初めまして、ご主人様。
「さあ、座りなさい」
(この人が……私のご主人様)
ユキの脳は考えることを放棄していた。脳の処理能力をはるかに超えた事態が起こり、何も考えられなくなっていたのだ。
周りがざわつくほどの値段で買い取られたらしい、ということは理解していた。
そして、この男が、場内にいた連中が悲鳴を上げるほどの何かをしたということも。
(何をしたんだろう……殺した? ……私も……殺される? もう考えるのが面倒くさい……)
「可哀想に……痩せているな」
男に手渡されたコップには、ドロリとした液体が入っている。
ニオイは嗅覚がマヒしてわからなかった。
(これは毒? 飲んで死ねということなの?)
震える手でコップを握りしめ、ようやく動き出した脳をフル回転させて、辺りから情報を得ようと観察を始める。
(家と思われる場所にいる。とても豪華なつくりの家。ご主人様は金持ち。私は――殺されかけているかもしれない)
「私の言葉がわかるか?」
男が自分の顔をのぞき込んでくるのが目に入り、ユキは何か自分に話しかけているのだと気づく。
(何……? わからない……)
「名は? 言えるか? ……ふむ。言葉がわからんようだな。異世界の住人であれば当たり前か」
男はスッとフードを外すと視線をユキに合わせた。
フードの下からはハーフアップにした銀色の長髪が現れた。側頭部は綺麗に編みこまれている。黒い軍服につつまれた体は、年のわりにがっしりとしていて背も高い。たっぷりあるヒゲは綺麗に刈られ、清潔感があった。
(綺麗な銀色の髪とヒゲ……おじいさん、だったんだ……この服装は軍服? もしかして軍人……? ということは……私は助かったの?)
目は綺麗な黄緑色で、ユキは現状も忘れ、ジッとその目を覗き込む。
「ん? どうした? ああ、ローブが古いから、こんな恰好をしているとは思わなかったのか? あれは潜入用のボロだ」
そう言って男は苦笑する。
「しかし……お前の目は本当に黒いのだな。髪も……綺麗だ」
男はユキに言葉が通じないと知っていながら、ユキにひたすら話しかけた。
そうでもしないと、この小さな少年が不安がると思ったのだ。
「私の名はアルージャだ。わかるか?」
(なんて言っているんだろう……言葉と顔が優しい……殺されるわけではなさそう)
「アルージャ、だ。アルージャ。アルージャ」
アルージャと名乗った男は、根気良く自分を指差して“アルージャ”といい続ける。
それを見て、ユキはようやく“アルージャ”がこの男の名前なのだと理解した。
『アルー……ジャ? 貴方の名前……?』
「! アルージャ。私の名だ。アルージャ」
『名前……みたい……』
アルージャが嬉しそうに笑う。
その顔を見て、ようやくユキは『ああ、もしかしたら私は、本当にこの人に助けられたのかもしれない』と思えた。ユキが簡単にそう思ってしまうほど、アルージャの笑顔は柔らかかったのだ。
『ユキ』
アルージャに習って自分を指差しながら、ユキも自己紹介をする。
「ユキ? お前の名か?」
『ユキ。私の名前です。ユ、キ』
「ユキ……お前の名なのだな」
『ユキ』
「ああ、わかった。ユキ、だな。もう大丈夫だぞ、ユキ。お前はどこにも売られることはないし、お前を苦しめるやつは誰もいない。私が守ろう」
アルージャの笑顔を見て意味が通じたらしいと理解したユキは、薄っすら口角を上げる。
はたしてそれが笑えていたかは別にして、ユキの名を知ったアルージャは今まで感じたことのない気持ちになっていた。
「ああ、そうだ。薬をかけてやろう。ユキのその髪と目の色は綺麗だが目立つ。体に害はないから安心しなさい」
そう言って髪に霧吹きを振りかけ、目に素早く目薬をさせば、ユキの髪と目は茶色へ変わった。
これは特殊な薬草を使っており、一ヶ月に一回つけるだけで色が持つ薬品であった。
