弱り目に祟り目。
「ああ……」
ズキリと痛む頭。
ユキはてっきり泣いたせいだと思っていたが、どうも体が熱い。
「いつの間にか寝てしまった……いてて……風邪かな……」
体も重く、起き上がるのもしんどかった。
ユキはこれを風邪だと思いこんでいるが、この発熱は骨折から来るものである。
昨日の夜、ろくに治療もしないまま放置していることは例の一件ですっかり忘れさっていた。
それにシンのこともある。あれを思うと気が重くなり、余計に体調が悪くなりそうなので脳の中から情報を追い出した。
「昨日、少し寒かったからなあ」
のろりと起き上がり出勤の準備をする。オーロクとの訓練がしばらく休みになってよかったと思った。
昨日の今日では会いづらいし、今日は本当に体調が悪いのだ。
薬を飲むために食堂に行こうかと思ったものの、胸焼けが酷くて諦めた。ノロノロといつもの倍以上の時間をかけて廊下を歩く。途中何人かに『おい、大丈夫か』と声をかけられたものの、ろくに返事も返せずに頷いた。
「……仕事部屋に入ったら、切り替えよう。みんな聡いから、迷惑をかけちゃうし。誰かが来る前に切り替え終えられるといいんだけど……」
大きく息を吸い込み、そのまま吐き出す。
そうしてドアを開けた時の事だった。
「ようやく来たか。出勤は始業の30分前には――ん? ユキか」
「え? あ、ドラゴニスさん。どうされましたか?」
部屋の中にはドラゴニスがいた。
「いや……ちょっとこちらの部署に頼みたいことがあってな。グラスが来ると思っていたのだが」
「まだ来ていないようですね」
ドラゴニスは小さくため息をつく。
「お待ちになりますか?」
「急ぎなんだ」
そう言うと天井を見つめ、何かを思案するようにブツブツとつぶやく。
そして意を決したようにユキに向き直った。
「以前、私が頼んだ隣国の王子の護衛任務は覚えているか?」
「ええ、もちろんです」
「あの王子からまた依頼があってな。自分を助けた者に礼が言いたいそうだ」
「……は、はあ……つまり?」
「自分を助けた者を国へ寄越せと言っている。つまりお前だ」
ひくりとユキの顔が引きつった。
「……行きたくないのはわかる。礼とはする方が出向くものだしな。だが……向こうは王族だ。まあ、礼くらいなら使者をよこせばいいのにとは思うが、直接礼を言いたいそうだ」
「いや、別に行くのはかまいませんが……私だけで行くのですか? というか、私は国から出ていいのでしょうか?」
黒龍であることは限られた人にしか知られていない。
ドラゴニスももちろんそのことは知らず、この質問の意図がわからなかった。そして都合の悪いことに、この任務は知人貴族を通して直接ドラゴニスに依頼され、命の危険が少ないランクが低い任務と判断されたため、王の承認ではなく大臣どまりの承認で通ってしまったのだ。つまり、アルージャはこのことを知らない。
さらに言えば、ユキは『隊長クラスの人であれば、自分の話は通っているんだろうな』と思い込んでいた。まさかそれがアルージャと黒豹部隊の者達しか知らないなど、夢にも思っていなかったのだ。
「任務であれば国外にも行けるのではないか? ユキだけで行かせるつもりはなかったのだが……お前は最近オーロクから訓練を受けていたな」
「はい、一ヶ月ほどになりました」
「であれば、多少は自分の身を守れるようになったわけだ。うちの騎龍をかしてやろう。一人で行って来るといい」
「ええ!? 無理ですよ! 相手は王子でしょう!?」
「大丈夫だ。騎龍に乗っていれば敵に襲われることも少ないし、襲われても龍が守ってくれる。それに、王子はプライベートな依頼として話を通してきたからな。最低限の敬語が使えていれば礼儀は必要ないだろう」
「そんな……上官の許可なしに行くのですか……?」
「誰もいないのだから仕方あるまい。恨むなら仲間を恨め。何、隣国とは仲がいいから、休暇だと思えばいいさ。お前の隊長には私から伝えておこう」
ニッコリ笑うドラゴニスの笑顔を見て、典型的な日本人であるユキが断れるはずもなかった。
* * * * * *
「さむっ……」
騎龍にまたがって数時間。
空からは大粒の雨が降り始めていた。雨具をかぶってはいるものの、全てを避けきれるわけではなく、手も足もだいぶ冷えている。
「寒すぎて龍から落ちそう……魔法も解けちゃう……」
ユキは、旅に出る前に自分の周囲へ魔法をかけていた。相変わらず自分自身には魔法が効かないからだ。
それは体のつくりを男であるように見せるもので、見掛け倒しではあるが『自分のことを男だと思うようなマヌケは自分の国の中の人だけだろう』と思ったので心配になってかけてみた。しかしかなり不完全な突貫工事であったために、気を抜いたら魔法が解けてしまいそうになるのだ。
《我が王よ。体調が悪いようですね》
