ピンチ……
「寝ている暇があったら走れ!!」
「……はっ……はいっ……!!」
早くも、オーロクのしごきが始まってから一ヶ月が経とうとしていた。
オーロクは厳しいが意地悪ではない。それはユキが一番良くわかっていた。しかし、周りの者からすれば『いきすぎでは?』と思われることも多々あり、遠まわしに『やめたら?』と助言する者もいた。
(なんか……痩せた気がする……というか引きしまった? 2キロならなんとか走れるようになったし、重量上げも前よりはできる。剣を振り回しても疲れなくなった)
汗が喉を伝う。
疲れた体に叱咤して起き上がれば、一瞬視界が揺れた。
(オーロクさんは凄い。私に合わせて、私に丁度いい負荷をかけてくる。それにハンスさんもだ)
そう、結局ハンスもユキのしごきに参加していた。
魔力があるのに使えないのはもったいないとして、魔力の使い方を教えていたのだ。
しかし、ハンスはオーロクよりもはるかに厳しかった。
困ったように『うーん、駄目だね』と言っては拳骨をする。初めは魔法によるお仕置きだったが、吸い込まれていく魔力を見て無色であることがバレると慌てたユキが、『父から魔力を吸収する道具をつけられていて外せない』と言って誤魔化した。
そうしたらお仕置きは物理攻撃に変わったのだ。それがまた馬鹿みたいに痛く、最近ではハンスが手を上げるだけでユキがビクビクするようになった。
と言うのも、前王に頭を貫かれた時に『強烈な痛みは感じないのか』と実感した。だからてっきり他の痛みもそうなのだろうと思っていたのだ。
しかし、ハンスのゲンコツは痛い。つまり、麻酔や痛み止めを必要とするレベルの痛みに達しなければ痛みを感じるということであった。
お仕置きが限界ギリギリの痛みを与えられるものだから、確実にユキのトラウマとなっていた。
だが、ハンスの教え方は非常に上手かった。言葉も罰もきつものの根気良く教えてくれるハンスを、ユキはとても気に入っていた。
「ほら、早く起きろ」
「は、はい……すぐ」
起き上がってすぐ、横から模擬刀が迫る。
それを間一髪避け、再び地面へ転がった。
「油断するな!」
「……っ」
苦し紛れに足払いをかけるも、逆に足を踏まれて呻くはめになる。
「詰めが甘い」
踏まれたたままの足めがけて模擬刀を振りかざし、その足がどけられた隙にバク転で距離を取った。
見事に着地が決まり、ユキは思わずニヤリと笑う。
「何を得意げな顔をしている!!」
すぐにオーロクから怒鳴られるが、ユキは非常に得意げであった。
バク転ができるようになった。
これはユキにとって大きな一歩である。運動が苦手だったにもかかわらず、『できたら格好いいよ。女の子にもモテるし、戦場で攻撃を避けるのにも便利だし』とハンスに言われて猛特訓したのだ。我ながら単純……と思いながらも何とかできるようになり、今日は初めて実践で使ってみた次第だ。
ちらりとハンスのほうを向けば、うんうん、と頷いて満足そうなハンス。思わずニヤーッと顔が緩んだところで、オーロクの攻撃が再びユキを襲った。
「うッ!?」
もろに横腹に蹴りが入り、鈍い音を立ててる。
そのまま吹っ飛ばされて地面を転がり、ユキは動けなくなった。わき腹を押さえてうずくまる。うんうんと唸っていると容赦ない声がかけられた。
「戦いの最中に余所見をするやつがあるか!」
「す、すみません゛……苦しい……」
オーロクの顔を見なくともわかる。
こういう声をあげるときは、大抵耳を伏せて鼻面にシワを寄せている時だ。初めは食い殺されるのかと思って怯えたものの、その姿を見たオーロクの方が傷ついたような顔をしたのを見て、ユキは罪悪感にさいなまれた。
余談ではあるがそれからお互いにギスギスした空気を払拭するのが大変だったのだ。
「ったく……今日はこれまでだ」
そう言って、オーロクは医務室に連れて行くためにユキを俵担ぎにした。
『ああ……動かすと気持ち悪いです……別の抱き方のほうが嬉しいです……』というユキのつぶやきには『我慢しろ間抜け』と一刀両断である。
「ユキくん、だいぶ飛ばされたね」
そばで見ていたハンスが苦笑しながら近づいてくれば、オーロクは『てめぇが余計なこと教えたんだろ』とご機嫌ななめだ。
「だいたい、曲芸じゃねぇんだからバク転が――」
「何をしている」
声だけでシンだとわかった。
しかし、ユキは俵担ぎ中である。上司に尻を向けたまま、『お疲れ様です』と、一応、声だけはかけた。
「お疲れ様です。訓練中に負傷したため、医務室へ連れて行きます」
「負傷?」
「俺が横腹を蹴りあげました」
「や、やめてくださいよ……恥ずかしい……」
余所見をしていたのがバレる。
その一心で小声の抗議をあげたものの、シンは別のことに興味を持ったようで『ほう?』と楽しそうな声をあげた。そしてその直後、少しだけ顔をしかめる。それに気づいたのは無理やりシンの方を見ようとしていたユキだけであったが、なぜそんな表情になるのかがわからない。しかし、シンは納得したようにポツリとつぶやいた。
「なるほど……俺もついていこう」
「は?」
思わず声を出したのはオーロクだ。
