黒龍の降臨。
(く、くるし――)
ユキは死にかけていた。
沈む体、つかまれる足。もはや抵抗する力も残っておらず、限界が来ていた。口から出ていったなけなしの空気は戻らない。そんな当たり前の事が酷く憎い。
(ああ、このまま死んで――)
「あら……忘れていんした、人間は酸素がないと死ぬのでありんすね」
そう聞こえた瞬間、フッと顔の周りの水分がなくなる。
「え、空気――ゴッホ!! ゴホ、ゲホッうわぁぁぁああ……!! 苦しかった……! 息できる……!! なんで!? ゲホッゲホッ」
「あら、大変」
艶かしい声。
息も絶え絶えに顔を上げれば、見開いた目から目玉が落ちるほどグラマーな、そして全裸の美女が浮いていた。
「あ、あな、あなたは……」
「ホラホラ、黒龍様。来てあげんしたよ。んもう、来るのが遅いでありんすね。待ちくたびれてしまいんした」
長髪にかかった薄い青緑色の長い髪。薄紫の差し色が入ったそれが水中でふわりと漂う。
(海草のよう……)
「わっちはこの湖に住む龍でありんす。ノーリと申しんす。この湖にきたと言うことは、黒龍様も力の解放をしにきたのでありんしょう?」
「力の解放?」
「あら、黒龍様の保護者は何も教えずにここにきたのでありんすか?」
驚いたような顔をしたあと、ノーリは困ったように笑いながらため息をついた。
「ここは龍が大人になるための湖でありんす。ここに入って試練を受ければ、人間でも龍になることができんすよ。とは言いんしても、龍になる要素がなければ死ぬだけでありんすが。あと試練に負けても死にんす」
「怖っ。やめます」
「あらあら、駄目でありんすよ。もう試練は始まっていんす」
グブグブグブと、理科の実験で作ったスライムが排水溝に吸い込まれていくようなエグイ音がした。
音の出所は下。視線を向ければ、透き通った水中に黒い穴。声をあげるまもなく、ユキは穴の中に吸い込まれていった。
* * * * * *
「やあ、また会ったね。ここに来るペースが早いな、君は」
「貴様、あの時の……」
死にそうな声で返す。
目の前にいるキラキラ男が憎い。ただその一心で、ユキは立ち上がると力任せに頬を殴った。
「いて!」
「逃げといて痛いとか言うな! 当たってないわ!」
「アハハ、元気だね。良かった」
「よかないわ!」
肩で息をしながらへたり込む。
体を一通り調べてみるも、特に異常はなさそうだった。辺りは真っ暗闇で、男の周りに男自身が発する光りがあるのみ。しかしその光りも、ユキの体を照らすほどの光量ではない。
「さて、今度はこの記憶を返そうか」
男はふわりと光りの玉を出す。
それが体の中に吸い込まれるのを見ながら、ユキは『なぜ当たり前のように受け入れているのか』について考えていた。
1つの映像が浮かぶ。
『じゃあ、龍がいいです!』
『龍? 人間は好きだねぇ。そういう設定。君みたいな子、何人も見たよ』
『何人も私と同じ目にあっているということですよね。貴方みたいな――がそんなんでいいんですか? ――は何も言わないの?』
『ハハハ。君には特別にオマケをつけてあげよう。さあ、何がいいか言ってごらんなさい』
『誤魔化しましたか? それ誤魔化し? 絶対に隠蔽してますよね?』
『よし、もう1つオマケ。特別に珍しい龍にしてあげようね。そーら』
『ぐわあ!』
映像はそこまで。
なにかドッと疲れたような気がして、ユキは大きなため息をついた。
「こうして、君の願いは叶ったわけだ」
「なんであんな願いを言ったのかわかりませんでしたけど。というか、貴方は誰なんですか」
「あれ、それ今聞くの? そういうのは初対面の時に聞いてほしかったなあ~」
「待って。なんで半透明になってるんですか。手を振らないで。ねぇ、手を振らないで……!! ちょっ……待っ――んの野郎……」
完全に消え去った男。
