忘却の彼方へ。
「お前の小鳥が落ち込んでいるようだ」
男は、地下牢の前にくると楽しそうにそう言った。
「……ユキに何があった」
「随分と子供らしからぬ度胸があるな。仲間からの殺気には怯えるくせに、死体や血だまりや飛び散った内臓には怯えない」
「あれを任務に出したのか!? どういうつもりだ! それはお前も望まぬことだろうが!!」
「手違いが起こった。だが私の私兵も出したし、結果的には無事だった」
「そういう問題ではないだろうッ!」
男は面倒くさそうな顔をし、『それよりも』と話題を戻す。
「あれの生活環境はどうなっているのだ」
「……奴隷、だったからか? 奴隷なら酷い扱いを見ているだろう。だから血や内臓に怯えずとも不思議ではない」
「元の世界でも奴隷だったとでも? あの小奇麗な子供が」
そう言われて、アルージャは内心で即座に否定した。
アルージャが初めてユキを抱えたとき、確かに健康的な子供よりは軽いと思った。しかしその手には傷がなく、肌も荒れた様子はない。てっきり高級奴隷の類かとも思ったが、教養は高いものの奴隷特有の人形感はない。
「……一体、どんな生活を送っていたのだろうな」
アルージャは男のつぶやきには答えなかった。
特に答えを期待していたわけでもない男は、少しだけ口角を上げると地下牢をあとにした。
* * * * * *
「自分が呑気すぎる件について考えてみます」
初任務から帰ってきてドラゴニスにしこたま怒られた後、ユキは解放され、グラスは別室に呼び出されてしまった。
気にせず帰れと言われてあたえられた部屋に帰ってきたはいいものの、先ほど頭の片隅によみがえった記憶の一部と思われる映像が気になっていた。
「……異世界に来て、パニックならない。内臓や血、目の前で人が殺される、怖くない。少し驚いたけど……あとは? あとは……何が不自然……?」
お腹は空く。トイレにも行く。眠くなるし、頬をつねれば痛い。感情も何一つかけていないように思うし、体も無事。顔も変わっていないし、背もそのままだ。
極めて普通。この一言であった。
「じゃあ、今まではどうだったん――」
ここで、ユキはようやく気づいた。
「今まで……?」
この世界に来たきっかけの記憶はある。
しかし、ユキにはそれ以外の記憶が全くなかった。今までどうやって生活していたのか、家族構成は? 住んでいた場所は? そう考えた時に、何も思い浮かばなかったのである。
『……四条、ユキ……18歳……』
ごくりと生唾を飲み込む音が部屋に響く。
いったい、どうしてしまったのだろうか。何かを思い出すどころか、わからないことが増えてしまった。
『私の名前は……四条ユキ……18歳……』
じわりと嫌な汗が背を伝い、呼吸が浅くなる。
なぜ、こんな重要なことに今の今まで気づかなかったのかと呆然とする。
『私は……私は――ッ!?』
グラリと世界が揺れ、そのまま床へ倒れこむ。
『うぅっ……な、なにっ……頭っ……なんか、変!!』
酷いめまいで起き上がることができない。
世界はぐるぐるとまわり、ユキはとうとう意識を手放した。
* * * * * *
「何か言いわけはあるか、グラスくん」
至極楽しそうに、シンは笑う。
「……いえ、ありません」
「嘘つけ。あるだろ」
「…………」
ある。
山ほどある。
言いわけというよりは恨み言であるが。しかしそれを言ってもシンに口で勝てる気がしないグラスは、何も言えずにただ地面を見つめる他なかった。
それにシンは謝罪なぞ絶対にしない。それは容易に想像がついた。そう思った理由はない。そういう男であると知っているだけだ。
そもそも、謝罪をする気があるのであれば、折檻部屋にグラスを縄で吊るしたりしないし、間違ってもその下で火なんて焚かない。シンが楽しげに磨いている折檻道具は、自分を怖がらせるためのパフォーマンスであると信じたかった。どれもこれも使う気はなくて脅しの一環なんだろうなと思いつつも、もしかしたら本当に使われてしまうかもしれない……と思うと、グラスはバレないようにこっそりため息をつくしかなかった。
「……」
「お前はユキについてどう思う」
「え? ユキ、ですか……」
フッと頭に思い浮かべるも、何も出てこなかった。
「……えーと」
段々と視線がきつくなっていくシンが視界の端に映り、動揺する。