『え!? なにこれ……なんで? 髪の毛の色が違う……こすっても落ちない……』
「さあ、それを飲みなさい。体が温まるし、栄養が付く」
再びすすめられたコップの中身を、動揺を隠せないまま、だがしっかりと全部飲み干した。
それを見て満足そうな表情になるアルージャ。
すぐにメイドを呼んで、『風呂へ』と支持を出せば、数人のメイド達は恭しく礼をしてユキを連れて出て行く。手を引かれるままに大人しくついていけば、そこは泳げるほど広い風呂であった。
「さあ、服を脱がせますよ。失礼致します」
『……え? あ! え!? ま、待って下さい! 自分で……! 自分でできます!!』
この後、大騒ぎして顔を真っ赤にするユキを見て、何を言っているのかをなんとなく理解したメイドは笑いながら風呂場をあとにした。
外から楽しげな声が聞こえてくるのを聞きながら、ユキは真っ赤な顔のまま大きくため息をついた。
* * * * * *
「それで?」
不機嫌そうな声を出したのは30代くらいの大男。不揃いでボサボサとした長髪を背中に流している。
濃い赤色をした髪の隙間から見える金色の目は、獰猛な野獣のようにギラギラとしていた。伸びたアゴヒゲや着崩した制服が、妙な色気を放っている。
「私が買ったのだから、私が育てるに決まっている」
アルージャの目の前に立っている男はそっと目を閉じて、大きなため息をついた。
「召喚落ちは国で保護する決まりだが? 王国騎士団の総統と言えど、その所有権は勝手に決められるもんじゃねぇ」
「知っている。だがもう役所には奴隷登録をした。私はアレが本当に召喚落ちだったとは知らなかったのだ」
「知らなかったにしては、随分と根回しのいいことで。奴隷所有権の処理はわずか30分ほどで終わったそうだな。いつもならば2~3日はかかるだろうに」
「兵は神速を尊ぶからな。それよりもシン。アレの名はユキというらしい。言葉がわからんようで、それ以外のことはまだ聞けていない」
シンと呼ばれた男は、目の前に座る上官が全く懲りていないことを知り舌打ちをした。
「何が“それよりも”だ。異端審問会はお前がやったことを把握している。だからこそ、こうして拘束令状が来て、クソ面倒くせぇことに俺がお前を拘束しにきたんだろうが。手間かけさせんじゃねぇ」
「なに、一度所有権を登録してしまえばこちらのものだ。この決定は国ですら覆すことはできん。そうだろう?」
「だからこそ面倒なんだよ。それにお前は絶対に国に処刑されることはねぇ。だから所有権は永遠にお前のもんだ。それを知っててやってんだから、困った爺さんだぜ。俺が殺してやろうか?」
「ははは、私にそんな口を聞くのはお前だけだな。異端審問会がお前をつかわしたのは間違っていなかったようだ。違うか?」
シンは顔をしかめると、どっかりと椅子に腰掛けた。
「で、お前の要求とその見返りはなんだ」
「話が早くて助かる。準備は整っている。アレが――ユキが目覚めた後のことは任せたぞ。見返りは……そうだな。特に決めていない。お前が自由に決めるといい」
そう言って1冊の本をシンへ差し出した。
それを受け取るでもなく、シンは射殺さんばかりにアルージャを睨みつける。
「高くつくぜ」
「心得た。任せたぞ、シン。さて、私のお迎えはもう表にいるのだろう?」
膝をパンと叩くと、アルージャはゆっくり立ち上がる。
それと同時にシンが扉の向こうへ声をかければ、戸をあけて2人の騎士が入ってきた。
「拘束は必要ない。逃げるつもりもないからな」
「却下だ。せいぜい軍部内中を引き回されて、晒し者になるんだな」
「やれやれ……年寄りの扱いが悪いな」
「黙れ。テメェで拾ったモンの面倒もみきれねぇやつが言える台詞か」
「……違いない」
アルージャは苦笑すると、おとなしく騎士に手を差し出した。
そこへ手錠がかけられると、抵抗するでもなく騎士達と外へと出て行く。それを見送りながら、シンは小さく舌打ちした。