初めまして、異世界。
「さあさあ、奇人変人奴隷オークション本日の目玉はこれだ! 稀代の珍種、召喚落ち!」
仄暗い箱の中。
男のダミ声が聞こえた次の瞬間、目が潰れるほどの光を感じ、ユキは思わず顔をしかめた。
薄っすら開けたユキの目には、檻にかかっていた布を丸めて持っている太った商人の男が映っている。
そして布がはがされると同時に、周囲がどよめいた。
「先日、王都で行なわれた召喚で零れ落ちた“召喚落ち”だ! 世にも珍しい異世界の人間だよぉ~! 異世界から来た証拠に毛色はこの世界に存在しない黒!」
そう話しながら商人の男はバシャリと頭からバケツに入った水をかけ、ユキの頭をかきまわす。
何かで色を付けたわけではないという証明のためだ。
「男だが見ての通り力仕事には向いてない。だが、この中性的な顔立ちは観賞用にもってこいじゃないですかい? さ~、どうだいどうだい!」
檻の隙間から伸ばした手でユキのアゴをつかみ、客に見せるようにしてグイグイと左右へ振る。
ユキは鈍い痛みに顔をしかめた。
(どうしよう、何を言っているのかわからないけど、こいつは確実に私を売ろうとしている……)
この今にも売られそうになっている少女は、名を四条ユキといった。
顔は日本で言えば平凡な顔立ちで、体型だってほっそりとした女性そのもの。
しかし、胸がない。身長も成長途中の男子に見えなくもない高さだからか、男なのか女なのか……といった中性的な雰囲気に見えている。さらに言えば、髪をおかっぱにしたのも性別を勘違いされた原因の1つだった。この世界では、女性は絶対に髪の毛を腰より下まで伸ばすのだ。
「確かに力仕事は駄目そうねぇ? 整えたら連れて歩けるくらいにはなるかしら」
(ああ、どうしてこんなことに……というか売られるって私……どうすんのよ……ああ、どうしよう……悠長に構えすぎた……もっと早くに行動を起こすべきだった……)
後悔しても遅い。
そんなことはユキが一番わかっている。しかしそう思わずにはいられない。
ユキの目に映る人々は興味深げな顔をして檻の中を覗き込み、誰一人としてこのオークションに疑問を抱いていないように見えた。
(まるで中世ヨーロッパみたい……奴隷制度があってもおかしくない世界なんだ……)
着飾ったご婦人達は髪が長く、誰しもがその髪を綺麗に結い上げている。それに、簡素なテントには似つかわしくない豪華な衣装。
それを見たユキは、『恐らく、これがこの世界でのご婦人の基準なのだろう』と理解した。
見たこともない人達、見たこともない景色――……ここはユキがいた世界とは違うと理解するのに十分すぎるほどの情報量。
「無駄な筋肉が無くてお人形さんみたいね。不思議な顔立ちだけど、ミステリアスでいいわ」
「ホラ、見て。あのアキレス腱。綺麗に筋が出ているわよ。鉈で叩き切ったら、どんな声をあげるのかしら」
「なんというか全体的に平面だな。この世界のどこにも、こんな顔をした人間はいないだろうさ。魔法で変えているわけでもなさそうだ」
そう。この世界は魔法が当たり前のようにあり、赤子でも魔法を使え、人外種が住んでいて、王様だとか騎士だとかがいる。
ユキがこれに気づいたのは数日前だ。なぜなら、その魔法でユキを拘束しようとしたのが、今まさにユキを売り飛ばそうとしている男だったからだ。
事の発端は数週間前にまでさかのぼる。
ユキを捕えようとして唱えられた魔法はユキには効かず、それを見た男共は『こいつ、ただの召喚落ちじゃねぇ! 無色だ!』と大騒ぎをする事態になった。
ユキはといえば、今自分に向けられたモノがどういったものなのか全く分かっていなかった。しかしユキのことで大騒ぎをしているとき、馬車から1人の汚い風貌の男が転がり落ちて森の方へかけていった。すぐに気づいた男共がユキに向けたのと同じモノを発すると、あっという間に空中に現れたロープがかけていった男をグルグル巻きにしたのだ。
ポカンとしてるユキをよそに、男共はグルグル巻きの男を手早く拾い上げて馬車の中に押し込んだ。
『……うん、大丈夫。何も、なかった』
ユキは動揺し、それから現実逃避をした。
今捕まえられたように見えたのは、きっと仲間で、きっと何かのお仕置きの最中だったのだと。この人達は自分を助けてくれる人で、怪しくないのだと。
あまりにも愚かであるが、すでにユキの中には、冷静に考える余裕なんぞみじんも残っていなかった。