辺りには再び暗闇が訪れる。それと同時に、再びあのピンクの水が空間に溢れ出した。
「ああ、また……どうか息ができるくらいの空間を残しておいてくれますよ――ゴボゴボッ」
* * * * * *
「!」
空気が変わり、シンは目を開ける。
どうやら本当に寝てしまったようだと思いながら、辺りを見回した。いまだ沈めたユキは戻っていない。しかし、気配がした。どこに……と目を凝らしたその瞬間、凄まじい音とともに水柱が立つ。
舌打ちとともにマントで水を避けるも、あたり一面は大雨が降ったかのような惨状だ。
「来たか」
ぞわぞわと体中の血管がざわめく。今まで感じたことのない高揚感に疑問が浮かぶ。
見上げた空には黒いウロコの龍がいた。
赤い瞳、赤と黒のグラデーションの枝分かれして深海魚のように光る角、赤く鋭い爪、紫の皮膜。
「美しいな」
どれをとっても一級品の、極上物。まるでこの世の終わりを運ぶ魔物のような恐ろしい姿。物語でしか聞いたことのない黒龍が、クルクルと回転しながら空を登っていく。
ジリッという音で、ようやく自分がひるんで後ずさったのだと気づく。ひきつるように口角を上げると、シンは興奮から力いっぱい竜笛を鳴らした。
その瞬間、突風がふいてどこからともなくシェリーが飛んでくる。しかしそれはシンのところにはいかず、黒龍のそばをクルクルと旋回して酷く興奮したような雄たけびをあげていた。
《ああ、我が王……! 我が王よ……!! ついにその力をあらわす時がきたか!! 待ちくたびれたぞ!》
シンからすればただギャアギャアと叫んでいるようにしか聞こえないが、黒龍にはハッキリと言葉として聞こえている。
《シェリー! 私、飛べないの!! どうすればいい!? どうしたら飛べる!? な、な、なんでこんな高いところにいるんだろう!?》
《可哀想な愛し子……我が王が飛び方を知らぬのも仕方あるまい。今、龍になったばかりだからな。我が教えてやろう》
そう言うとシェリーは黒龍の下に入り、その体を自らの上に乗せた。
《さあ、ゆっくり翼を動かしてごらん。背筋と胸筋と腹筋の全てを使うのだ》
《何それ難しい……! 怖い!》
ユキがシェリーの背でバタバタと懸命に翼を動かすも、なかなかうまくいかない。
《安心するがいい。このシェリーはお前を絶対に落としはしない。安心して、飛べるまで頑張りなさい。そもそも女子は男に比べると飛べるようになるのが遅いのだ》
《え、シェリー……もしかして私の性別が分かるの!?》
《ほらほら、飛ぶことに集中しなさい。お前の性別をどうして間違えることがあろう。間違えるのは人間と、人型をした知恵のある生物だけであろうな。あやつらは人の形を得る代わりに大事なものを失った。それはあまりにも大きく、多い。だが本人達は気づいていないのだ》
《こう!? こうかな、シェリー!?》
すっかりパニックになったユキではあるが、その体は少しずつ浮いていく。
そしてシェリーから少し離れたところまで前進し、それを見たシェリーは満足げに鼻を鳴らした。
《そうだ、上手いぞ。慣れるまでは人の形でいるといい。少しずつ練習を――》
《あ、あれ……ごめんっ……シェリー、なんか、駄目だ……!》
グラリと眩暈が襲う。
ユキの変化が一瞬にして解かれ、人型となって湖へ落ちていった。
《ああ、なんてことだ……! このままでは……!!》
慌ててシェリーが追いかけるも間に合わず、ユキは湖の中へ落ちていく。
ドボンと派手な水しぶきを上げて、ユキの姿は見えなくなった。
《これはいかん……! 主、我が主よ! 我が王を助けてくれ! 私は子供ではないから、この湖に入れぬのだ!!》
慌てた様子のシェリーがシンに話しかけるも、シンに話が通じるわけではない。
しかし、シェリーに言われるまでもなく、シンはユキを助けるべく湖へ飛び込んでいた。