「わかりますか? ちょっと熱っぽくて……風邪だと思います」
《風邪ではないでしょう。怪我特有の負のニオイがします。横腹はまだ治療をしていないのですか?》
「横腹……? ああ! そうだ……痛くないから、忘れていました……」
それを聞いて龍が驚いたような声を上げる。
《痛くない? こんなにも横腹からのニオイがきついのに。重症化しているのでしょう。これ以上悪化する前に、魔力をそこに集中させた方がいい》
「でも私自身には魔法が効かないんです」
《魔力とは生命力でもある。かけるのではなく細胞の活性化であれば少しはできるはずですよ。私も手伝いましょう》
言葉通りに、目を閉じて横腹あたりに魔力を集中させるイメージを浮かべる。
なんとなくボンヤリと横腹に熱が集中したような気がした。
それに、龍の方からも温かな何かが伝わってくるのがわかる。
「うーん……これじゃあ、だめだな……痛くないから怪我をしたことを忘れちゃう。熱がなかったら思い出せたんだろうけど……」
ブツブツとつぶやきながら、ふと心の奥底にモヤモヤした思いがあることを思い出す。
昨日のシンのことだ。
「…………」
この任務はすぐに受けずともよかった。
自分に与えられた他部署からの仕事である。普通は上司を通すもので、『あとで言っておくから』だけで動き始めてはまずいはず。
それはよく理解していたが、どうもシンと会いたくなかった。
ユキはシンが本気で自分をどうにかしようと思ったのではないと気づいていた。あのぐしゃぐしゃの表情をしているさなか、シンの目が戸惑ったように揺れているのに気付いてしまったからだ。それでもパニックになってしまい大騒ぎをした。なぜあんなことをしたんだという憤りと合わせ、ユキの心の中はまるで今の空模様のようであった。
「シンさん……なんか……あの人を見ていると何かを思い出しそうになる……なんかどこかで見たような――ああ、前に飼っていた犬に似てるんだ」
《あの小坊主のことですか? 犬とはまたずいぶんと可愛らしいたとえですね》
「虐待されて捨てられていた犬だったんです。人との接し方がわからなくて、いつまで経っても血が出るほど人に噛みついていました。でも、噛んだ後に必ず後悔したような顔をするんです……シンさんだって悪い人ではないんです。いや、悪いんですけど……なんかこう、どうも憎めないというか……やったことにいちいち後悔するような人じゃなかったと思っていたのに、最近、なんかちょっと変なんです……」
《昔からですよ。あれは、昔から自分のやったことには後悔ばかりだ。なのに後悔などしていないような顔をする。でもその小坊主から、最近になって温かいものが伝わってくるようになったと仲間と話していたところです。番でも見つけたのではないかとね》
「番?」
《まあ、あり得ない話ですが》
それを聞いてユキは首をかしげる。
龍もユキの混乱がわかったのか、クスクス笑うと言葉をつづけた。
《あれは冷たい男だ。残虐で誰かに攻撃することをためらわない。知っていますか? 普通、龍に乗る兵士は戦場に代えの騎龍を連れて行くのです》
「代え?」
《戦場で命を落とす龍もいる。龍がいなければ、地を這う生き物たちの戦闘力は落ちる。だから、代えがいるのです。しかしあの男にはいない。戦場であの男の発する氣にあてられても正気で飛んでいられる龍がいないのです》
気が難しいのは、何も龍だけではないのですよと龍は言う。
その声色には悲しげなものがあった。
《あれは哀れな男だ》
「なぜですか」
《ああ、我が王。それは私の口からは言えないのです。我々は一生誰も明らかにはしないでしょう。でも、龍はみな知っている。龍の間だけでは、決して忘れてはいけない出来事として語り継がれているのです。あの男がどれほど哀れかを。そしてそれは、龍にとって大きな尊敬と畏怖の念を抱かせる。だからこそ……だからこそ、あの男のちょっとした悪戯を、我らが龍族は見逃すのです》
「いったい……なにが……」
いったい何のことなのかと思うが、龍はそれ以上口を開かなかった。あの男が哀れだなんて全く結びつかない単語を言われ、ユキは困惑していた。何が……そう考えれば考えるほど、わからなくなってしまう。
そうやって目を閉じて物思いにふけっていると、ふと雨があたらなくなったことに気づく。雨音はするので雨はやんでいないはずだ、と思い目を開けた瞬間――
《なんですか、貴方達は!!》
ドンッと体の側面に衝撃を受け、ユキの体は大空へ放り出されていた。
いつの間にか後ろへ迫っていた敵が、魔力を集中させるのに夢中になっていた1人と1匹の隙を突いたのだ。
いち早く気付いた龍が反撃をしようとするも、それは一歩間に合わず、あっという間に小さくなっていくユキの影に龍の血の気が引いた。
《我が王よ……!!》
龍の咆哮が濁った空へ響く。