「おおかた、余所見でもしていて怪我をしたんだろう?」
「…………」
バレている。隠すまでもなく、ユキの行動はお見通しであった。
* * * * * *
「いたたたた……その切り傷! 思ったより痛いので弱めの圧迫でお願いします……!!」
「自業自得だ」
「全くだな」
「ユキくん、余所見しなければ良かったのにねぇ。僕のことなんか見ている場合じゃあなかったんだよ」
誰にも心配されていない。
思わず涙目になるものの、言われていることは至極まともであった。微妙にハンスの台詞に納得がいかないものの、ユキは黙って耐えた。
「ホラ、次」
手際よくオーロクが手当てをする。
言わずもがな、オーロクは狼人間である。テープやらなんやらに毛が入ったら困ると思い、ユキはやんわり『自分でやります』と伝えた。それに何かの拍子に性別がバレても困るのだ。だと言うのに、面倒見のいいオーロクは『背中も自分でやる気か』と鼻にシワを寄せて尻尾をバタバタと不機嫌そうにふった。
「あ! 痛い! ちょっとグリグリやるのやめて下さい!!」
「そんなに力は入れてねぇよ」
オーロクは面倒くさそうな声をあげ、それでも少しだけ脱脂綿を押し付ける力を弱めた。
切り傷、擦り傷、アザはユキもここ一ヶ月でなれっこだ。しかし、オーロクは今日の思いっきり蹴ってしまった横腹のことを気にしていた。思ったよりも力が入ってしまい、そして思ったよりもユキが飛んだのだ。
まさかこんなに簡単に飛ぶと思っていなかったオーロクは、珍しく動揺して尻尾を垂れた。これに気づいたのはハンスだけだったが、目を細めるハンスを見て顔を引きつらせると尻尾を上げた。
「ほら、横腹出せ」
「え」
「横腹。今日一番の怪我だろ」
なぜかユキが動かない。
今まで大人しく腕やら足やらを差し出していたというのに、ここにきて動きを停止した。
「……なんだよ、出せよ」
あまりにも動かないものだから、そんなに痛いのかと心配する。
オーロクは、この少年がやたらと周囲の空気を読む人間だと最近になって気づいた。人の顔色を気にし、誰かの悲しむ顔や傷つく顔に敏感に反応するのだ。
だから、きっと物凄い傷を負ったのだと思った。
「い、いや……」
「出せって」
一方、今にも噴出しそうになっているのはシンである。
シンはユキが何に戸惑っているのかをよく理解していた。そして静観することに決めたのだ。ユキが時折チラチラと視線を向けてくるが、全然別の棚を見たりして無視を決め込む。
(ああ、聞こえているはずなのに、どうして目が合わないんだろう、使えない上司だな――……ハッ……意地悪か! 意地悪かこれ……!!)
「出せって言ってるだろう。なぜ隠す」
「いや、あの~……」
しびれを切らしたオーロクがユキの服をまくり上げる。
それをユキが素早く止め、医務室に妙な空気が流れた。
「何やってんだ」
「……自分でします」
「……なんでだよ」
「いや、別に……手、届きますので……」
「ついでだ。あとココだけだろ」
「大丈夫です、自分で――痛ぁぁぁ~……! 押さないで下さい……!!」
「なんで隠すんだお前は!!」
力任せにユキを押し倒し、両手をひとつにまとめると洋服へ手をかけた。
しかし、ユキも黙ってはやらせない。必死に抵抗し、バタバタと暴れる。
「ぐあっ……コラッ! 暴れるな!」
「いいって……言ってる、じゃないですかっ……! クソッ」
「強姦直前みたいだな」
フンッと鼻で笑うシン。
それが耳に入り、オーロクは動きを止めた。
ジッとユキのことを見つめる。暴れたせいで着衣は乱れ、顔は真っ赤になり、目は潤んでいる。
それを確認した瞬間、オーロクは絶望した。
(なぜ、今、キュンとした……)
気のせいかなと思ってみるも、睨みあげるユキと目が合うたびに心臓が高鳴る。
これは……これは……と思うたびに、頭がこんがらがっていく。
よくよく見れば、おかしいところだらけだ。ユキの足は筋肉がついて細くなった。しかし、それがなぜか女の足のように見えた。手もだ。手も非常に細い。喉も、腰も、何もかもが――……
真実としては何一つ間違ってはいないが、真実を知らないオーロクは困惑した。まるで番を見つけたときのような興奮が襲う。
しかし、相手は男だ。
「……? オーロクさん?」
「…………」
スッと。
引き潮のごとく自然に、そして速やかに立ち上がった。あれほど頑なだったオーロクはスッとユキから離れると、大きく息を吸い込んで、その息を吐き出さないまま停止する。
「え……? オーロクさん、ちょっと……」
「なに、どうした?」
顔を覗き込むハンスに、反応すらしない。
いよいよおかしいと思ったハンスが目の前で手を振るも、反応は返ってこなかった。
「……明日は、朝の訓練はナシだ。夜は追って知らせる。いや……やめよう。ナシだ。いい機会だから、しばらく休め」
「え? で、でもこの程度の怪我なら」
「違う……違うんだ……」
「何が――あ、ちょっと……!」
サッときびすを返し、オーロクは一度も振り返ることなく医務室を出て行った。
「どうしたんだ、あいつ」
不思議そうな顔をしたハンスとユキ。
ただシンだけが、唇を噛みしめて窓の外を見ていた。