『それよりもあのビックリ生物だよね……! 本物なのかな? 着ぐるみなんて生活の邪魔になるようなもの着ないだろうし。変な人、いっぱいいるなあ』
言葉通り、拘束されている間にユキは今までに見たこともないような生物達とたくさん出会った。
ユキを檻の中に入れて鍵をかけた男には頭から2本の角がはえていたし、ユキがトイレに行くのを見張る係りはトカゲのような姿をしていた。
「こんな珍しいものをよくぞ……商人のオヤジ、本当に運が良かったな」
「だが、男だと言うのが残念だ……女であれば……いや、しかし見ようによっては女とも……」
驚いた声をあげる客らに向かって、商人の男は至極得意げに鼻を鳴らす。
召喚落ちというのは相当に珍しく、商人の男はかつてないほどの幸運にすっかり興奮していた。
召喚落ちとはその名の通り召喚から落ちた者のことで、国にしか許されていない召喚により、正規の位置ではなく森だとか平原だとかに飛ばされてしまった者のことを言う。
本来は国が探し出して保護するものの、国が見つける前に拾った人が召喚落ちを売り飛ばすという事件が多発しており、国は長年そのことに頭を悩ませているのだ。
それでも召喚をやめないのは、ひとえにある問題があるからだと言われているものの、国は現在までのところ、この件に関しては完全に黙秘している。
「お客さんがた。俺達“ノベラップ商会”を舐めてもらったら困りますぜ」
商人の男は笑いをこらえようと口元に力をこめるものの、それは全く意味をなしていないようでプルプルと震えていた。
「国はめったに召喚をしねぇ。だから召喚落ちを拾い上げる機会なんざ滅多にない。だが、俺らはお宝を探し当てるのが仕事だ。毎日、毎日、宝を探している俺達と、たまにしかお宝を探さない国」
嫌らしい笑みを浮かべる商人の男が『どっちに実力があるか、おわかりでございましょうな?』とつぶやけば、前の方に座っていた数人の身なりのいい男女が笑う。
「おっと話が長くなっちまった……国に見つかる前に売りさばかねぇと」
後半を小言で言うと、商人の男は手に持ったステッキをガンガンと檻に叩きつけた。うるさくて仕方がないその行動にユキが思わず顔をしかめるも、男はチラリともユキの方を見ない。
「さあさ、気を取り直して。この奴隷、見ての通り珍しいでしょう? しかし珍しいのは色だけじゃあない!」
ユキの目の前を商人の男の足がゆったりと通る。
三文芝居の役者のように勿体ぶって観客へ大声を張れば、辺りからは歓声とヤジが次々とあがった。
(まるで映画みたい)
首に鉄の輪がはめられているせいで、ユキは完全に下を向くことができない。そのため、できる限り下を向いたあとは目を閉じることにした。
視覚を絶つことによって、ユキの精神は少しだけ安定する。
(落ち着かないと……なんとか……この状況を脱しないと駄目だ……売られてしまう)
「なんとこの人間、魔力を宿さない“無色”ときた! ちょっと魔力のある方々は、薄々気づいていたんじゃないですかい? ほら、そこの魔術師の旦那! もう買うしかないだろう!? 魔術師なら魔力を溜め込むのに使えるからなあ? 召喚落ちの無色ときたら、どんな魔力蓄積用魔石よりも上等だ!」
「おいおい、オヤジ。そいつは本当に本物なのか? 召喚落ちで無色なんて、ここ何百年聞いたことないぞ。どうにも信用ならないな」
「旦那! 旦那、旦那! その考えは損だぜ? 魔法が使えるお方は、この奴隷に向けて魔法を使うといい。嘘か本当かはそれでわかる」
何人かがユキに向けて魔法を発する。ヒュンとあちこちから聞きなれない音がしたユキが目を開けると、目前に複数の光の玉が迫っていた。
それを見たユキは、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をしながら『わああ!?』と叫び、せまい檻の中で後ずさる。
「なんてことだ……」
「本当に魔力を持たないのね……」
ざわつく会場。
ユキが反射的に閉じた目を薄っすらと開ければ、スーッとユキの体に入って消えていく光の粒子が見えた。観客からは驚きのどよめきが起こったものの、一番驚いたのはユキである。
ユキは自分に魔法の類が効かないらしい、ということは知っている。だがしかし、3D映画のようなもので、何かが向かってくるのだから『ぶつかる!』と思うのだ。実際にぶつからないとしても怖いものは怖い。