何か言わねば、と思うも、本当に何一つ感想が出てこなかった。
「何もねぇか」
「い、いやっ……様子は見てますし、色々とあるにはあるんですけど、その……」
とは言いつつも、何も出てこない。
「ねぇんだよ。ありゃしないんだ」
「は?」
「正確に言えば、“色々あるけど色々ありすぎて何も言えない”だろ?」
それだ、と思う。
単語で言えば色々ある。あの任務では物怖じせず、まともな判断でもって王子を助けた。王子を気遣う様子も見られた。そこから言える言葉は冷静沈着、気遣いのできる子、だ。
しかし常にそうなのか、本当にそうなのか、たまたまではないのか……と判断材料に乏しい。
それに言葉を学ぶ意欲もあったし、実際に覚えるのも早い。頭の回転はそこそこ速いようだけど、たまに間抜けなこともしている。
このようにポロポロとした情報は色々ある。しかし、どんな人間かと聞かれると“まだそこまで見えない”としか言いようがない。それぞれの情報がつながらないのだ。
これはシンも同じで、長年騎士をやっている上で非常に珍しいことだった。シンは元々人を見る目があると自負している。なのに、ユキのことはいまだかつてない程に良くわからないのだ。わかるけどわからない。
これが、シンの興味を引いた。
「ま、別にあいつの評価が知りてぇわけじゃねぇんだけどな」
(何が言いたいんだこの人)
シンは自分でも何が言いたいのかよくわかっていなかった。興味をひいたものの、どうすれば相手を知ることができるのかは“考え中”といったところだ。まだ方針も何も決まっていない。
だから、現段階で無理やり答えを出すとしたら、レディスからの報告、また自分で見たものを合わせて考えて、ユキは“少し変わっている”としか言えなかった。
召喚落ち、無色、規格外の魔力をためられる、特定のことに関して酷く冷めている、そして本人は気づいていないかもしれないが、ある一定以上の痛覚を感じない可能性がある……色々細切れの情報はあるが、それがつながらない。
なんとも悩ましく、興味をそそる人物でもあった。なにせ何一つわからないのだから。
「……気にくわねぇなあ」
低い声が聞こえ、グラスは一瞬間を置いて垂れていた頭を跳ね上げるようにしてシンを見た。
気にくわない。その一言で、先日仲間が痛い目を見たところだ。まずい、もしかして今の言葉は自分に向けられたのかと恐る恐るシンの表情を伺うも、長い前髪に隠れて表情が読めない。
「……まさか自分のことですか……? ちょ、ちょっと……! 殺さないで下さいよ……!?」
「あいつは一体なんなんだ?」
グラスの大きめの声量で出された主張は無視される。
シンはボーっとしながら思考を広げていた。
シンがユキの痛覚に関して最初に気づいたのは、手を引いて職場まで連れて行ったときのことだった。色々考えているうちに随分と強く握ってしまい、骨のきしむ音でようやく気づくという間抜けなことをしてしまった。それほどに強く握りしめたというのに、本人は痛いの一言もなければ、痛がるそぶりすら見せなかったのである。
最初はやせ我慢をしているのかと思った。しかし、ちょっと悪戯心がわいて強めに腕をひねり上げたその瞬間でさえも、ユキの目には“グイグイ引っ張られて迷惑”といった色しかなかった。どんなに鍛え上げた軍人でも痛覚はいずれ顔に出る。それが、一切なかった。ましてや、あの時のユキは軍人でもなんでもない。
奴隷だから痛みに鈍感なのだと言えばそれまでだが、奴隷にしては小奇麗すぎるのだ。それに奴隷ほど人形的な感情をしていない。
非常に面倒な人間であると思うと同時に、とても興味深い人間だと思った。
「シンさん……シンさんちょっと……シンさん……!!」
グラスの何度目かの呼びかけにようやく気づく。
視線だけ向ければ、グラスの困ったような表情が視界に映る。
「反省しているのでそろそろ外していただけませんか……! いい加減に熱くて……!!」
何のことかと思いしばらく考え、ようやくグラスの服が煤だらけになっているのに気づいた。
そう言えば火を焚いていたな、なんて思いながら、もがくグラスをしばらく見つめ、シンはゆっくりと扉へ向かう。
「……え、嘘でしょ……! ちょっとシンさん……!! シンさん!?」
背中に投げられる声を無視して、シンは部屋の扉を開けて外へ出た。