺すけどな。いやあ、巻き込んじまって悪かったなあ?」
「そう、ですか……」
「…………」
一瞬部屋の空気が重くなる。
ついで、横腹に激しい衝撃がきて蹴られたのだと知る。だが痛くはない。しかし、内臓が圧迫されて息がつまり激しくむせた。すると蹴られた部分の他に肺と喉がカッと熱を持ち、『ああ、痛いのか』と思った。
痛みの代わりに熱を伝えてくる体。この段階で全身が熱く、もはや熱なのか痛みなのかもわからなくなりつつあった。
男は何度も何度も体を蹴った。時折踏みつけ、骨のきしむ音がする。そしてしばらくすると、肩で息をしながら鼻で笑った。
「声も……上げねぇとはな……恐れ入るぜ。訓練されたか? それとも声も出せねぇぐらい弱ってンのか? あぁ?」
「よしなさいな。本当に死んでしまいますよ」
もう1人、知らない男の声がする。
ユキの顔のそばに、もう1つの足が近づいた。
「キミ、まだ意識はありますね? もうすぐ、キミの仲間がキミが誘拐されたと知るでしょう。龍をそのまま巣に帰しましたから。しかし、随分とあの龍に慕われているのですね。キミのことを追いかけようと必死でした。帰宅するよう暗示をかけるのに苦労しましたよ」
クックッと喉の奥で笑う。その音が非常に不愉快でユキは顔をしかめた。
「あの子に……何もしていないでしょうね……」
にらみ上げる。
そうすれば男はまたクックッと笑った。
「ええ、ええ。大事な伝言役ですし。途中で死なれたら困ります。ああ、キミの血で汚した雨具を結び付けておきました。それからね、その時に体を見せてもらったのですがね、キミ。あの体はなんです? どんな酷いことをしたら、あんなにボロボロになるのですか? おかげで拷問をすることができなくなったじゃないですか」
「…………」
「あれ以上やったら死にますからね。ああ、残念でしかたがない。まだ、死なれたら困るんですよ」
聞きたいことは聞けたとばかりに、ユキは黙り込んで目を閉じた。
その傷はオーロクたちと訓練をした時のものだだった。それに気づくと同時に、魔法が解けていなくてよかったと思った。じゃなかったら、今頃この男たちに遊ばれていたかもしれないと。
(というか……オーロクさん、敵に『ひどい傷』って言われるまで私を……帰ったら少し手加減してもらえるように伝えよう)
「……そうですか。だんまりですか」
バシャリと上から冷水を浴びせかけられた。
「今夜は冷えるようです」
それだけ言い残し、男は出て行った。
「ハハッ……あの野郎、死なすなと言っておきながら酷ぇことしやがる」
男はユキの胸倉をつかむと、グイッと持ち上げて目線を合わせた。
「ああ、男前になってやがる。交渉の時まで死ぬんじゃねぇぞ」
そう言ってユキを放り投げると、その男も扉の向こうへと消えていった。
* * * * * *
「シン隊長! シン隊長!! 起きて下さいってば!!」
激しく叩かれる扉の音。
もうかれこれ5分は叩き続けている。シンはそれをベッドの上でボーっとその音を聞きながら、あれは確かグラスの声だなと思った。時計を見ればお昼を少しまわったくらいの時間。
外はどしゃぶりの雨で空が暗く、時計がなければまだ朝になったばかりなのではないかと思うほどであった。
「起きて下さいって言ってるじゃないですか!! いるんでしょう!?」
シンはゆっくり体を起こすと、ノソノソと動いてパンツをはいた。
シャツを手に取ったところでパンツだけはいていればいいか、という考えにいたり、代わりに銃を取って安全装置を外す。
そして、ドアを開けるのと同時にグラスの眉間に銃を突きつけた。
「ああ! ようやく出てきた! 大変なんです! 大変なんで――ゲホッゲホッ」
いつもであればまず銃にツッコミを入れるはずのグラスが、見えているであろうそれを無視してオロオロしている。
寝ぼけ眼で片眉を上げれば、グラスはむせながらもなんとか言葉を発した。
「ドラゴニスさんから連絡がありまして、ユキが、一人で隣国へ任務に行ったそうです……! 大臣承認までの任務ランクだったため、アルージャ様はご存知ありません!!」
「あ?」
「他部隊の騎龍をかりたそうで、3時間前にはここを出ています。それから――」
「あ、ここにおられましたか!」
グラスの言葉をさえぎるようにしてやってきたのは、青い顔をしたドラゴニスのところの騎士であった。
「任務に行かれたユキさんですが、行方がわからなくなりました。また、隣国はこちらへ依頼をしていないとのこと」
「なんっ……だよそれ……どういうことですかッ!!」
グラスの怒号が飛ぶ。
「先ほど騎龍だけが帰って来て、首に血のついた雨具が……暗示をかけられているようで、今は錯乱しています。その雨具には手紙が入っており、ユキさんが囚われていること、また人質引渡しの交換条件としてシン殿の命を……と……」
若い騎士の言葉に、静寂が落ちる。
「……なんてことだ……」
グラスは頭を抱えてその場にへたり込む。
「俺が……俺が、もっと早く来ていれば……」
「いや、君のせいじゃない。私の判断ミスだ」
そう言って現れたのは、苦い顔をしたドラゴニスだった。
「騎龍であればめったに襲われることはないだろうと判断した……すまない」
「……ああ、そういうことか」
ポツリとつぶやいたシンの声が響く。
「なるほどな」
「なに、が……ですか……?」
グラスの質問には答えない。
代わりにシンはドラゴニスの眉間に銃を突きつけ、その直後には辺りに鈍い音が響いた。