それに、ユキからすれば本当に全ての魔法が効かないのかが疑問だった。
もし、万が一にでも効く魔法があったとしたら? それに対抗する力を持たないユキは、モノによっては何の抵抗もできずに死ぬしかない。
「もちろん、魔力吸収の類の装飾はつけていない。それは魔法を発したご本人らが一番おわかりでございましょうな? それにどうです? コイツは吸収性が良いようだから、使った以上に魔力を吸い取られた気がしませんでしたか?」
「た、確かに……魔力を余分に吸い取られた気がした」
「ありえない……発した魔力以上に吸い取られるとは……こいつは一体どれほどの蓄積量を持っているんだ」
「どうです? 素晴らしいでしょう! 今買い損ねると、この先、未来永劫、生きている間に召喚落ちの無色にお目にかかることは、まずありませんぜ!」
興奮しきった商人の男は床を踏み鳴らすと、本日一番の力をこめて檻を叩いた。
「さあ~! では1,000万ニルからいきやしょう!」
(駄目だ……もう、駄目だ……これって競りが始まったんだよね? どうしよう、もう……駄目なんだ……遅かった……)
試しに、と扉の錠をこっそりいじくれば、それに気づいた見張りの男が檻の隙間から棒を入れてユキの頭を叩く。
(駄目だ……)
辺りのわんわんとうるさい声を聞きながら、ユキは『どうせ売られることが確定したのなら』と自暴自棄気味に過去のことに思いをはせはじめた。
なぜか、涙は一滴も出ない。
そもそもこんなことになったのは、ユキがパジャマを着てアイスを片手にテレビを見ていた時のことだった。
一瞬重力がグッと体を押さえつけたかと思うと、次の瞬間には地面にズブズブと飲み込まれていった。
ユキは最初、それを呆然としながら見つめていたものの、手に持ったアイスのことを思い出して慌てて口の中におさめると、アイスの棒をゴミ箱に投げ入れた。
見事ゴミ箱にアイスの棒が入ったのを確認し、『やった!』と小さく叫んだ時にはこの世界にいたのだ。
『……異世界?』
ユキがポツリとつぶやいた言葉。それは真っ暗な森の中に溶けて消えた。
あたり一面真っ暗な木々に囲まれ、発した音は反響することなくスーッと消える。深い深い、森の奥なのだと知った。
この時、ユキが酷く落ち着いていたのは、内心パニックになっていたからだ。
じゃなかったら、森の奥から現れた武装した商人風の男達に対して、『どうもこの人達は怪しいぞ』ということに気づいたはずだ。
『だ、誰……どうしてそんなに武器を持っているの……? あ、わかっ――わかった……! 襲われたら危ないからでしょう? 自己防衛ですよね?』
商人が武装して移動するのは珍しいことではない。しかし、その武装具合が尋常じゃなかった。騎士かと思うほどに武装しており、どうみてもゴロツキなのが4~5人。傭兵のようなのがさらに2~3人。
違う出会いを果たしていたのなら、ユキは間違いなく盗賊だと思っただろう。
(あの時の私はバカだった。どうして逃げなかったんだろう。どうして、この人達が自分を助けてくれるかもしれない、だなんて思おうとしたんだろう)
ユキがそう思おうとしたのは、いわゆる現実逃避の一種であった。
ユキの待遇は他のお仲間に比べるとはるかに良かったのだ。だから、出会いは最悪だったものの『きっと向こうも得体のしれない私に会って動揺したんだ』と、思うことにした。おかしいと思う部分を、考えないようにし続けて。
どこか、『危なくなったら逃げればいいや』という甘い考えもあった。
しかし現実は甘くない。
ユキを拾った商人達は『国より先に見つけた』『男だから早く売りさばいてしまおう』『黒髪と黒目だから高く売れるぞ』などと散々大騒ぎをしたのち、これから自分達が手に入れるお金を思って、しまりのない顔になった。
すっかり興奮しきった商人達はユキに対して商品としてのチェックもすっ飛ばしたくらいだ。病気や怪我の有無よりも、黒髪黒目であれば、それが男だろうが女だろうが売れてしまうのでどうでもよかった。“どう見ても異世界人”、“無色”、“不思議な顔だがそこそこ整っている”。これだけでよかったのだった。
『連れていけ! 逃げられるんじゃねぇぞ!』
とは言え、完全にチェックをしないわけにはいかない。だが結局チェックは行われることはなかった。
なぜチェックをしなかったのか。
それは、冷静になった商人がユキをチェックしようとした時に、商人達を恐れたユキが暴れたからだ。そのせいで怪我をしたものだから、『これは駄目だ』と諦めた。どのみち高い金が入ってくるのは確実なのだから、見た目の怪我さえなければいいだろうと思った。目に見えない傷があろうと、売れたらこっちのものだ、と。この商人達は、どこまでもクズであった。
また、ユキが他の奴隷によって傷つけられないように1人用の檻に入れ、栄養満点の食事を3食きちんとあたえ、毎日数十分だけ運動をかねた散歩のために、見張りつきで檻の外へ出したのだ。奴隷としては破格の扱い。
他にも毎日体を拭く布と湯を渡し、お風呂だってオークションにかけられる直前には入れてやった。トイレも望めばいつだって連れて行った。暴れず口答えもしなかったユキが殴られることはなく、首輪こそつけっぱなしだったものの、夜には毛布もあたえた。
『も、も、もしかしたら……というか……やっぱり、この人達は、私を助けてくれようとしてるんだ。うん、きっとそう』
これが、ユキが“自分は助けられたのだ”と思おうとした要因でもある。扱いは奴隷のような気がしたが、それは時たま襲ってくる魔物らしきものから自分を守ってくれているのだということにしたのだ。
ようやくユキが『いよいよ駄目だ』と感じたのは、拾われてから3日たったある日のことだった。
突然檻から出され、見たこともないほど汚れた生き物達と引き合わされた。
『ちょ、ちょっと……! あまり引っ張らないで下さい! 歩きにくくて――わっ! ほら、転ぶところだ――え』
汚れた生き物達は最低限の布で体を覆われ、手に、足に、首に鉄の錘をつけられていた。これでようやくユキは『やっぱり駄目だ』と思い、しかしそう思った時には全てが遅くて、絶望したのだ。
『あ、あ、あの……! ここ、ここはどこですか!』
発した言葉は無視される。
強く腕を引っ張られ、1つの馬車の前につれてこられた。周りには、汚れた生物が綺麗に一列に並べられており、ユキもその列にくわえられた。
そしてその馬車の前に、今にも死にそうな熊のような風貌の生物が、鼻からも口からも大量の血を流しながら引きずられてきた。
『っ!? な、なんでそんなにっ……怪我を!? 誰か……だ、誰かお医者さん……呼ばないと!』
ユキの言葉は誰にも通じない。
そして熊のような生物は、みんなの前で折檻されて死んだ。そのまま、みんなが見守る中、川の中へ放られたのだ。
お前達も同じ目にあいたくなければ、大人しくしておけという意味をこめて、その残酷なショーはみんなの前で行われた。
『なんてことを……』
その騒ぎがあってから、全ての奴隷は一気に静かになった。
そしてユキも、目の前で殺人ショーを見せられてから、逆らったら自分もあのようにして殺されるのだと思い、この日から一言も言葉を発することはなくなった。
こうして何日かが過ぎ去って今に至る。
殺されはしなかった。だが、今まさに売られようとしている。
「さ~! 金額は5,000万ニルに突入だ!!」
男の大声と客の白熱した喧騒で、ユキの意識が再び意識が浮上する。
視線の先には、熱気で揺らぐ空気と、汗を流しながら嬉々とした顔で檻を見つめる人々の顔があるのみ。
「映画……みたい……」
ポツリとつぶやいた言葉は、簡易テント内の喧騒にかき消される。
小さくため息をつき、再び頭を下げて目を閉じた時のこと。
急に何の前兆もなく異常な視線を感じてゾクリと背筋が寒くなった。
「6,500万ニル! いや、6,600万ニル!! 他にはいないか! 他には!?」
異様な空気に跳ねるようにして顔を上げるも、異常は見当たらない。それに、こんなにも異様な空気だというのに誰も気にしていないようだ。
視線の主を探そうと会場を見渡していると、よく響く声が場を圧した。
「1億ニル」
その声は会場中に響くほどの大声ではない。
しかし商人の男は耳ざとく聞きつけ、騒ぐ客に静かにするように怒鳴った。もはや他の客は客として見ていないというのがハッキリわかるというのに、誰もそれを気にしたふうではない。
ようやくあたりが静まり返った時には、商人の男は尋常じゃない量の汗をかいていた。
「だ、旦那……今、なんと?」
「その少年に1億ニル出そう」
静まり返った簡易テント内は、再びざわつき始める。
ところで、このニルとは1ニルが1円で、1億ニルというのは奴隷にしては破格過ぎる値段であった。どんなに高級な奴隷でも、1億なんて数字がついたことはない。
「じょ……冗談言っちゃあこまりますぜ。あんた、見たとこただの旅人だろう?」
声の主は、真っ黒のローブに身を包んだ大柄の男。黒いローブの下は見えないが、ローブはすれていて小汚い。フードの奥にあるはずの顔には影が落ちていて見えなかったが、その声からかなり年が上の男だということがわかる。
「そんな旅人風情に持っていかれるくらいなら、ワシが1億と1,000万出そう」
得意げなダミ声は成金趣味の肥えた老人だ。
全ての指に指輪をつけており、その指輪も趣味の悪いゴテゴテとした宝石が山のようについている。ニヤニヤと笑いながらそういい、ローブの男を馬鹿にしたような顔をした。
「どうだ、商人。ワシに売らんか」
この時点で、商人の男の手は震えて膝は笑い出しており、ごくりと生唾を飲み込む音がユキの耳にまで聞こえてくるほどに狼狽していた。
通常、奴隷は最低価格がリンゴ1個ぶん……下手すればタダ同然の値段であるのに対し、どんなに上等な奴隷でも5~6,000万ニルが相場だ。
であるから、この男が言い出した金額というのは途方もない額であった。
「では、私は1億と5,000万ニルを出そう」
あたりは再び静まり返る。
成金趣味の老人は悔しそうな顔をしながら『1億8,000万!』と声を張り上げる。
誰かが『ヘタクソの競売が始まった』とつぶやいたが、それが聞こえた商人の男も全くもってその通りだと思った。しかしこれは儲けになる。商人の男は喉元まで出かかった言葉を、口の中に溢れる唾液とともに飲み込んだ。
「ふむ……面倒だな。いくらでも払おう。手順が逆になって申し訳ないが、これで買えるか?」
そういってローブの男は細長い紙をちらつかせる。
ユキにはそれが何かわからなかったが、商人と何人かの貴族には見覚えがあった。
「プ……プラチナ小切手!?」
商人の男はもはや呼吸をするのも辛いようで、パクパクとあえいで顔が真っ青になっている。
ユキ一体どうなっているのかと思案していると、檻の後ろに控えていた下っ端達がボソボソと話し始めた。
「ありゃあなんだ?」
「なんだお前、知らないのか? あれは貴族の間で特権階級だけが持っている小切手さ。あれが出てきたら、もう誰も競売で勝てる奴はいねぇ」
「なんだそりゃ。つまんねぇシステムだな」
「ああ、全くもってその通りだ。興醒めもいいところ。だから普通はおおっぴらに出さない」
なるほど、と片方の男は納得する。
凄さがあまりわかっていないものの、“凄く空気が読めない人が使う小切手”という考えで落ち着いた。
「億単位以上の金が動く時に出てくるもので、間違ってもこんなひらけた場所でお目にかかれるものではないんだがなあ」
「じゃあどうやって使うんだい?」
「大抵は競売が始まる直前にこっそり商人から商品リストを買い、目星のものがあればプラチナ小切手を出して取りおいてくれるよう伝える。そうすればその商品を競売にかけない代わりに、商人は言い値で商品を売ることができるというわけだ」
「ははあ、なるほどな」
「そして、買い手が万が一にも商人の言う金額を出せなかった場合、商人に対して5億ニルの罰金を支払うって話だ」
つまり、よほど自分の財産に自信がないと使えない小切手なのだ。
「……じ、じ、10億だ……じゃなきゃ売らねぇ! これでも安いくらいだろう!?」
強欲な。
誰もがそう思った。
このローブの男が金を持っていると気づいた瞬間にこれだ。もう成金趣味の老人のことは見えていないに違いない。
しかし、これが本当に無色の召喚落ちなのだとしたら、それでも安いくらいだとローブの男は思った。
ローブの男はスッと立ち上がると満足そうな声を出す。
「よろしい、交渉成立だ」
ローブの男はゆっくり立ち上がると、震える商人に先ほどの紙切れを押し付け、商人の腰についた鍵を引きちぎる。
その鍵を使って丁寧に檻からユキを取り出すと、ローブの下にユキを押し込み、静かな、しかしハッキリとした声をあげた。
「さあ、宝探しは終了だ。ここから先……どちらの実力が上なのか教えてやれ」
その後のことはユキには何もわからない。
ただ悲鳴とか何かが燃える臭いだとか、何が起こっているのかを察するに十分なものを感じただけだ。
「宝探しは下手でも、何かを守ることに関してはこちらの方が上だ」
ポツリとつぶやかれた声を聞きながら、ユキはただ、黙って男の腕の中にいた。